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Re:大坂の陣  作者: romane
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第壱話:押し通る




慶長二十年五月七日。


夜明けの空は、鉛を溶かしたような鈍い色をしていた。


茶臼山の頂から見下ろす天王寺の野は、どこまでも敵で埋まっていた。


旗、旗、旗。


葵の紋を押し立てた軍勢が、南の地平から黒い潮のように満ちてくる。


その数、十五万とも言われた。


真田左衛門佐信繁は、床几に腰を下ろしたまま、それを黙って眺めていた。


四十九になる。


槍を握る指の節は太く、膝は朝ごとに軋んだ。

九度山で過ごした十四年は、この体から確かに何かを削り取っていった。


それでも、目だけは衰えていない。


「殿」


背後から、家臣の声がした。


「大助様、ご入城なされました」


信繁は振り返らなかった。


嫡男の大助を、今朝、城へ帰した。

秀頼公の側にあって、出馬を促せ——そう言い含めて。


父上と共に死にとうござる。

そう言って袖を掴んだ十五の息子の手を、信繁は一本ずつ指をほどいて引き剥がした。


「……そうか」


それだけ答えて、信繁は再び野を見た。


策は一つしかなかった。


秀頼公が、金の瓢箪の馬印を掲げて城を出る。

太閤の遺児が自ら戦場に立てば、徳川の陣中にいる豊臣恩顧の大名どもは必ず揺らぐ。

その揺らぎに乗じて、茶臼山と岡山の全軍が一斉に押し出す。


狙うは家康の首、ただ一つ。


それ以外に、勝ち筋はない。


だが、城から使者は来なかった。

陽は昇り、霧は晴れ、待つ時間だけが砂のように零れていく。


正午を回った頃だった。

東の方角で、乾いた銃声が弾けた。


一発、二発——やがてそれは豆を炒るような連なりになり、地を揺るがす鬨の声が続いた。


「毛利勢、本多隊と交戦!」


物見が転がるように駆け込んでくる。


信繁は、ゆっくりと目を閉じた。


始まってしまった。


合図を待たずに。

秀頼公の出馬を待たずに。


最後の最後まで、この城の戦は、何一つ思い通りにならなかった。


「……ふ」


喉の奥から、笑いが漏れた。


信繁は立ち上がった。

軋んでいた膝が、不思議と痛まなかった。


「秀頼公は来ぬ」


周囲の将たちが息を呑む。


「ならば、我らが行くまでよ」


十文字槍を受け取り、信繁は陣の前へ歩み出た。




赤。


見渡す限りの赤だった。

具足も、旗も、馬鎧も、すべて朱に染め上げた真田の赤備え、三千五百。


その一人ひとりが、信繁を見ていた。


信繁は、彼らの顔を一つずつ見返した。


九度山からついてきた者がいる。

浪人の身で、ただ真田の名を聞いて城へ馳せ参じた者がいる。

昨年の冬、真田丸で共に徳川を撃ち退けた者がいる。


「この戦に、勝ちはない」


静かな声だった。

それでも、陣の隅々まで届いた。


「だが、家康の首は、まだあそこにある」


槍の穂先が、南を指す。


「生きて帰ろうと思うな。名を残そうとも思うな。ただ前へ。あの首に届くまで、ただ前へ進め」


一瞬の静寂。


そして、三千五百の喉が、獣のように吼えた。


六文銭の旗が、風を孕んで翻った。




真田隊は、坂を駆け下りた。


正面には越前少将松平忠直の軍勢、一万五千。

前日の戦で遅れを取り、祖父家康から叱責を受けた若き大名が、汚名をすすがんと猛っている。


その陣に、赤い奔流がぶつかった。


槍と槍が噛み合う音。

馬の悲鳴。血の匂い。

信繁は先頭で槍を振るいながら、背後で起きていることを肌で感じていた。


真田の兵は、止まらない。


腕を斬り飛ばされた者が、残った腕で敵に組みつく。

胴を貫かれた者が、槍の柄を掴んだまま前へ進み、相手の喉に脇差を突き立ててから崩れ落ちる。

倒れた者は、這ってでも敵の足に食らいついた。


誰一人、後ろを振り返らなかった。


越前勢が、揺らいだ。


信じられぬものを見る目で、徳川の兵たちが後ずさる。

赤い鎧の群れが、死を恐れるどころか、死そのものに向かって笑いながら突き進んでくる。


無理もない。


徳川の兵は、勝つために来た。

真田の兵は、死ぬために来た。

命を惜しむ者が、死に場所を求める者の前に立てるはずがなかった。


「鬼じゃ……真田の鬼どもじゃ……!」


誰かが叫び、それが恐慌になった。


