第拾伍話:道明寺
五月五日の夜、平野の村に、三人の将が集まった。
後藤又兵衛。
毛利勝永。
そして、信繁。
大和口から、徳川の大軍が大坂へ向かっていた。
その数、三万を超える。
生駒の山を越え、国分の狭い道を抜けて、河内の野へ出てくる。
それを、山の出口で叩く。
又兵衛の策だった。
「わしが先に出る。子の刻に平野を発って、夜明けまでに国分に着く。お主らは、あとから来い。道明寺で落ち合うて、山から出てくる徳川を頭から潰す」
前回と、同じ策だった。
同じ村で、同じ顔ぶれで、同じ言葉を聞いた。
勝永が、三つの盃に酒を注いだ。
「別れの盃というやつでござるな」
「縁起でもないことを言うな」
又兵衛は笑って、盃を干した。
「そういえば、わしのところにも来たぞ。徳川の使いが」
「後藤殿にも」
「播磨一国じゃと。城を出て徳川に付けば、くれてやると」
又兵衛は、空の盃を指先で回した。
「お主は、信濃一国であったそうな。わしは播磨。安房守殿には、何もなし」
勝永が、小さく笑った。
「それがしには、使いすら来ませなんだ」
「そりゃあ、毛利殿は、寝返らぬ顔をしておるからよ」
又兵衛は、盃を置いた。
「断った。一国もろうて畳の上で死ぬより、ここで暴れる方が面白い」
信繁は、盃を手にしたまま、口をつけなかった。
「後藤殿」
「何じゃ」
「徳川は、こちらの思うより早く動いております。後藤殿が国分に着く頃には、もう山を越えておるやもしれませぬ」
又兵衛の目が、細くなった。
「それも、安房守殿の読みか」
「……はい」
又兵衛は、しばらく黙っていた。
それから、盃を置いた。
「ならば、なおのこと、わしが先に行かねばならん」
「後藤殿」
「敵が山を越えておったら、誰かが山の上に陣取って、足を止めねばならん。止めねば、大坂まで一息に来られる。その役は、先に着いた者の役じゃ」
前回も、この男は、そうした。
徳川がすでに国分を越えていると知って、それでも、ただ一人で小松山に登った。
そして、誰も来ないまま、討たれた。
わかっていても、この男は同じ道を選ぶ。
そういう男だった。
だから、変えられるのは、自分の方だけだった。
「では、後藤殿。一つだけ、お約束くだされ」
「何じゃ」
「山に着いたら、半刻ごとに陣太鼓を打ってくだされ。三つ打って、間を置いて、また三つ」
「太鼓?」
「刑部殿の策にござる。霧は目を奪うが、耳は奪わぬ、と」
又兵衛は、怪訝な顔をした。
「霧など、出ておらんぞ」
「出まする」
信繁は、はっきりと言った。
「明日の朝、濃い霧が出まする」
又兵衛と勝永が、顔を見合わせた。
それから、又兵衛は、腹を抱えて笑い出した。
「真田の者は、天気まで読むか。よかろう。三つ打って、間を置いて、三つじゃな」
又兵衛は、立ち上がった。
赤く染め直した具足が、篝火に照らされて、血のように光った。
「太鼓が鳴っておるうちは、わしは生きておる。急いで来いよ、真田殿」
丑の刻、信繁と勝永の軍勢は、平野を発った。
半刻も行かぬうちに、霧が出た。
白い霧が、地の底から湧くように立ちこめ、松明の火を呑み込んでいった。
前を行く兵の背中が、見えない。
自分の手の先さえ、ぼやけて見えた。
前回と、同じ霧だった。
前回、この霧の中で、軍勢は道を失った。
田の畦に迷い込み、川の浅瀬で足を取られ、気がつけば、来た道を戻っていた。
夜が明けても、霧は晴れなかった。
信繁は、馬を下りた。
道の脇に打たれた杭に、一本の紐が結ばれていた。
真田紐だった。
朱に染めた紐が、杭から杭へ、霧の奥へと続いている。
昨日の昼から、才蔵の手の者たちが、平野から道明寺まで、三里の道に張り渡したものだった。
紐売りに化けて、十五年、上方の道という道を歩いてきた者たちだった。
――目の見えぬ者は、杖と紐で歩く。
刑部の声が、耳の奥によみがえった。
――霧の中では、目明きも目が見えぬ。ならば、目の見えぬ者の歩き方をすればよい。
信繁は、紐に手をかけた。
「紐を離すな。前の者の背と、この紐だけを頼りに歩け」
伝令が、霧の中を後ろへ走っていった。
軍勢は、ゆっくりと動き出した。
