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Re:大坂の陣  作者: romane
13/16

第拾参話:講和




十二月の半ば、真田丸に一人の客が訪ねてきた。


徳川方の陣から、白旗を掲げた使者として。


「兄上。ご無沙汰をいたしております」


真田隠岐守信尹。

昌幸の弟で、信繁にとっては叔父にあたる。

武田が滅んだあと徳川に仕え、いまは家康の旗本として重んじられている男だった。


陣屋の中で、兄弟は向かい合った。

昌幸は、扇で膝を叩いた。


「隠岐。大御所の使いで、わしの倅を口説きに来たか」


「さすがは兄上。お見通しで」


信尹は、悪びれもせずに笑った。

それから、信繁の方へ向き直った。


「源次郎。大御所様の仰せじゃ。城を出て徳川に付くなら、信濃一国を与えると」


信繁は、黙って叔父の顔を見ていた。


前回も、この申し出は来た。

初めは十万石と言われ、断ると、信濃一国にまで吊り上がった。


前回の自分は、迷わなかった。


今回も、迷わない。


「叔父上。ありがたきお言葉なれど」


信繁は、手をついた。


「真田の赤を、一国と取り替えるわけには参りませぬ」


信尹は、しばらく信繁を見ていた。

それから、ふっと息を吐いた。


「……そう言うと思うておった」


昌幸が、横から口を挟んだ。


「隠岐。倅には一国で、わしには何もないのか」


「兄上を寝返らせられると思うほど、大御所様もお人好しではござらぬ」


兄弟は、顔を見合わせて笑った。


「されど、兄上。あの出城の戦、徳川の陣では噂で持ちきりにござる」


信尹は、声を落とした。


「大御所様は、真田丸の話をお聞きになって、しばらく黙っておられた。それから、ただ一言」


「何と言うた」


「『安房が生きておると、こうなるか』と」


昌幸は、扇を止めた。

それから、喉の奥で笑った。


「褒め言葉と受け取っておこう」


笑いが収まると、昌幸は、ふと声の調子を変えた。


「源三郎は、どうしておる」


「病で、江戸に残っておりまする。代わりに、倅二人が陣に来ておりまする」


「……そうか」


昌幸は、扇を閉じた。


「孫の顔を、敵陣越しに見ることになるとはの」


信尹は、何も言わなかった。

帰り際、信尹は陣屋の戸口で一度だけ振り返った。


「兄上。御身、お大切に」


昌幸は、何も答えなかった。


ただ、扇を軽く上げて見送った。


一つの家が、二つに分かれる。

犬伏の夜に見た光景を、信繁は、父の世代でもう一度見ていた。




十二月十五日の夜、信繁は昌幸と刑部に告げた。


「明日、備前島から大筒が放たれます。その一発が、淀の方様の御殿に当たる」


刑部が、布の奥で顔を上げた。


「前回、その弾で侍女が何人も死にました。淀の方様は、それで心が折れた。三日後には、講和がまとまります」


昌幸は、目を閉じて聞いていた。


「弾一つ避けたところで、和睦が止まるとは限らんぞ」


「わかっております。されど、死なずに済む者がおります」


昌幸は、片目だけを開けた。


「ならば、やってみい」


「その御殿から、淀殿を移せばよい」


刑部が言った。


「誰が説く。わしらの言うことなど、あの方は聞かぬ」


「修理殿よ」


刑部は、あっさりと答えた。


「修理殿は、淀殿の乳兄弟じゃ。あの男の言うことなら、淀殿は聞く。修理殿には、真田の物見が、徳川の大筒の狙いを掴んだと言えばよい」


信繁は、その夜のうちに治長を訪ねた。

治長は、信繁の話を聞いて眉をひそめた。


「大筒が、お方様の御殿を狙っていると」


「確かにござります」


「なぜ、そこまでわかる」


「真田の草の者は、徳川の陣の奥まで入っております」


治長は、長いこと黙っていた。


「左衛門佐殿は、時折、まだ起きておらぬことを、見てきたように語られる」


信繁は、答えなかった。


「真田丸の戦の折も、そうであった。徳川の兵がどこから来るか、どこで足を止めるか、そこもとは、すべて先に知っておるような顔をしておられた」


治長は、信繁の目をじっと見た。


疑いの目ではなかった。

何かを確かめようとする目だった。


真田丸の戦のあとから、この男の目は、少しずつ変わり始めていた。


やがて、治長は小さく息を吐いた。