一万五千の陣に、穴が穿たれる。

信繁はその穴に馬を突き入れた。


抜けた。


その先に——金の扇が見えた。


家康の大馬印。

徳川の本陣が、すぐそこにあった。


「かかれぇッ!」


声が嗄れるほどに叫び、信繁は本陣に躍り込んだ。


旗本たちが慌てて槍を揃える。


だが遅い。


真田の赤が、その槍衾を食い破る。


一度目の突撃で、旗本の陣列が崩れた。

二度目の突撃で、本陣が割れた。

逃げ惑う旗本たちが互いにぶつかり合い、誰かが馬印を担いだまま転倒する。


金の扇が、地に倒れた。


あの三方ヶ原以来、一度も倒れたことがないと言われた家康の馬印が。


「大御所はいずこか!」


信繁は血走った目で本陣を見渡した。


いた。


崩れた陣幕の奥。

旗本たちに守られて、床几の傍らに老人がひとり立っていた。


金の小札を連ねた具足、肥えた体。

その手が、腰の脇差の柄にかかっている。


腹を切るつもりか。


「させるかァッ!」


信繁は馬腹を蹴った。


その前に、ひとりの武者が立ちはだかった。

黒糸縅の具足に、身の丈ほどもある大身槍。

旗本の中でもひときわ大柄な男が、主の前に仁王立ちになる。


「大御所様には指一本触れさせぬ!」


穂先が唸った。


速い。


信繁は咄嗟に身を沈めた。

兜の吹き返しを、鋼が削っていく。

火花が散り、耳元で金属の悲鳴が上がった。


二の突きが来る。


信繁は十文字槍の鎌でそれを絡め取り、手首を返した。

大身槍が、男の手から弾け飛ぶ。


がら空きになった喉元へ——。


一突き。

巨体が、地響きを立てて崩れた。


道が開いた。

信繁と老人の間に、もう誰もいない。


老人がこちらを見た。

脇差を半ばまで抜いたまま、凍りついたように動かない。


五間。


三間。


「御免ッ!」


十文字槍の穂先が、具足の脇の隙間から深々と沈んだ。


老人の口から、短い呻きが漏れた。

膝が崩れる。


崩れながら、その口元が、かすかに歪んだように見えた。


笑った——のか。


確かめる暇はなかった。

信繁は馬から飛び降り、太刀を抜いた。


一閃。

首が、落ちた。


信繁はその髻を掴み、天に向かって高々と掲げた。


「徳川家康ッ! 真田左衛門佐信繁が、討ち取ったりィィッ!」


声が、戦場を裂いた。


一瞬、すべての音が止まった。

槍を交えていた敵も味方も、手を止めて振り返った。


そして——爆発した。


「やった……殿が、殿がやったぞォッ!」


「大御所討死! 大御所討死ィッ!」


真田の兵が吼えた。

血まみれの顔が、泣きながら笑っていた。

槍を天に突き上げ、兜を投げ上げ、互いの肩を抱いて叫んでいた。


その声が、波のように戦場へ広がっていく。


旗本たちの顔から、血の気が引いた。

槍を取り落とす者がいた。

膝から崩れる者がいた。

その場に立ち尽くす者がいた。


徳川の陣が、目に見えて揺らいでいた。


勝てる。

いや——勝った。


信繁は、首を掲げたまま空を仰いだ。


十四年の流人暮らし。

九度山の冬の、骨まで凍る寒さ。

父が死の床で漏らした、最後の言葉。

冬の陣の講和で埋められていく堀を、ただ見ていることしかできなかったあの日。

そしてこの城で死んでいった、数えきれない者たちの顔。


そのすべてが、この一つの首で報われた。


父上。

見ておられますか。


信繁は、掲げた首を下ろした。


その顔を、初めてまともに見た。


……。


何かが、引っかかった。


皺の刻み方が違う。

鼻の形が違う。

耳朶の厚みが違う。

かつて何度も目にした家康の顔と、どこかが違う。


違う、気がする。


いや、死に顔だからだ。

血の気が引けば、人の顔は変わる——。


自分に言い聞かせようとした、その時。

南の方角から、法螺貝が鳴った。


ぶおおおおお、と。低く、長く。

戦場の喧騒を貫いて、腹の底に響く音。


信繁は、ゆっくりと顔を上げた。


遠く、南の小高い丘。


その斜面を、十騎ほどの一団が駆け上がっていく。

先頭の騎馬武者が、倒れたはずの金の扇を——予備の馬印を、高々と掲げていた。


そして、その中心。

鞍の上で振り返った、肥えた老人の顔。


目が合った。


距離は遠い。

二町はある。

表情など見えるはずがない。

それでも、信繁にはわかった。


あの男は、笑っていた。


手の中の首が、急に重くなった。

