第拾四話:己の赤
二月に入ると、城を出ていく者が目立ち始めた。
堀のない城は、もう城ではない。
冬の陣で配られた銭は、とうに尽きている。
それに、和睦の約定には、城に入った浪人の罪は問わぬ、とあった。
いま出ていけば、誰にも咎められずに国へ帰れる。
朝ごとに、大手の門から、荷を背負った男たちが三々五々出ていった。
信繁は、門の脇の櫓から、それを見ていた。
隣で、内記が指を折っていた。
「今朝だけで、三十と七人。そのうち、赤を着ておった者が九人」
門の脇には、畳まれた赤い陣羽織が、いくつか置き去りにされていた。
誰が置いたのかは、わからない。
持って帰るには目立ちすぎる色だと思ったのか。
それとも、赤を着たまま城を出るのが、恥ずかしかったのか。
「殿。止めなくてよいのでござるか」
「止めぬ」
信繁は、門から目を離さなかった。
前回も、この時期、城を去る者は多かった。
信繁は、それを見ないようにしていた。
去っていく背中を見れば、自分の心も揺らぐ気がしたからだ。
今回は、一人残らず、見ておこうと思った。
門をくぐりかけた若い浪人が、ふと櫓を見上げた。
信繁と、目が合った。
男は、慌てたように赤い陣羽織を脱ぎかけ、それから手を止めた。
しばらく迷ったあと、陣羽織を着たまま、櫓に向かって深く頭を下げた。
そして、門の外へ出ていった。
信繁も、黙って頭を下げ返した。
背後で、杖の音がした。
刑部が、才蔵に手を引かれて櫓に上がってきた。
「数えておるのか、内記殿」
「はっ」
「去る者を数えるな。残る者を数えよ」
刑部は、門の方へ顔を向けた。
見えぬ目で、出ていく足音を聞いているようだった。
「去る者は、去ればよい。夏に城に残るのは、自分で残ると決めた者だけになる。それは、冬の五千より強い」
内記は、しばらく黙っていた。
それから、折っていた指を、そっとほどいた。
三月十日。
信繁は、陣屋で文を書いていた。
宛先は、姉の夫、小山田主膳茂誠だった。
兄・信之に仕え、上田にいる。
九度山にいた頃も、姉夫婦は折にふれて文や品を送ってくれた。
前回も、この日に、同じ相手に文を書いた。
何を書いたかは、覚えていた。
一字一句、覚えていた。
書いたあとで二度と読み返さなかった文ほど、よく覚えているものだった。
信繁は、筆を走らせた。
『殿様御ねんごろも、大かたの事にてはこれなく候へども、よろず気づかいのみにて御座候』
秀頼様のご厚情は、並大抵のものではない。
されど、何かと気を遣うことばかりで。
前回、この一行は、ほとんど愚痴だった。
豊臣譜代の重臣たちに妬まれ、軍議では退けられ、秀頼のご厚情だけが頼りだった。
今回も、気を遣うことは多い。
だが、ご厚情は、前回よりずっと重かった。
あの窓辺で、桟を握りしめる手を見てしまったからだ。
信繁は、次の行に移った。
『さだめなき浮世に候へば、一日さきは知れず候、我々事などは浮世にあるものとはおぼしめし候まじく候』
定めのない世の中ゆえ、明日のことはわからない。
私のことなど、もうこの世にある者とは思ってくださいますな。
筆が、そこで止まった。
前回、この一行は、別れの言葉だった。
死ぬと決めた男が、姉に宛てて書いた、最後の挨拶だった。
今回は、どうか。
死ぬと決めたわけではない。
父がいる。
刑部がいる。
島津の『いつの日か』がある。
それでも、筆は迷わなかった。
死んでも、生きても、真田左衛門佐は、この春を最後に浮世から消える。
なぜか、そのことだけは、前回も今回も変わらぬ気がした。
「同じ文か」
いつの間にか、昌幸が背後に立っていた。
「はい。一字も違えずに」
昌幸は、文を覗き込んだ。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「浮世にあるものとは思うな、か。うまいことを書く」
「父上」
「褒めておるのじゃ。死んだ者は、もう誰にも追われぬ」
昌幸は、それだけ言って、出ていった。
信繁は、父の言葉の意味を、しばらく考えていた。
