第拾六話:豊臣
五月六日の夜、城の中は、沈んでいた。
木村長門守重成、討死。
薄田隼人兼相、討死。
そして、後藤又兵衛基次、道明寺にて討死。
その報せが、城の隅々まで行き渡っていた。
浪人たちは、篝火の前で黙り込んでいた。
又兵衛の名を口にする者はいなかった。
口にすれば、明日の自分の名が、同じように呼ばれる気がしたのだろう。
前回も、この夜の城は、こうだった。
信繁は、篝火の間を歩きながら、真田の陣屋の方を一度だけ振り返った。
その奥の離れでは、死んだはずの男が、腰の傷に顔をしかめながら、刑部と昌幸に挟まれて寝ている。
この城で、それを知っている者は、ほんの数人しかいなかった。
浪人の一人が、篝火に薪をくべながら、ぽつりと言った。
「後藤様は、ただ一人で山に登って、半日も徳川を止めなすったそうな」
「首は、家来が隠して、敵に渡さなんだとか」
「さすがは、後藤様よ」
信繁は、何も言わずに通り過ぎた。
天下に語り継がれる話が、もう、ここから始まっている。
陣屋に戻ると、昌幸と刑部が、離れの縁側で待っていた。
「源次郎。今夜の軍議で、明日が決まる」
昌幸が、扇で膝を叩いた。
「茶臼山も、天王寺も、別の一手も、絵図はもう描けておる。だが、どれほどの絵図を描こうと、一つ欠ければ、すべて崩れる」
「秀頼様の、お出まし」
「そうじゃ」
前回の敗因の、三つ目だった。
前回、秀頼は最後まで城を出なかった。
金の瓢箪の馬印は、ついに戦場に現れなかった。
刑部が、見えぬ目を城の奥へ向けた。
「出る」
「刑部殿」
「あの若者の声は、最初の軍議で出かかった。真田丸の夜にも出かかった。和睦の軍議で出た。安房守殿を渡せと言われて、通った。声というものは、一度通れば、もう止まらぬ」
刑部は、布の奥で笑った。
「五度目は、誰にも止められぬよ。たとえ、母御でもな」
亥の刻、千畳敷で軍議が開かれた。
明日の戦の、最後の軍議だった。
広間には、もう有楽の姿はなかった。
木村も、薄田も、又兵衛もいない。
空いた席が、灯りの下で、やけに広く見えた。
上座には秀頼が座り、その背後には、いつものように御簾が下りていた。
信繁は、絵図の前に進み出た。
「明日、徳川の本隊は、天王寺口と岡山口から押し寄せまする」
前回も、同じ絵図の前で、同じことを言った。
「真田は、茶臼山に陣を敷きまする。毛利殿は、天王寺の南に。徳川を十分に引きつけたところで、別の一手が、徳川の背後へ回る」
勝永が、黙って頷いた。
広間の隅で、胸に小さな十字架を下げた男も、頷いた。
別の一手を率いる男だった。
治長は、絵図を見ていない。
御簾の方を、じっと見ていた。
「そのとき」
信繁は、上座を見た。
「秀頼様に、太閤殿下の馬印を掲げて、お出ましいただきとうござります」
広間が、ざわめいた。
「秀頼様の馬印が戦場に見えれば、城の兵は死に物狂いで戦いまする。徳川の中にも、太閤殿下の御恩を受けた大名は少なくない。金の瓢箪を見て、槍の鈍る者もおりましょう」
前回も、同じことを願い出た。
そして、前回も、同じ声が返ってきた。
「なりませぬ」
御簾の奥からだった。
「秀頼殿を、戦場になど出せませぬ」
前回は、それで終わった。
秀頼が黙って目を伏せたまま、軍議は次の話に移った。
今回は、違う。
秀頼は、目を伏せていなかった。
大きな体が、ゆっくりと立ち上がった。
「余は、出る」
広間が、静まり返った。
御簾の奥で、何かが倒れる音がした。
次の瞬間、御簾が、内側から跳ね上げられた。
淀殿だった。
広間の者たちが、慌てて平伏した。
淀殿が、御簾の外へ出てくることなど、この城の誰も見たことがなかった。
淀殿は、秀頼の袖を掴んだ。
「秀頼殿」
その声は、震えていた。
「母は、二度、燃える城を見ました」
広間に、淀殿の声だけが響いた。
「小谷で、父上を炎の中に置いてまいりました。北ノ庄では、母上を」
淀殿の指が、秀頼の袖に食い込んだ。
「母上は、わたくしたち三人を城から出して、ご自分は残られた。わたくしは、それをずっと恨んでまいりました。なぜ、一緒に来てくださらなかったのかと」
