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Re:大坂の陣  作者: romane
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第弐話:犬伏の夜




灯明の火が、じじ、と鳴った。


綱家の呻き声は、いつの間にか板戸の向こうから遠ざかっていた。

誰かが肩を貸して連れていったのだろう。

陣小屋の中には、父と兄と自分、三人だけが残った。


信繁は、身を起こして座り直した。

膝が鳴らない。


それだけのことが、ひどく奇妙に思えた。


「大事ないのか」


兄が言った。


「はい。少し、頭を打っただけにござる」


嘘ではなかった。

頭の中には、十五年分の重さが詰まっている。


昌幸は何も言わず、信繁の手から書状を取り上げ、膝の上で広げ直した。

その目が、ちらりと信繁を見た。


探るような目だった。


「さて」


昌幸が、書状を指で弾いた。


「治部が兵を挙げた。大坂の奉行衆も名を連ねておる。内府の罪状を、十三か条も並べてな」


灯明の火が揺れ、三人の影が板壁の上で伸び縮みした。


「我ら真田は、どちらに付く」


前回も、この問いから始まった。


信繁は覚えている。

兄は徳川を説き、自分は豊臣を説いた。

声を荒らげ、互いに一歩も譲らず、最後に父が断を下した。


——ならば、分かれよう。


家を二つに割れば、どちらが勝っても真田の血は残る。

乱世を渡ってきた父らしい、冷たく、したたかな答えだった。


あの時の自分は、父の策の本当の重さを、わかってはいなかった。


分かれるということが、何を意味するのか。


十五年、兄の顔を見られぬということ。

父が流人のまま死ぬということ。

大坂の城から、兄の倅たちが徳川の陣に並ぶのを見るということ。


「それがしは、徳川に付くべきと存じます」


兄が口を開いた。

前回と同じ言葉だった。


「内府は、天下の諸将をすでにまとめておられる。治部殿に、それだけの器量はござらぬ。それに、それがしの妻は本多中務の娘。いまさら内府に弓を引くことは……」


兄の声が、わずかに揺れた。

信繁は、その横顔を見ていた。


兄は、真面目な人だ。

誰よりも家のことを考え、誰よりも筋を通そうとする。

だからこそ関ヶ原の後、父と弟の命乞いのために、徳川の前で額を地に擦りつけた。


父の「幸」の字を捨てることまでして。


「源次郎」


父が、こちらを見た。


「お主はどう思う」


前回、自分はここで兄に食ってかかった。

太閤殿下の御恩を忘れたか、と。

妻が大谷刑部の娘であることも、豊臣家に仕えた日々も、すべてを並べ立てて。


信繁は、静かに息を吐いた。


「兄上は、徳川へ行かれるべきです」


兄が、目を見開いた。


「……源次郎?」


「父上とそれがしは、大坂方に付きまする。家を、二つに分けましょう。どちらが勝っても、真田の名は残る。それが、この家を守る一番の手かと存じます」


小屋の中が、しんと静まった。


雨垂れの音だけが、屋根を叩いている。


兄は何か言いかけて、口を閉じた。

父は、黙って信繁を見つめていた。


その目が、細くなった。


「……わしが言おうとしたことを、先に言うたな」


「出過ぎた真似を、いたしました」


「いや」


昌幸は、低く笑った。


「出過ぎてはおらぬ。だが、お主らしゅうもない」


信繁は、何も答えなかった。

兄が、膝の上で拳を握った。


「父上も、それでよろしいのですか」


「よい」


昌幸は即座に答えた。


「源三郎、お主は内府のもとへ行け。わしと源次郎は上田へ戻り、城を固める。どちらが勝とうと、恨みっこなしじゃ」


「……承知、いたしました」


兄は、深く頭を下げた。


その肩が、小さく震えていた。




夜更け、兄は陣を発つ。


宇都宮にある中納言秀忠の陣へ向かうという。

供回りが松明を掲げ、馬が低く鼻を鳴らした。


雨は上がっていた。

濡れた草の匂いが、夜気に満ちていた。


信繁は、兄の馬の轡を取った。


「源次郎」


鞍の上から、兄が見下ろした。


「先ほどのお主は、まるで別人のようであった」


「……そうでしょうか」


「ああ。父上のような顔をしておった」


兄は、困ったように笑った。


「戦場で会うことがあれば、手加減はせぬぞ」


「望むところにござる」


そう返しながら、信繁は兄の顔を目に焼きつけた。


この人と、次に顔を合わせるのはいつになるか。

前回は、関ヶ原の後、助命が決まったときだった。


そしてそれきり、二度と会わなかった。

大坂の城に入るときも、文の一通も出せなかった。


言いたいことは、山ほどあった。


兄上、御身は、父上と私の命を救うために、徳川の前で頭を下げてくださいます。

父上からいただいた名の一字を、捨ててくださいます。


その恩を、私は一度も返せなかった。


一つも、言えなかった。


言えば、兄を巻き込む。

徳川の大名として生きていく兄に、謀反の種を背負わせることになる。


「兄上」


「なんだ」


「……ご武運を」


兄は頷き、馬腹を蹴った。


松明の火が、闇の中を遠ざかっていく。

蹄の音が、やがて虫の声に紛れて消えた。


信繁は、火が見えなくなるまで、その場に立っていた。




陣小屋に戻ると、昌幸は灯明の前で一人、酒を舐めていた。


「座れ」


信繁は、父の前に膝をついた。


「何を隠しておる」


前置きもなく、父は言った。


「雷が落ちて目を覚ましてからのお主は、わしの知っておる源次郎ではない。目つきが違う。物言いが違う。座り方まで違う。まるで、戦を十も二十もくぐってきた老将のようじゃ」