「……わかり申した。お方様の御身に関わることなら、それがしが疑うてどうする。お方様には、それがしからお伝えいたそう」




十二月十六日。


備前島の方角で、雷のような轟音が鳴った。


大筒だった。


一発、二発。

城の瓦が砕け、土煙が上がる。


そして三発目が、本丸の奥の御殿の屋根を突き破った。


淀殿の御殿だった。


信繁は、真田丸からその土煙を見ていた。


――お方様の御殿に、弾が。

――侍女衆が、何人も。


前回、そう叫びながら真田丸に駆け込んできた伝令の顔を、信繁はいまも覚えていた。


半刻ほどして、才蔵が報せを持ってきた。


「御殿は半ば崩れましたが、中は空にござりました。淀の方様は、昨夜のうちに奥の別の間へお移りに。侍女衆にも、怪我人一人ございませぬ」


信繁は、長い息を吐いた。


変えた。


前回、この弾は人を殺した。

今回は、誰も殺さなかった。


「ただ……」


才蔵が、言い淀んだ。


「お方様は、崩れた御殿の前で、長いこと立ち尽くしておられたと」


その安堵も、長くは続かなかった。


その日の夕刻、本丸から使いが来た。


講和の話が、進み始めた、と。




徳川からの使者は、阿茶局だった。


家康の側室で、奥向きのことを任されている女だった。


豊臣からは、常高院が出た。


淀殿の妹で、京極家に嫁いだ人だった。

姉の身を案じて、城と徳川の陣との間を行き来していた。


女たちの口から、和睦の条件が城にもたらされた。


本丸のほかは、二の丸も三の丸も取り壊す。

城を囲む堀は、埋める。

その代わり、秀頼と淀殿の身は保証し、城に入った浪人たちの罪も問わぬ。


前回と、寸分違わぬ条件だった。


「なぜだ」


本丸で条件を聞かされて戻った信繁は、真田丸の陣屋で、拳を床に叩きつけた。


「弾は誰も殺さなかった。淀の方様が怯える理由は、もうないはず」


「理由は、一つではなかったのよ」


刑部が、静かに言った。


「大筒の音は、毎日鳴り続けておる。誰も死なずとも、あの音は城の奥まで届く。それに、城の火薬が心もとない。真田丸の戦で、わしらが火薬を一蔵、空にしたからの」


信繁は、顔を上げた。


「浪人どもに払う銭も、もう底が見えておる。冬の陣が長引けば、城の中から崩れる。修理殿は、それを一番よう知っておる」


刑部は、見えぬ目を伏せた。


「一つ火を消しても、別の火が上がる。大きな流れというのは、そういうものじゃ」


昌幸は、何も言わなかった。

ただ、扇を開いたり閉じたりしていた。


その夜の軍議は、荒れた。


「堀を埋めると申されるか!」


又兵衛が、床を叩いた。


「堀のない城など、鎧を脱いだ武者も同じ。次に攻められたら、ひとたまりもござらぬぞ」


「次は、ござらぬ」


有楽が、穏やかに言った。


「和を結べば、それで終わりじゃ。大御所も、もうお年。二度も兵を出すとは思えませぬな」


信繁は、拳を握った。

前回も、この男は同じことを言った。


そして、次は来た。


又兵衛が、昌幸を振り返った。

安房守殿、何か言われよ、という顔だった。


だが、昌幸は扇を閉じたまま、口を開かなかった。

毛利勝永も、腕を組んだまま、目を閉じていた。


その時、秀頼が初めて、はっきりと口を開いた。


「余は、まだ戦える」


広間が、静まり返った。


信繁は、末席から上座を見た。

秀頼の大きな手が、膝の上で握りしめられていた。


「真田丸は、一度も破られておらぬ。なぜ、いま和を乞う」


御簾の奥で、衣擦れの音がした。


「秀頼殿」


淀殿の声だった。


「あなたの御身が、何より大事なのです」


治長が、膝を進めた。


「秀頼様。この和睦は、豊臣の御家を守るためのもの。いまは、こらえてくださりませ」


治長の声は、穏やかだった。

だが、その目は、秀頼の顔をまともに見ていなかった。


秀頼は、それ以上何も言わなかった。


慶長十九年、十二月二十日。


和睦が、結ばれた。


その日、大筒の音が止んだ。


城の中に、久しく聞かなかった静けさが戻った。

浪人たちは、焚き火を囲んで、誰からともなく国の話を始めた。


生きて帰れるかもしれぬ。

そう思った者も、少なくなかった。


信繁は、その輪に加わらなかった。


この静けさが、春の終わりまでしか続かぬことを知っていた。




年が明けた。


慶長二十年、正月。


徳川の人足たちが、城を囲む堀を埋め始めた。