秀頼は、何も言わずに、母の顔を見下ろしていた。
「三度目は、嫌です。あなたまで、炎の向こうへ行かせはしませぬ」
信繁は、平伏したまま、その声を聞いていた。
前回、この人の声を聞いたのは、いつも御簾越し。
秀頼を城の奥に閉じ込める、冷たい声だと思っていた。
いま、その声と信繁のあいだに、御簾はない。
信繁は、床に額をつけたまま、目を閉じた。
冷たい声ではなかった。
「母上」
秀頼が、静かに言った。
「余は、この城の奥で、二十三年、守られてまいりました」
秀頼の声は、震えていなかった。
「冬に、余は、赤い者たちが余のために死ぬのを、天守の窓から見ておりました。窓の桟を握って、見ておるだけでした」
淀殿の指が、わずかに緩んだ。
「一度でよい。余に、余の城を、余の手で守らせてくだされ」
淀殿は、答えなかった。
袖を掴んだ指も、離れなかった。
その時、末席の方で、一人の男が膝を進めた。
治長だった。
「お方様」
淀殿が、振り返った。
「お手を、お離しなされませ」
淀殿の目が、見開かれた。
「修理……そなたまで」
「それがしは、同じ乳で育った日から、お方様のお心ばかりを伺うて生きてまいりました」
治長は、床に手をついたまま、淀殿を見上げていた。
「されど、明日ばかりは、秀頼様のお心を伺いとうござる。秀頼様は、もう、お方様の御子である前に、豊臣の主にござりまする」
淀殿の唇が、震えた。
信繁は、床から顔を上げていた。
いつ上げたのか、自分でもわからなかった。
秀頼が、袖を掴んだ母の手に、自分の手を重ねた。
大きな手だった。
冬の窓辺で、桟を白くなるほど握りしめていた手だった。
その手が、母の指を、一本ずつ、そっと袖から外した。
信繁は、息を止めた。
一本ずつ、指をほどく。
前回、茶臼山で、信繁も同じことをした。
父上と共に死にとうござる、と袖を掴んだ大助の指を、一本ずつほどいて、城へ帰した。
ほどかれる方の顔を、あの時、信繁は見なかった。
見られなかった。
いま、初めて、その顔を見ていた。
外しきったあとも、秀頼はしばらく、母の手を両の手で包んでいた。
それから、離した。
淀殿は、何も言わなかった。
ただ、外された自分の手を、じっと見ていた。
やがて、侍女に支えられて、御簾の奥へ戻っていった。
秀頼は、広間に向き直った。
「明日、余は、太閤殿下の馬印を掲げて、出る」
誰も、声を上げなかった。
勝永が、深く頭を下げた。
昌幸は、閉じた扇を膝に立て、目を細めていた。
信繁は、もう一度、床に額をつけた。
顔を上げていられなかった。
前回、この広間で、この言葉を聞くことはなかった。
軍議のあと、信繁は天守に呼ばれた。
秀頼は、いつもの窓辺に立っていた。
窓の外は、闇だった。
南の方角に、徳川の陣の篝火が、星を撒いたように広がっていた。
「左衛門佐」
「はい」
「余は、母上の手を、外してしもうた」
秀頼は、自分の両手を見下ろしていた。
その手が、かすかに震えていた。
広間では、少しも震えていなかった手だった。
信繁は、何も言わなかった。
慰めの言葉を、持っていなかった。
持っていたとしても、口にすべきではない気がした。
「母上は、ご自分の母上を恨んだと言われた」
秀頼が、ぽつりと言った。
「余も、恨まれるであろうな」
信繁は、少し考えてから、口を開いた。
「恨みきれずに、おられるのでございましょう」
「何?」
「お方様は、お母上を、恨みきれずにおられる。恨みきれぬから、今宵、あれほどお声が震えたのだと存じまする」
秀頼は、黙って自分の手を見ていた。
それから、窓の桟に手を置いた。
「冬に、そちは言うたな。それがしの知る秀頼様は、と」
信繁は、息を詰めた。
「……はい」
「そちの知る秀頼は、明日、どうした」
窓の外の篝火が、風に揺れた。
信繁は、長いこと黙っていた。
それから、口を開いた。
「桜門まで、お出ましになりました」
秀頼は、振り返らなかった。