三月の末、駿府から返答が届いた。
城に浪人を集め、堀を掘り返し、兵糧を買い込んでいる。
和睦の約定に背くものである。
そのうえで、二つに一つを選べ、という。
城の浪人を、ことごとく追い払うか。
秀頼が大坂を出て、大和か伊勢へ移るか。
前回と、同じ条件だった。
だが、それを携えてきた徳川の使者は、文に書かれていないことを、口上で一つ付け加えた。
「真田安房守殿を、城からお出しなされませ。さすれば、大御所様のお怒りも解けましょう」
千畳敷が、ざわめいた。
前回には、なかった言葉だった。
前回、昌幸は、もうこの世にいなかったのだから。
使者が去ったあと、軍議が開かれた。
「国替えなど、論外じゃ」
淀殿の声が、御簾の奥から響いた。
「太閤殿下のお城を出て、どこへ行けと申すのです」
それについては、誰も異を唱えなかった。
前回も、そうだった。
残るは、浪人の追放と、安房守の一件だった。
有楽が、扇を口元に当てた。
「浪人をすべて追い払えとは、無理な話。されど、安房守殿お一人ならば」
有楽は、ちらりと昌幸を見た。
「安房守殿お一人で豊臣の御家が安んじるなら、安いものではござらぬか」
又兵衛が、床を蹴って立ち上がりかけた。
それより早く、勝永が口を開いた。
「安房守殿を出すなら、それがしも城を出申す」
静かな声だった。
「真田丸を守った者を差し出して、次に誰を守れましょうや」
有楽は、扇の陰で口をつぐんだ。
昌幸だけが、面白そうに笑っていた。
「わしの首一つで済むなら、安いものよ。ただ、首一つで済んだためしは、ないがの」
その時、上座から声がした。
「ならぬ」
秀頼だった。
「安房守は、余の将じゃ。余の将を差し出して、何の主か」
広間が、静まり返った。
信繁は、御簾を見た。
衣擦れの音は、しなかった。
治長が、膝を進めた。
「秀頼様の、仰せのとおりに」
それで、決まった。
上座の秀頼が、一瞬だけ、末席の信繁を見た。
信繁は、黙って頭を下げた。
冬の陣で、秀頼の言葉は三度、母の声に消された。
四度目の言葉は、消されなかった。
国替えも、浪人の追放も、安房守の引き渡しも、すべて断る。
それは、戦をするということだった。
軍議のあと、刑部が低く言った。
「文には書かず、口上で来たか」
「はい」
「表には残せぬ話よの。大御所は、安房守殿の名を、書き残したくなかったのじゃ」
刑部は、それ以上は言わなかった。
数日後、有楽が城を出た。
前回も、この男は、夏を待たずに城を去った。
今回も、同じだった。
変わるものと、変わらぬものがある。
信繁は、それを一つずつ数えるようになっていた。
四月四日、大御所が駿府を発った。
名目は、尾張にいる九男の婚儀だった。
だが、それが名目にすぎぬことは、城の誰もが知っていた。
才蔵がその報せを持ってきた翌朝、昌幸は、真田の者たちを、もう一度城の南の野に集めた。
真田丸は、もう無い。
野は、埋められた堀と崩された土塁のせいで、かえって平らになっていた。
集まったのは、四千ほどだった。
冬には、五千いた。
赤い具足の列は、ところどころ歯が抜けたように隙間が空いていた。
昌幸の前に、大きな樽が運ばれてきた。
冬と同じ、朱の樽だった。
「戦が、決まった」
昌幸が言った。
「今度の戦は、冬とは違う。堀も、真田丸も無い。野で、徳川の大軍とぶつかる。出丸の陰から鉄砲を撃っておればよい戦ではない」
浪人たちは、黙って聞いていた。
「去りたい者は、今日、去れ。止めはせぬ」
ざわめきが起きた。
「赤は、脱がずともよい。持って帰れ」
昌幸は、樽の脇に積まれた陣羽織の一枚を、杖の先で持ち上げた。
二月から、門の脇に置き去りにされてきた赤だった。
「国に帰って、孫に話せ。真田の赤を着て、大坂で徳川を追い返したとな。それは、嘘ではない。お主らは、本当にそれをやったのじゃ」
昌幸は、陣羽織を、そっと樽の縁に掛けた。
「冬の赤は、わしが着せた」
昌幸の声が、低くなった。
「夏の赤は、己で選べ」
しばらく、誰も動かなかった。