いや、軽くなったのか。

もうわからなかった。


「影……武者……」


討ち取ったと思った老人の、崩れながら歪んだ口元が、脳裏によみがえった。


あれは、笑っていたのだ。

役目を果たした、と。


歓声が、潮が引くように消えていった。


真田の兵たちも、気づいたのだ。

誰かが「大御所は、あちらに……」と、呆けたように呟いた。

槍を突き上げていた腕が、力なく下りていく。


代わりに、徳川の陣から声が上がった。


「大御所はご無事ぞォッ!」


「金扇はあれにあり! 怯むな、押し返せェッ!」


崩れかけていた旗本たちが、息を吹き返していく。


信繁は、首を見下ろした。


名も知らぬ老人の首。

主の身代わりに死ぬことを、最初から覚悟していた男の首。


信繁は、それを静かに地に置いた。


「……見事な忠義じゃ」


そして、立ち上がった。


「まだだ」


足元に転がっていた槍を拾う。

馬は、とうに斃れていた。


「まだ終わっておらぬッ!」


周囲を見渡す。


赤い鎧が、まだ残っていた。

百か、五十か。

誰もが傷だらけで、肩で息をしていた。

それでも、一人として目が死んでいなかった。


その中から、白髪交じりの老武者が進み出た。


高梨内記。

九度山まで付き従ってきた、真田の老臣。


「殿。あの丘まで、我らが道を拓きまする」


内記の目が、笑っていた。


「……すまぬ」


「何を仰せか。この内記、殿が家康の首を掴むところを見とうて、ここまで生き延びてまいったのでござる」


内記が槍を掲げた。


「真田の者ども! 殿の御前を空けよォッ!」


応、と五十の喉が吼えた。


駆けた。


赤い塊が、一本の矢になって南の丘へ突き進む。


正面に、藤堂の旗が現れた。

体勢を立て直した新手が、横一列に槍を並べて待ち構えている。


「行けェッ!」


先頭を走っていた十人が、そのまま槍衾に身を投げた。


穂先が胸を貫く。

それでも彼らは止まらない。

己の体を楯にして、敵の槍を地面に押し伏せる。


その上を、後続が駆け抜けた。


井伊の赤備えが、横から突っ込んでくる。


「ここは任されい!」


二十人が、くるりと向きを変えた。

赤と赤がぶつかり合う。

叫び声が、背後に遠ざかっていく。


信繁は振り返らなかった。

振り返れば、足が止まる。

前だけを見た。


丘の斜面。

家康の一団が、まだそこにいる。

馬が坂に足を取られ、思うように進めていない。


五十間。


近い。


鉄砲の音が弾けた。

隣を走っていた若武者が、もんどり打って倒れた。


四十間。


内記が、横から突き出された槍を体で受け止めた。


「殿ッ……お行きなされィッ!」


血を吐きながら、内記は敵兵の槍を掴んで離さなかった。

信繁は、歯を食いしばって走った。


三十間。


家康の顔が、はっきりと見えた。

もう笑っていなかった。


皺だらけの顔が、引きつっていた。


怯えている。

天下人が、自分を見て怯えている。


その事実が、焼けつくような歓喜となって全身を駆け巡った。


足が軽い。

膝の痛みも、体中の傷の痛みも、どこか遠くへ消えていた。


二十間。


最後の壁が立ちはだかった。


家康の馬廻り。

徳川最後の旗本たちが、主を守る最後の槍衾を組んでいる。


二重、三重。

穂先が、陽を受けてぎらぎらと光っていた。


信繁の後ろには、もう誰もいなかった。


ただ一人。


それでも、止まる理由はなかった。


信繁は、肺の底から息を吸い込んだ。


「のけえええええええッ!」


獣の咆哮だった。


槍衾に、真正面から突っ込んだ。


一列目。

十文字槍が、二人をまとめて薙ぎ倒す。


二列目。

突き出された穂先を鎌で払い、一人の喉を突き、一人の顔を柄で砕く。


最初の槍が、脇腹を貫いた。

構わず進む。


三列目。

二本目が、背中に入った。

三本目が、腿を抉った。


それでも進む。


体に刺さった槍の柄を引きずったまま、一歩、また一歩。


囲む兵たちの顔に、恐怖が浮かんでいた。

槍を突き立てられてなお前に進む男を、化け物でも見るような目で見ていた。


「ひ、怯むな! 突け、突けぇッ!」


四本目。五本目。六本目。


正面から、胸を。

左右から、腹を。

穂先が次々と体に沈み、信繁の体は、何本もの槍に縫い止められて宙に浮いた。


それでも、目だけは前を見ていた。

槍の林の向こうに、家康がいた。


十間。

