↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Re:大坂の陣  作者: romane
16/16

第拾六話:豊臣




五月六日の夜、城の中は、沈んでいた。


木村長門守重成、討死。

薄田隼人兼相、討死。

そして、後藤又兵衛基次、道明寺にて討死。


その報せが、城の隅々まで行き渡っていた。


浪人たちは、篝火の前で黙り込んでいた。

又兵衛の名を口にする者はいなかった。

口にすれば、明日の自分の名が、同じように呼ばれる気がしたのだろう。


前回も、この夜の城は、こうだった。


信繁は、篝火の間を歩きながら、真田の陣屋の方を一度だけ振り返った。

その奥の離れでは、死んだはずの男が、腰の傷に顔をしかめながら、刑部と昌幸に挟まれて寝ている。


この城で、それを知っている者は、ほんの数人しかいなかった。


浪人の一人が、篝火に薪をくべながら、ぽつりと言った。


「後藤様は、ただ一人で山に登って、半日も徳川を止めなすったそうな」


「首は、家来が隠して、敵に渡さなんだとか」


「さすがは、後藤様よ」


信繁は、何も言わずに通り過ぎた。


天下に語り継がれる話が、もう、ここから始まっている。

陣屋に戻ると、昌幸と刑部が、離れの縁側で待っていた。


「源次郎。今夜の軍議で、明日が決まる」


昌幸が、扇で膝を叩いた。


「茶臼山も、天王寺も、別の一手も、絵図はもう描けておる。だが、どれほどの絵図を描こうと、一つ欠ければ、すべて崩れる」


「秀頼様の、お出まし」


「そうじゃ」


前回の敗因の、三つ目だった。


前回、秀頼は最後まで城を出なかった。

金の瓢箪の馬印は、ついに戦場に現れなかった。


刑部が、見えぬ目を城の奥へ向けた。


「出る」


「刑部殿」


「あの若者の声は、最初の軍議で出かかった。真田丸の夜にも出かかった。和睦の軍議で出た。安房守殿を渡せと言われて、通った。声というものは、一度通れば、もう止まらぬ」