やがて、列の後ろの方で、何人かが静かに背を向けた。
一人、また一人と、野を去っていく。
誰も、その背中を罵らなかった。
去る者の中には、振り返って、深く頭を下げていく者もいた。
信繁は、その背中を見送った。
去る者を数えるな。
残る者を数えよ。
刑部の言葉を、胸の内でくり返していた。
やがて、列の前の方で、一人の男が進み出た。
冬の朝、最初に籠手を朱に浸した男だった。
男は、樽の前で、自分の籠手を外した。
冬に染めた朱は、雨と泥に褪せて、くすんだ色になっていた。
男は、それを、もう一度朱の中に沈めた。
引き上げた籠手は、冬よりも深い赤に光っていた。
男が列に戻ると、次の者が樽の前に立った。
その次の者も。
又兵衛が、具足一揃いを担いで、どかどかと列に割り込んできた。
胴も、草摺も、兜も、まとめて樽の前に下ろした。
「後藤殿、それは」
「冬に、わしは真田の者ではない、と言うたな」
又兵衛は、にやりと笑った。
「夏は、半分くらいは真田の者じゃ」
浪人たちの間から、笑いが起きた。
冬の朝には、なかった笑いだった。
内記が、黙って自分の籠手を外していた。
老いた手が、ゆっくりと朱の中に沈んだ。
列の端で、大助が、父を見上げていた。
信繁は、頷いた。
大助は、樽の前に進み、小さな籠手を朱に浸した。
信繁も、自分の籠手を外した。
前回、夏の陣の前に、信繁は兵を赤く染め直した。
死に場所を求める者たちの印として。
自分も、その一人だった。
今回は、違う。
信繁は、籠手を朱の中に沈めた。
生きて帰るための色を、もう一度、自分の手で選んだ。
野の端で、勝永がその様子を見ていた。
昌幸が、杖をついて近づいた。
「毛利殿は、染めぬのか」
「毛利の者は、毛利の色で参りまする」
勝永は、そう言ってから、樽の縁の朱に、指を一本だけ浸した。
その指で、自分の采配の柄に、細い線を一本引いた。
「これくらいは、お許しくだされ」
昌幸は、何も言わずに笑った。
その日、野に残ったのは、三千と五百ほどだった。
刑部は、その数を聞いて、満足げに頷いた。
「よい数じゃ」
その夜、昌幸は、刑部と信繁を陣屋に呼んだ。
灯りの下に、大坂から河内、大和へかけての絵図が広げられていた。
「さて、源次郎」
昌幸は、扇で膝を叩いた。
「夏の話を、聞かせよ」
信繁は、絵図の上に指を置いた。
大坂から東へ、生駒の山並みの切れ目。
大和から河内へ抜ける、細い道。
「五月六日。徳川の大和口の軍勢が、この国分の隘路を抜けてまいります」
「それを、山の出口で叩く」
刑部が言った。
「後藤殿の策じゃな。狭い道を抜けてくる敵は、頭から一つずつ潰せる」
「はい。前回も、そう決まりました」
信繁の指が、道明寺の上で止まった。
「その朝、霧が出ました」
昌幸と刑部は、黙って聞いていた。
「濃い霧でした。後藤殿は夜のうちに出て、約束の刻限に、約束の場所に着いた。それがしと毛利殿は、霧で道を失い、遅れた」
信繁は、指を絵図から離した。
「着いた時には、後藤殿は、もう討たれておりました」
陣屋の中が、静かになった。
灯りが、小さく揺れた。
「霧、か」
昌幸が、ぽつりと言った。
「霧は、人には止められん」
「はい」
「だが、霧の中で道を失わぬ手は、いくらでもある」
昌幸は、刑部の方を見た。
刑部は、布の奥で笑っていた。
「安房守殿。目の見えぬ者に、霧の話をなさるか」
「お主には、霧も晴れも同じであろう」
「左様。わしは、もう長いこと、霧の中を歩いておる」
「七日の話は、そのあとで聞く。まずは、六日の霧じゃ」
二人の知恵者は、絵図の上に顔を寄せた。
信繁は、それを見ていた。
前回、信繁はこの絵図を、一人で睨んでいた。
霧のことなど、考えもしなかった。
今回は、知っている。
あの朝、霧が出ることを。
そして、霧の中を歩くことにかけては、この世の誰よりも長けた男が、隣にいることを。
陣屋の外には、まだ朱の匂いが残っていた。
慶長二十年、四月。
二度目の夏が、来ようとしていた。