あと、十間。


馬上の老人と、目が合った。


家康の唇が、何かを呟いた。

聞こえなかった。


手を伸ばす。

届かない。

指先が、虚しく空を掻く。


「無念……」


血とともに、声がこぼれた。


視界が赤く滲む。

音が遠のいていく。

最後に見えたのは、霞む空の下で翻る、金の扇だった。


——家康。


もう一度。


もう一度だけ、あの十間を。


信繁の首が、がくりと垂れた。


闇が、すべてを呑み込んだ。







雷鳴が聞こえた。


腹の底に響く、重い音。

それが遠ざかっていくのと入れ替わりに、雨の匂いがした。


湿った土と、夏草の匂い。


「——源次郎!」


声がした。


聞き覚えのある声だった。

いや、聞き覚えがあるどころではない。

何度も、何度も夢に聞いた声だった。


二度と聞けないはずの声だった。


「源次郎、しっかりせい!」


目を開けた。


薄暗い板葺きの天井。

揺れる灯明の火。

そして、自分を覗き込む、二つの顔。


一人は、鋭い目をした初老の男だった。

頬はこけ、鬢には白いものが混じっている。

だが、その眼光には、獲物を狙う鷹のような光があった。


「……父、上……?」


真田安房守昌幸。


四年前、九度山の粗末な屋敷で、信繁がその手を握って看取った父が、そこにいた。


「目を覚ましたか」


もう一人が、安堵の息を吐いた。

信繁より一つ年上の、穏やかな面差しの男。


「兄上……」


真田伊豆守信幸。


いや、と信繁は思う。


兄は関ヶ原の後、名を「信之」と改めた。

父の「幸」の字を捨てて。

徳川の大名として生きるために。


その兄が、まだ「信幸」と名乗っていた頃の顔で、自分を見ている。


「何が……起きたのです」


かすれた声で問うと、兄が眉を寄せた。


「覚えておらぬのか。話をしている最中に、突然、雷のような光が陣に落ちたのだ」


「雷……」


「目が眩んでな」


と、父が言った。


「眼を開けたら、お主が倒れておった」


信繁は、自分の体を見下ろした。


傷が、ない。


越前の兵に突き刺された脇腹にも、背中にも、腿にも、何もない。

直垂の下の肌は、つるりとしていた。


両手をかざす。

指の節が細い。

皺がない。

軽い。


体が、信じられないほど軽かった。


その時、表の板戸ががたりと鳴った。


「と、殿! いまのは雷にございますか! ご無事で——」


板戸の隙間から、家臣の河原綱家が顔を覗かせた。


次の瞬間、昌幸が履いていた下駄を引っ掴み、風を切って投げつけた。


鈍い音。

綱家の悲鳴。


「誰も近づけるなと申したであろうが!」


板戸の向こうで、綱家が口を押さえて転げ回る気配がした。


前歯が折れたらしい。

信繁は、呆然とそれを見ていた。


知っている。

この話を、自分は知っている。


犬伏の陣で、父が綱家に下駄を投げつけ、前歯を折った——後に真田の家中で、笑い話として語り継がれた逸話だ。


床に、一通の書状が落ちていた。

震える手で、それを拾い上げる。

差出人の名が、目に飛び込んできた。


石田治部少輔三成。


「父上」


信繁の声は、自分でも驚くほど掠れていた。


「今は……何年にござる」


昌幸が、怪訝な顔をした。


「何を寝ぼけておる。慶長五年、七月二十一日じゃ」


慶長五年。

関ヶ原の、二か月前。


ここは下野の犬伏。

徳川の会津征伐に従軍していた真田父子のもとに、石田三成からの密書が届いた夜。

父と兄と自分が、家を東西に分かつと決めた、あの夜。


十五年。


信繁は、書状を握りしめた。


十五年前に、戻ってきた。


胸の奥で、何かが燃え上がるのを感じた。

槍に貫かれ、闇に呑まれる寸前まで燃えていたもの。

あの十間を詰めきれなかった無念が、消えずにここまでついてきた。


父が生きている。

兄がまだ隣にいる。

舅の大谷刑部も、後藤又兵衛も、あの城で死んでいった者たちも、皆まだ生きている。


そして——家康も。


「源次郎?」


兄が、不安げに顔を覗き込む。

信繁は、ゆっくりと顔を上げた。

その目を見て、昌幸がわずかに目を見開いた。


「……父上。兄上」


信繁は、静かに言った。


「話の続きを、いたしましょう」


外では、遠ざかる雷鳴が、まだ低く鳴り続けていた。


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