刑部は、布の奥で笑った。


「五度目は、誰にも止められぬよ。たとえ、母御でもな」




亥の刻、千畳敷で軍議が開かれた。


明日の戦の、最後の軍議だった。


広間には、もう有楽の姿はなかった。

木村も、薄田も、又兵衛もいない。

空いた席が、灯りの下で、やけに広く見えた。


上座には秀頼が座り、その背後には、いつものように御簾が下りていた。


信繁は、絵図の前に進み出た。


「明日、徳川の本隊は、天王寺口と岡山口から押し寄せまする」


前回も、同じ絵図の前で、同じことを言った。


「真田は、茶臼山に陣を敷きまする。毛利殿は、天王寺の南に。徳川を十分に引きつけたところで、別の一手が、徳川の背後へ回る」


勝永が、黙って頷いた。


広間の隅で、胸に小さな十字架を下げた男も、頷いた。

別の一手を率いる男だった。


治長は、絵図を見ていない。


御簾の方を、じっと見ていた。


「そのとき」


信繁は、上座を見た。


「秀頼様に、太閤殿下の馬印を掲げて、お出ましいただきとうござります」


広間が、ざわめいた。


「秀頼様の馬印が戦場に見えれば、城の兵は死に物狂いで戦いまする。徳川の中にも、太閤殿下の御恩を受けた大名は少なくない。金の瓢箪を見て、槍の鈍る者もおりましょう」


前回も、同じことを願い出た。

そして、前回も、同じ声が返ってきた。


「なりませぬ」


御簾の奥からだった。


「秀頼殿を、戦場になど出せませぬ」


前回は、それで終わった。

秀頼が黙って目を伏せたまま、軍議は次の話に移った。


今回は、違う。

秀頼は、目を伏せていなかった。


大きな体が、ゆっくりと立ち上がった。


「余は、出る」


広間が、静まり返った。


御簾の奥で、何かが倒れる音がした。

次の瞬間、御簾が、内側から跳ね上げられた。


淀殿だった。


広間の者たちが、慌てて平伏した。

淀殿が、御簾の外へ出てくることなど、この城の誰も見たことがなかった。


淀殿は、秀頼の袖を掴んだ。


「秀頼殿」


その声は、震えていた。


「母は、二度、燃える城を見ました」


広間に、淀殿の声だけが響いた。


「小谷で、父上を炎の中に置いてまいりました。北ノ庄では、母上を」


淀殿の指が、秀頼の袖に食い込んだ。


「母上は、わたくしたち三人を城から出して、ご自分は残られた。わたくしは、それをずっと恨んでまいりました。なぜ、一緒に来てくださらなかったのかと」


秀頼は、何も言わずに、母の顔を見下ろしていた。


「三度目は、嫌です。あなたまで、炎の向こうへ行かせはしませぬ」


信繁は、平伏したまま、その声を聞いていた。


前回、この人の声を聞いたのは、いつも御簾越し。

秀頼を城の奥に閉じ込める、冷たい声だと思っていた。


いま、その声と信繁のあいだに、御簾はない。


信繁は、床に額をつけたまま、目を閉じた。

冷たい声ではなかった。


「母上」


秀頼が、静かに言った。


「余は、この城の奥で、二十三年、守られてまいりました」


秀頼の声は、震えていなかった。


「冬に、余は、赤い者たちが余のために死ぬのを、天守の窓から見ておりました。窓の桟を握って、見ておるだけでした」


淀殿の指が、わずかに緩んだ。


「一度でよい。余に、余の城を、余の手で守らせてくだされ」


淀殿は、答えなかった。

袖を掴んだ指も、離れなかった。


その時、末席の方で、一人の男が膝を進めた。


治長だった。


「お方様」


淀殿が、振り返った。


「お手を、お離しなされませ」


淀殿の目が、見開かれた。


「修理……そなたまで」


「それがしは、同じ乳で育った日から、お方様のお心ばかりを伺うて生きてまいりました」


治長は、床に手をついたまま、淀殿を見上げていた。


「されど、明日ばかりは、秀頼様のお心を伺いとうござる。秀頼様は、もう、お方様の御子である前に、豊臣の主にござりまする」


淀殿の唇が、震えた。


信繁は、床から顔を上げていた。

いつ上げたのか、自分でもわからなかった。


秀頼が、袖を掴んだ母の手に、自分の手を重ねた。


大きな手だった。

冬の窓辺で、桟を白くなるほど握りしめていた手だった。


その手が、母の指を、一本ずつ、そっと袖から外した。


信繁は、息を止めた。


一本ずつ、指をほどく。


前回、茶臼山で、信繁も同じことをした。

父上と共に死にとうござる、と袖を掴んだ大助の指を、一本ずつほどいて、城へ帰した。


ほどかれる方の顔を、あの時、信繁は見なかった。


見られなかった。

いま、初めて、その顔を見ていた。


外しきったあとも、秀頼はしばらく、母の手を両の手で包んでいた。


それから、離した。


淀殿は、何も言わなかった。

ただ、外された自分の手を、じっと見ていた。

やがて、侍女に支えられて、御簾の奥へ戻っていった。


秀頼は、広間に向き直った。


「明日、余は、太閤殿下の馬印を掲げて、出る」


誰も、声を上げなかった。


勝永が、深く頭を下げた。

昌幸は、閉じた扇を膝に立て、目を細めていた。


信繁は、もう一度、床に額をつけた。

顔を上げていられなかった。


前回、この広間で、この言葉を聞くことはなかった。




軍議のあと、信繁は天守に呼ばれた。


秀頼は、いつもの窓辺に立っていた。


窓の外は、闇だった。

南の方角に、徳川の陣の篝火が、星を撒いたように広がっていた。


「左衛門佐」


「はい」


「余は、母上の手を、外してしもうた」