さすが、と信繁は思った。

この父の目を、ごまかせるはずがなかった。


「父上」


信繁は、まっすぐに父を見た。


「これから申し上げることは、狂人の戯言と聞こえましょう。それでも、最後まで聞いていただけますか」


昌幸は、盃を置いた。


「申せ」


信繁は、語った。


この戦で、大坂方が負けること。

九月十五日、美濃の関ヶ原で、小早川秀秋の裏切りによって、わずか一日で大勢が決すること。

大谷刑部が腹を切り、治部が捕らえられて六条河原で斬られること。


父と自分が上田城で秀忠を足止めし、戦には勝ちながら、天下の戦には負けること。

死罪を言い渡され、兄の嘆願で紀州九度山に流されること。


そして、十四年。


「父上は、慶長十六年の六月、九度山で身罷られます」


昌幸の顔が、わずかに動いた。


「赦免を待ち、待ち続け、ついにその日が来ぬまま……。それがしが、看取りました」


声が、詰まりかけた。

信繁は奥歯を噛んで、続けた。


慶長十九年、豊臣と徳川が手切れとなること。

九度山を抜け出し、大坂城に入ったこと。

冬の陣、真田丸で徳川を退けたこと。

講和で堀を埋められ、丸裸になった城で夏の陣を迎えたこと。


慶長二十年、五月七日。


家康の本陣を崩し、首を獲ったこと。

それが影武者だったこと。

本物の家康まであと十間のところで、槍に貫かれて死んだこと。


「目を閉じて、次に開けたら、ここにおりました」


語り終えたとき、灯明の油は半分ほどに減っていた。


昌幸は、長いこと黙っていた。




やがて父は、盃を取り上げ、残った酒を一息に呷った。


「十間か」


「はい」


「惜しいの」


それだけ言って、父は喉の奥で笑った。

信繁は、拍子抜けしたように父を見た。


「……お信じに、なられるのですか」


「信じるとは、言うておらぬ」


昌幸は、空の盃を指で回した。


「夢を見たのかもしれぬ。雷に打たれて、頭がおかしゅうなったのかもしれぬ。それとも、わしを担いでおるか」


「父上を担いで、何の得がありましょう」


「ない。だから困っておる」


父は、ふん、と鼻を鳴らした。


「だが、お主の話はよう出来ておる。出来すぎておる。治部の器量も、金吾の性根も、わしの見立て通りじゃ。九度山とやらで、わしが朽ちるというのも……」


父は、そこで言葉を切った。

一瞬、その顔に、信繁の見たことのない影がよぎった。


「……まあ、ありそうな話よ」


昌幸は、盃を床に置いた。


「その前に、一つ確かめておく」


「何を、でございますか」


「お主が、まことに源次郎かどうかよ」


信繁は、思わず父を見返した。


「雷に打たれて倒れた者が、目を覚ましたら別人の顔つきになっておった。狐か狸が化けたと考えるほうが、まだ筋が通るわ」


冗談とも本気ともつかない口ぶりだった。

だが、目は笑っていなかった。


「お主が上杉へ人質に出された折のことじゃ。十九の年であったな」


「はい」


「発つ前の晩、わしはお主に脇差を一振り与えた。いざとなれば、それで腹を切れと言うてな。あれの銘を申してみよ」


信繁は、すぐには答えなかった。


記憶を探る。

三十年も前の、越後へ発つ前夜。


父の居室に呼ばれたことは覚えている。

灯明の下で、父と膝を突き合わせたことも。


だが、脇差など受け取っていない。


「……父上は、何もくださりませなんだ」


昌幸の目が、わずかに動いた。


「刀も、銭も、何も。ただ、それがしの頭に手を置いて……」


信繁は、そこで言葉を切った。


あの夜の父の手の重さが、不意によみがえった。

大きく、乾いて、少し震えていた手。


「『人質とは、相手の懐に入る間者のことじゃ。越後の飯を食い、越後の言葉を覚え、謙信公以来の軍法を盗んでこい』と。そう仰せになりました」