その数は、数万とも言われた。

昼は土を担ぎ、夜は松明を焚いて、また土を担いだ。

櫓を崩した材木も、塀を倒した瓦も、すべて堀に投げ込まれた。


約定では、外の堀は徳川が、内の堀は豊臣が埋めることになっていた。

だが、徳川の人足たちは、内も外もなく、片端から土を投げ込んでいった。


豊臣方が抗議しても、手を休めることはなかった。


前回と、同じだった。


真田丸も、取り壊された。


赤い旗が引き抜かれ、土塁が崩され、空堀が埋められていく。

刑部が絵図の上で足した、あの溝も、土の下に消えた。


浪人たちは、黙ってそれを見ていた。


誰も、口をきかなかった。


信繁は、崩れていく真田丸の跡に立っていた。


知っていた。

こうなることを、知っていた。


それでも、何も止められなかった。


前回も、信繁はこの光景を一人で見ていた。

父は九度山の土に眠り、刑部は関ヶ原に散っていた。


相談する相手は、誰もいなかった。


「源次郎」


背後で、父の声がした。

昌幸が、杖をつきながら、崩れた土塁の上を歩いてきた。


「そう、しょげた顔をするな」


「父上」


「堀を埋められるのは、わかっておった。お主が教えてくれたからの」


昌幸は、足元の土を杖の先で突いた。


「わかっておることに、何も備えぬほど、わしは間抜けではない」


信繁は、父の顔を見た。

昌幸は、にやりと笑った。


それから、杖の先で、地面のある一点を叩いた。


こつ、と。


乾いた音ではなかった。

土の下が、空になっている音だった。


「才蔵に掘らせておる」


昌幸は、声を低くした。


「真田丸の跡から、城の中へ通じる穴じゃ。堀を埋める人足どもの土が、上を覆い隠してくれる。徳川は、自分の手で、わしらの抜け穴に蓋をしてくれておるのよ」


信繁は、息を呑んだ。


後の世に、大坂の南の社には『真田の抜け穴』と呼ばれる穴が残り、城まで続いていたと語り伝えられることになる。


その穴が、いま、信繁の足の下にあった。


「城は埋められても、穴は埋められぬ」


昌幸は、満足げに杖をついた。


「何に使うかは、まだ決めておらん。だが、いずれ役に立つ」


刑部が、才蔵に手を引かれて、崩れた土塁の陰から現れた。


「安房守殿。その穴、わしにも使わせてもらうぞ」


「刑部殿は、何に使う」


「さて」


刑部は、布の奥で笑った。


「目の見えぬ者には、穴の中も外も同じことよ。わしほど、穴を抜けるのに向いた者はおるまい」


昌幸は、鼻を鳴らした。

それから、信繁に向き直った。


「源次郎。この穴のことは、ここにおる者だけの秘じゃ。修理殿にも、まだ言うな」


「毛利殿には」


昌幸は、少し考えた。


「あの男には、いずれ、わしから話す」




その日の夕刻、信繁は本丸に呼ばれた。


天守の一室で、秀頼が待っていた。


前と同じように、窓辺に立っていた。

窓の外には、埋め立てられていく堀と、崩された真田丸の跡が見えた。


「左衛門佐」


「はい」


「すまぬ」


秀頼は、振り返らずに言った。


「余は、また何も言えなんだ。言うたが、通せなんだ」


秀頼は、窓の外を見下ろしたまま続けた。


「あの出城は、ここからよう見えた。赤い旗が、毎朝、風に鳴っておった。余は、毎朝それを見に、ここへ上がっておったのじゃ」


その出城は、もう無い。

信繁は、秀頼の背中を見ていた。


あの日、窓の桟を握りしめていた手が、いまは、だらりと下がっていた。


「秀頼様」


「なんだ」


「仰せになりました」


秀頼が、振り返った。


「余は、まだ戦える、と。あの広間で、皆の前で、はっきりと」


信繁は、手をついた。


「前に……それがしの知る秀頼様は、その一言さえ、口になさいませんでした」


秀頼は、怪訝な顔をした。

信繁は、それ以上は言わなかった。


ただ、窓の外を見た。


堀は埋められた。

真田丸は消えた。

大きな流れは、前回と同じ形に戻っていった。


だが、この方は、一言を口にした。


前回にはなかった一言を。


「夏が、ござります」


秀頼は、しばらく黙っていた。

それから、窓の外の、埋められた堀を見下ろした。


「……夏、か」


その手が、もう一度、窓の桟を握った。


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