秀頼は、自分の両手を見下ろしていた。


その手が、かすかに震えていた。

広間では、少しも震えていなかった手だった。


信繁は、何も言わなかった。


慰めの言葉を、持っていなかった。

持っていたとしても、口にすべきではない気がした。


「母上は、ご自分の母上を恨んだと言われた」


秀頼が、ぽつりと言った。


「余も、恨まれるであろうな」


信繁は、少し考えてから、口を開いた。


「恨みきれずに、おられるのでございましょう」


「何?」


「お方様は、お母上を、恨みきれずにおられる。恨みきれぬから、今宵、あれほどお声が震えたのだと存じまする」


秀頼は、黙って自分の手を見ていた。

それから、窓の桟に手を置いた。


「冬に、そちは言うたな。それがしの知る秀頼様は、と」


信繁は、息を詰めた。


「……はい」


「そちの知る秀頼は、明日、どうした」


窓の外の篝火が、風に揺れた。

信繁は、長いこと黙っていた。


それから、口を開いた。


「桜門まで、お出ましになりました」


秀頼は、振り返らなかった。


「馬印を立て、門の内で、お待ちになりました。出よ、という報せを、ずっと」


「来たのか」


「……最後まで、参りませなんだ。お待ちになったまま、日が傾きました」


秀頼は、黙って窓の外を見ていた。

窓の下、本丸の南の端に、桜門の屋根が、闇の中に黒く沈んでいた。


「待った、のか」


「はい」


「門の内で、待っておっただけか」


「はい」


秀頼は、長い息を吐いた。


「ならば、明日は、待たぬ」


秀頼の手が、窓の桟から離れた。

冬の窓辺で白くなるほど握りしめ、和睦のあとにもう一度握った桟だった。


その手は、もう、桟を握らなかった。


秀頼は、信繁の方へ向き直った。


「そちが何者であるかは、問わぬ」


信繁は、顔を上げた。


「そちは、余の将じゃ。それで足りる」


信繁は、深く頭を下げた。

床についた手が、震えていた。


今度は、信繁の手の方が震えていた。




天守を下りると、廊下の暗がりに、一人の男が座り込んでいた。


治長だった。


淀殿の居室へ続く廊下の、すぐ手前だった。


「修理殿」


「……左衛門佐殿か」


治長は、顔を上げなかった。


「生まれて初めて、お方様に逆ろうた」


治長は、淀殿の居室の方を見た。

灯りは、もう消えていた。


「お方様は、幼い頃から、泣かぬお方でござった。小谷の時も、北ノ庄の時も、泣かなんだと聞いておる。……今宵、初めて、お方様の声が震えるのを聞き申した」


治長は、自分の手を見ていた。

秀頼と同じように、その手も震えていた。


「お方様は、お許しくださるまい。それでよい。それがしは、もう、どちらの顔色も伺わずに済む」


治長は、ふっと笑った。


疲れた笑いだった。

だが、信繁が初めて見る、この男の素の顔だった。


「左衛門佐殿。それがしは、明日、何をすればよい」


信繁が答えるより先に、廊下の奥で、杖の音がした。

刑部が、才蔵に手を引かれて、暗がりから現れた。


「修理殿。明日、一つ、頼みがある」


治長が、刑部の方を見た。


「刑部殿の頼みとは、恐ろしゅうござるな」


「なに」


刑部は、布の奥で笑った。


「太閤殿下の馬印を、ちと借りたいだけのことよ」


治長は、怪訝な顔をした。

信繁は、黙って刑部を見ていた。


前回、治長は、その馬印を持って城へ引き返し、味方を総崩れにした。

秀頼が城へ逃げ戻ったと、敵にも味方にも思わせてしまったのだ。


その同じ馬印を、刑部は、何に使うつもりなのか。

信繁には、うっすらとわかる気がした。


その夜、城の奥の蔵から、一本の馬印が運び出された。


金の瓢箪を、いくつも連ねた馬印だった。

太閤が小田原へ攻め下って以来、二十五年ぶりに、その金の瓢箪が、戦場へ出ようとしていた。


それが明日、どこへ向かうのか。


知っているのは、まだ、ほんの数人だけだった。




陣屋に戻ると、大助が眠っていた。


腿に巻いた晒に、うっすらと血が滲んでいた。

誉田の野で、笑いながら負った傷だった。


信繁は、枕元に腰を下ろした。


前回の五月七日の朝を、思い出していた。


秀頼は、出てこなかった。

だから信繁は、大助を城へ帰した。

秀頼公の側にあって、出馬を促せ、と言い含めて。


――父上と共に、死にとうござる。


十五の息子は、そう言って、信繁の袖を掴んだ。


信繁は、その指を一本ずつほどいた。


大助は、城へ戻った。

そして、秀頼と共に、炎の中で死んだ。


今回は、秀頼が自ら出る。

大助を、城へ帰す理由は、もうない。


大助が、身じろぎして目を開けた。


「……父上」


「起こしたか」


「軍議は」


「秀頼様が、お出ましになる」


大助の目が、大きく開いた。


「では、明日は、それがしも茶臼山に」


「ああ」


信繁は、大助の手を取った。


十四年前、九度山で、生まれたばかりのこの子に握らせた手だった。

あの時、赤子の指は、思いがけない強さで握り返してきた。


いま、握り返してくる指は、槍だこで硬くなっていた。


「わしの隣におれ。明日は、一日中、わしの隣じゃ」


大助は、不思議そうに父を見ていた。

それから、照れたように笑って、また目を閉じた。


握った手は、眠ったあとも、離れなかった。


信繁も、離さなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。