勝永が、馬を寄せてきた。
霧の中で、顔の輪郭だけが、かろうじて見えた。
「霧の中に、道を張っておかれたか」
「霧が出ると知ったのは、ずいぶん前にござる」
勝永は、紐を見下ろして、それきり何も訊かなかった。
信繁のすぐ後ろで、大助が紐を握っていた。
霧の中で、息子の顔は見えなかった。
ただ、紐を通して、小さな震えが伝わってきた。
信繁は、振り返らずに言った。
「怖いか」
「……はい」
「わしもじゃ」
紐の震えが、少しだけ止まった。
前回、信繁はこの道を、怒鳴りながら歩いた。
道を探せ、急げ、後藤殿が待っておる、と。
怒鳴れば怒鳴るほど、兵は霧の中で散り散りになった。
今回は、誰も怒鳴らなかった。
紐が、黙って道を教えていた。
寅の刻。
霧の奥で、遠く、鉄砲の音が鳴り始めた。
又兵衛が、戦を始めたのだ。
信繁は、紐を握る手に力を込めた。
やがて、鉄砲の音の合間に、太鼓が聞こえた。
どん、どん、どん。
間を置いて、もう一度。
どん、どん、どん。
――太鼓が鳴っておるうちは、わしは生きておる。
信繁は、太鼓の数を数えながら歩いた。
半刻。
また、半刻。
太鼓は、鳴り続けていた。
辰の刻、霧が薄れ始めた。
紐の終わりの杭は、道明寺の門前に打ち込まれていた。
その先に、小松山が見えた。
山の斜面が、徳川の旗で埋まっていた。
水野、堀、松倉、本多。
旗の数は、数えきれなかった。
その旗の海の中に、赤い点が一つ、まだ残っていた。
又兵衛だった。
霧の名残の中でも、その赤だけは、はっきりと見えた。
前回、信繁がここに着いたのは、午の刻だった。
山の上に、赤はなかった。
今回は、まだ、ある。
太鼓が、また鳴った。
どん、どん、どん。
間を置いて――
次の三つが、来なかった。
信繁は、もう馬に飛び乗っていた。
「大助! 毛利殿に伝えよ。真田は、山へ上がる!」
赤い軍勢が、霧の名残を裂いて、小松山の斜面へ雪崩れ込んだ。
徳川の兵が、背後から現れた赤に、一瞬、足を止めた。
その一瞬で、信繁は斜面を駆け上がった。
槍で払い、馬で蹴散らし、上へ、上へ。
斜面には、骸がいくつも転がっていた。
又兵衛の兵だった。
夜明けから、この山で、たった二千と八百で、徳川の大軍を食い止めてきた者たちだった。
その骸の間を、徳川の兵が、山頂へ向かって這い上がっていく。
信繁は、その背中に、赤い軍勢ごと突っ込んだ。
徳川の列が、横から裂けた。
松の木の根方に、赤い具足の男が座り込んでいた。
又兵衛だった。
腰のあたりから、血が溢れていた。
傍らで、一人の家来が、刀を振りかぶっていた。
又兵衛の家来、吉村武右衛門だった。
主の首を、敵に渡さぬための刀だった。
あと、十間。
前回、信繁は、この十間を詰められなかった。
家康の前でも。
そして、この山でも。
「待てッ!」
吉村の手が、一瞬、止まった。
信繁は、馬から飛び降り、斜面を駆け上がった。
吉村の刀が振り下ろされる寸前、信繁の槍の柄が、その刀を弾いた。
吉村が、たたらを踏んだ。
又兵衛が、血の気の失せた顔で、信繁を見上げた。
「……遅いぞ、真田殿」
「太鼓が、止まりましたゆえ」
「ばちを持っておった者が、撃たれてな」
又兵衛は、笑おうとして、咳き込んだ。
「わしは、もう走れん。ここで腹を切る。首は武右衛門が隠す。徳川には渡さん」
前回、又兵衛の首は、ついに見つからなかった。
家来が介錯し、首を敵に渡さず、どこかに埋めたと聞いた。
「なりませぬ」
「何?」
――間に合うたなら、後藤殿には、一度死んでもらえ。わしのようにな。
刑部は、そう言った。
信繁は、吉村の方を向いた。
「吉村殿。後藤殿は、この山で討死された。首は、そなたが介錯し、敵に渡さず埋めた。そう、触れて回られよ」
吉村が、目を見開いた。
又兵衛は、しばらく信繁の顔を見ていた。
「わしに、生き恥を晒せと申すか」
「後藤又兵衛は、道明寺で、ただ一人山に登り、徳川の大軍を半日食い止めて、見事に討死した。天下の誰もが、そう語り継ぎまする」
信繁は、又兵衛の目をまっすぐに見た。
「それのどこが、生き恥にござりますか」