「馬印を立て、門の内で、お待ちになりました。出よ、という報せを、ずっと」
「来たのか」
「……最後まで、参りませなんだ。お待ちになったまま、日が傾きました」
秀頼は、黙って窓の外を見ていた。
窓の下、本丸の南の端に、桜門の屋根が、闇の中に黒く沈んでいた。
「待った、のか」
「はい」
「門の内で、待っておっただけか」
「はい」
秀頼は、長い息を吐いた。
「ならば、明日は、待たぬ」
秀頼の手が、窓の桟から離れた。
冬の窓辺で白くなるほど握りしめ、和睦のあとにもう一度握った桟だった。
その手は、もう、桟を握らなかった。
秀頼は、信繁の方へ向き直った。
「そちが何者であるかは、問わぬ」
信繁は、顔を上げた。
「そちは、余の将じゃ。それで足りる」
信繁は、深く頭を下げた。
床についた手が、震えていた。
今度は、信繁の手の方が震えていた。
天守を下りると、廊下の暗がりに、一人の男が座り込んでいた。
治長だった。
淀殿の居室へ続く廊下の、すぐ手前だった。
「修理殿」
「……左衛門佐殿か」
治長は、顔を上げなかった。
「生まれて初めて、お方様に逆ろうた」
治長は、淀殿の居室の方を見た。
灯りは、もう消えていた。
「お方様は、幼い頃から、泣かぬお方でござった。小谷の時も、北ノ庄の時も、泣かなんだと聞いておる。……今宵、初めて、お方様の声が震えるのを聞き申した」
治長は、自分の手を見ていた。
秀頼と同じように、その手も震えていた。
「お方様は、お許しくださるまい。それでよい。それがしは、もう、どちらの顔色も伺わずに済む」
治長は、ふっと笑った。
疲れた笑いだった。
だが、信繁が初めて見る、この男の素の顔だった。
「左衛門佐殿。それがしは、明日、何をすればよい」
信繁が答えるより先に、廊下の奥で、杖の音がした。
刑部が、才蔵に手を引かれて、暗がりから現れた。
「修理殿。明日、一つ、頼みがある」
治長が、刑部の方を見た。
「刑部殿の頼みとは、恐ろしゅうござるな」
「なに」
刑部は、布の奥で笑った。
「太閤殿下の馬印を、ちと借りたいだけのことよ」
治長は、怪訝な顔をした。
信繁は、黙って刑部を見ていた。
前回、治長は、その馬印を持って城へ引き返し、味方を総崩れにした。
秀頼が城へ逃げ戻ったと、敵にも味方にも思わせてしまったのだ。
その同じ馬印を、刑部は、何に使うつもりなのか。
信繁には、うっすらとわかる気がした。
その夜、城の奥の蔵から、一本の馬印が運び出された。
金の瓢箪を、いくつも連ねた馬印だった。
太閤が小田原へ攻め下って以来、二十五年ぶりに、その金の瓢箪が、戦場へ出ようとしていた。
それが明日、どこへ向かうのか。
知っているのは、まだ、ほんの数人だけだった。
陣屋に戻ると、大助が眠っていた。
腿に巻いた晒に、うっすらと血が滲んでいた。
誉田の野で、笑いながら負った傷だった。
信繁は、枕元に腰を下ろした。
前回の五月七日の朝を、思い出していた。
秀頼は、出てこなかった。
だから信繁は、大助を城へ帰した。
秀頼公の側にあって、出馬を促せ、と言い含めて。
――父上と共に、死にとうござる。
十五の息子は、そう言って、信繁の袖を掴んだ。
信繁は、その指を一本ずつほどいた。
大助は、城へ戻った。
そして、秀頼と共に、炎の中で死んだ。
今回は、秀頼が自ら出る。
大助を、城へ帰す理由は、もうない。
大助が、身じろぎして目を開けた。
「……父上」
「起こしたか」
「軍議は」
「秀頼様が、お出ましになる」
大助の目が、大きく開いた。
「では、明日は、それがしも茶臼山に」
「ああ」
信繁は、大助の手を取った。
十四年前、九度山で、生まれたばかりのこの子に握らせた手だった。
あの時、赤子の指は、思いがけない強さで握り返してきた。
いま、握り返してくる指は、槍だこで硬くなっていた。
「わしの隣におれ。明日は、一日中、わしの隣じゃ」
大助は、不思議そうに父を見ていた。
それから、照れたように笑って、また目を閉じた。
握った手は、眠ったあとも、離れなかった。
信繁も、離さなかった。