「……」


「腹を切れなどとは、一言も。生きて戻れ、と」


昌幸は、しばらく黙っていた。

それから、ふっと息を吐いた。


「引っかからなんだか」


やはり、と信繁は思った。


脇差の話は、父の仕掛けた罠だったのだ。

相手が話を合わせれば、それで化けの皮が剥がれる。

表裏比興の者と呼ばれた男の、いかにも父らしい確かめ方だった。


「では、もう一つ」


「まだございますか」


「お主のことではない。わしのことじゃ。わしと源次郎しか知らぬことを、申してみよ」


信繁は、少し考えてから口を開いた。


「天正十年の春」


昌幸の顔から、表情が消えた。


「武田のお屋形様が天目山で果てられたと報せが届いた夜、父上は岩櫃の城の奥で、一人で酒を召しておられました。盃を二つ並べて」


「……」


「片方には手をつけず、ただ注ぎ足しておられた。それから、『なぜ、岩櫃へ来てくださらなんだ』と……」


昌幸の手が、膝の上で止まった。


「それがしは十六でした。厠に立った帰りに、襖の隙間から見てしまったのです。父上が泣いておられるのを見たのは、あれが最初で最後にござる。誰にも、兄上にも話したことはございません」


長い沈黙が落ちた。

灯明の芯が、じりじりと焦げる音だけが聞こえた。


「……見ておったか」


父の声は、ひどく低かった。


「申し訳ございませぬ」


「謝ることはない」


昌幸は、顔を背けた。


「あの方は、わしの城へは来なんだ。来ておれば、武田はまだ……」


父は、そこで口をつぐんだ。


十八年。

それだけの歳月が過ぎても、父の中であの夜は終わっていないのだ、と信繁は思った。


昌幸は、灯明から目を逸らしたままだった。

その横顔は、灯明の陰に沈んで見えなかった。


「狐狸の類が、あの夜のことを知るはずもないわ」


外で、風が陣幕を揺らした。


やがて昌幸は、こちらに向き直った。

その顔には、もういつもの皮肉な笑みが戻っていた。


「よかろう。お主が源次郎であることは認めてやる。だが、話がまことかどうかは、また別じゃ。十五年先のことなど、いまのわしには確かめようがない。確かめられるのは、目の前のことだけじゃ」


「はい」


「近いうちに起きることを、申してみよ」


信繁は、記憶を手繰った。


「四日後の二十五日、内府は下野の小山で諸将を集め、評定を開きます。福島左衛門大夫が真っ先に内府に付くと申し、それで大勢が決まります。内府は会津攻めをやめ、西へ取って返します」


「ほう」


「伏見城は、八月朔日に落ちます。守将の鳥居彦右衛門殿は、討死なされます」


昌幸は、黙って聞いていた。


「それから」


信繁は、少し言いよどんだ。


「上田へ戻る途中、父上は沼田の城にお寄りになります。孫の顔が見たいと仰せになって」


「……それで」


「兄上の御内儀が、門を開けませぬ」


昌幸の眉が上がった。


「小松がか」


「はい。舅であろうと、敵となった方を城には入れられぬ、と。薙刀を手に、門の上から父上を追い返されます」


一拍の間があった。


それから、昌幸は声を上げて笑った。

腹を抱え、肩を揺すり、目尻に涙が滲むほどに笑った。


「あの嫁なら、やりかねん! いや、やるわ。必ずやる」


ひとしきり笑ってから、父は目元を拭った。


そして、信繁を見た。

その目から、笑いが消えていた。


代わりに、灯明の火を映して、何か鋭いものが光っていた。


獲物を見つけた鷹の目。

九度山の晩年、信繁が一度も見ることのなかった目だった。


「ならば、確かめてみようではないか」


外で、夏の虫が鳴き始めていた。


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