又兵衛は、口を開けたまま、信繁を見ていた。
それから、血に濡れた歯を見せて、笑った。
「……真田の者は、まこと、たちが悪い」
「半分は、後藤殿も真田の者にござる」
「言うたな、わしが」
又兵衛は、赤く染めた兜を脱ぎ、吉村に押しつけた。
「これを埋めよ。首の代わりじゃ」
吉村は、兜を抱いて、深く頭を下げた。
斜面の陰から、才蔵が現れた。
手の者たちが、戸板を担いでいた。
「後藤様を、紐の道でお運びいたしまする」
戸板に乗せられた又兵衛は、霧の名残の中へ消えていった。
来た時と同じ、朱の紐を辿って。
吉村は、兜を抱いたまま、山の斜面に立った。
そして、腹の底から叫んだ。
「後藤又兵衛基次、討死ッ!」
声は、霧の晴れかけた山々に響き渡った。
一拍おいて、徳川の兵の間から、どっと勝鬨が上がった。
信繁は、その声を聞いていた。
こうして、天下に語り継がれる話が、一つ出来上がった。
後藤又兵衛は、道明寺で死んだ。
その話は、もう誰にも覆せない。
正午を過ぎて、霧はすっかり晴れた。
山を下りた真田勢の前に、新手が現れた。
伊達政宗の軍勢だった。
先鋒は、片倉小十郎重長。
馬上から鉄砲を放つ騎馬の群れが、轟音とともに押し寄せてきた。
誉田の野で、赤と伊達がぶつかった。
伊達の鉄砲が火を噴くたびに、赤い兵が倒れた。
倒れた者の後ろから、次の赤が槍を構えて前へ出た。
退く者は、いなかった。
夏の赤は、己で選んだ赤だった。
乱戦の中で、胸に小さな十字架を下げた男が、黙々と槍を振るっていた。
ときおり、胸の前で、指で十字を切った。
信繁は、槍を振るいながら、息子の姿を探していた。
大助が、腿から血を流していた。
前回も、この子は、ここで腿に傷を負った。
「父上、かすり傷にござる!」
大助は、笑っていた。
前回は、笑っていなかった。
赤は、一歩も退かなかった。
やがて、伊達の騎馬が、潮が引くように下がっていった。
未の刻、城から伝令が来た。
八尾、若江の戦で、木村長門守重成、討死。
長宗我部盛親の軍勢も、崩れて退いた。
道明寺では、薄田隼人も討たれた。
城へ退け、という命だった。
信繁は、伝令の言葉を、黙って聞いていた。
木村重成も、薄田隼人も、前回と同じ場所で、同じように死んだ。
救えたのは、一人だけだった。
それも、死んだことにして、ようやく救えた一人だった。
信繁は、殿に立った。
徳川の軍勢は、追ってこなかった。
朝から戦い続けて、疲れ果てていた。
信繁は、馬首を返し、徳川の陣に向かって声を張り上げた。
「関東勢、百万も候え、男は一人もなく候!」
声は、夕方の野に響き渡った。
それでも、追ってくる者はいなかった。
その声を背に、勝永は、一つの備えも乱さずに兵を退いていた。
その夜、真田の陣屋の離れに、戸板が一枚運び込まれた。
弾は、腰の骨をかすめて抜けていた。
医者が傷を縫う間、又兵衛は一声も上げなかった。
信繁の妻が、湯と晒を運んできた。
又兵衛は、慌てて身を起こしかけ、傷の痛みに顔をしかめた。
「これは、奥方。死人に、かような」
「死人の方の世話なら、慣れておりまする」
妻は、静かに微笑んだ。
父が関ヶ原で死んだと信じて、二年を過ごした娘だった。
その父は、九度山の離れで、生きていた。
刑部が、才蔵に手を引かれて入ってきた。
「後藤殿」
「……刑部殿か」
「死んだ気分は、いかがでござる」
又兵衛は、天井を見たまま、しばらく黙っていた。
「刑部殿は、十五年も、これを」
「慣れれば、悪うない」
刑部は、布の奥で笑った。
「死に様は、天下にくれてやった。生き様は、わしのものよ」
戸口に、杖の音がした。
昌幸が、又兵衛の顔を覗き込んだ。
「後藤殿。よう死になされた」
「……狸め」
又兵衛は、苦い顔で目を閉じた。
信繁は、縁側に出た。
前回、この夜、又兵衛はいなかった。
道明寺の山のどこかに、首のない骸となって横たわっていた。
今回は、離れの奥で、狸と盲の知恵者に挟まれて、苦い顔をしている。
空に、星が出ていた。
霧は、もうどこにもなかった。
五月六日が、終わろうとしていた。
明日は、七日だった。




