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猛暑の終末、向かいの部屋の彼とこもって生き延びる  作者: 空の異変


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第九話 本名を言う場所

サンダルが床に落ちる音がした。


彼は冷凍庫の縁に手をかけて、そこで一度、手を離した。


「その前に、言わないといけないことがあります」


「早くして。日が回る」


「瀬川は、母の旧姓です」


窓の穴から入る熱が、背中の側を焼いている。


「俺の名前は、真木真樹(まきまき)。28歳です」


「……まき、まき」


「はい」


「もう一回」


「言わせないでください」


「ごめん。かわいくて」


「それが嫌で隠してたんです」


彼が、額に貼りついた前髪を後ろへ押しやった。


「あと、ゲーム配信と動画制作なのは本当ですけど、たいして稼いでません。月によって全然違います」


「いくら」


「そこ聞きます?」


「聞く」


「……200に届かない年もありました。部屋は親の持ち物で、光熱費だけ払ってます」


私は頷いた。


「片瀬青葉。かたせ・あおば。31歳」


彼が口を開ける。


「ソフトウェア会社の法人営業で、案件の統括もしてる。年収は720万。5年前に離婚してるのは、さっき言ったとおり」


「……勝てないな」


「勝たなくていい」


私は冷凍庫の縁を叩いた。


「養ってあげよっか」


「え」


「ヒモにならない?」


「なります」


「早い」


「即決は営業の基本だと聞いたので」


彼が縁を跨いだ。


「青葉って呼んでいい? 俺は真樹って呼んでほしい。……瀬川って名乗ってて、ごめん」


「いいよ、真樹」


    *


朝に聞いた予報は62度だった。


予報は予報で、この部屋に温度計はない。確かなのは、窓に穴が開いていることと、電源がもう動かないことだけだ。


蓋は閉めなかった。


突っ張り棒を短く切って、蓋と縁のあいだに噛ませる。全開のまま固定する。


「閉めたほうが涼しくないですか」


「涼しいより先に、息ができなくなる」


「……ですね」


中に入れたのは、密封の確かな瓶を4本と、濡らしたタオル、それから電池で回るほうの扇風機だけ。


水は一滴も注がなかった。浴槽の水はもう飲めるものではないし、入れれば座るぶんの空間が消える。


先に彼が入って、膝を曲げて背中を壁につけた。


私はその横に体を入れて、同じように膝を抱える。


狭い。


肩と腕が完全にくっついて、膝の骨がどこかに当たっている。


顔は、二人とも縁より上に出た。出せる高さに座る、というのだけは守った。


壁面の冷たさが、背中のシャツ越しに染みてくる。


「……あ」


真樹が変な声を出した。


「くしゃみ出そう」


「出していいよ」


「くしゃみ出るほど涼しいの、何日ぶりだろう」


扇風機が首を振りはじめる。風が顔を横切るたび、眠くなる。


「真樹」


「はい」


「ここを出たら、うちの親に会いに来て」


「行きます。戸籍謄本を持って」


「順番が飛んでる」


「婚姻届は俺が取ってきます。役所に置いてあるやつなので、たぶんまだある」


「役所があればね」


「あります。……ないと困ります」


「もう一個ある。お願い」


「聞く」


「友達に会ってほしいです。俺が一生独身だって、中学からずっと言ってるやつらがいて」


「会うよ。生きてたら」


「生きててください」


「そっちも」


「青葉」


「なに」


「ちょっとだけ寝ていいですか」


「いいよ。私が起きてる」


床が短く震えた。余震だと思う。


冷凍庫の中で、瓶が、ころ、と鳴った。


笑うと、肩が当たって痛い。


痛いのに、私は笑うのをやめられなかった。


    *


音が変わって、目が覚めた。


扇風機ではない。もっと大きくて、まばらで、続いている音。


縁から顔を出して、私は息を止めた。


窓の穴から、雨が斜めに吹き込んでいた。


床に水たまりができて、埃を混ぜて広がっている。外は灰色で、空の底が下がってきたみたいに暗い。


「真樹、雨! 雨だよ」


肩を揺すった。


返事がない。


手が触れた頬が、熱い。


「真樹」


「……寒い」


目を開けないまま、彼はそう言った。


私は縁を跨いで外へ出て、彼の腕を引いた。体が重い。


濡れた床で足が滑って、彼の後頭部が冷凍庫の内壁に当たった。鈍い音がして、私の背中が冷たくなった。


「ごめん、ごめん」


引きずってベッドまで運んだ。濡れたシャツを剥がして、乾いたタオルで拭いて、上から薄いタオルケットをかける。


彼は足を出して、また引っ込めた。


薬箱を開けた。


風邪薬、胃腸薬、絆創膏、消毒液、湿布。


解熱剤の箱だけが空だった。あの感染症の頃に使い切って、そのまま買い足していない。


抗生物質のシートが一つ出てきたが、私はそれを箱に戻した。


熱の理由が分からないものに、意味の分からない薬を入れるのは、いちばんやってはいけないことのはずだ。


できるのは、冷やすことと、水を飲ませることしかない。


首の横と脇にタオルを当てて、額のタオルを替える。


目が開いて、喉が動くのを確かめてから、瓶の口を唇に当てた。二口飲んで、また閉じた。


何度も額に手を当てる。手のひらの感じは、何度目も変わらなかった。


冷やしても、汗が出ない。出ないのが、いちばんよくない気がした。


「真樹、何が痛い」


「……ぜんぶ」


「答えになってない」


「営業なので、って言ってください」


「それ、私の台詞」


喋れるうちは大丈夫だと、私は自分に言い聞かせた。根拠は一つもない。


崩れた髪が顔にかかって邪魔だったので、私は一度ほどいて、結び直した。


雨は強くなっていた。


    *


遠くで、雷のような音がした。


一度ではない。間を置いて、2度、3度。


真樹のスマホを取って、ラジオをつけた。


『──上葦(かみあし)ダムで、午後0時40分から緊急放流が実施されています。下流域では急激な増水のおそれが──』


『──葦瀬川中流の左岸で堤防が決壊したとの情報があります。流域の住民は、直ちに近くの頑丈な建物の上階へ──』


上流では、こちらより前から降っていたということだ。


私はバケツを掴んで、割れた窓のところへ行った。雨が降っているうちに、少しでも溜めておきたい。


バケツを置いて、顔を上げた。


    *


道路がなかった。


800メートル向こう、街路樹の並んでいたあたりから手前まで、茶色い面が動いていた。


面の縁は白く巻き上がっていて、その白いところが、低い建物にぶつかるたびに一段高くなる。


茶色い面の上を、白いものが二つ流れていった。車の屋根だと分かるまでに、少しかかる。


2階建ての屋根が傾いて、それから見えなくなった。


雷ではない。


あれは、建物が押されて壊れる音だった。


海ではない。ここは内陸で、あれは川から来ている。


そこまで考えて、頭の中で勝手に線が延びた。


川は下流で海に出る。両親の家は、その海沿いの県にある。


ラジオはここ数日、同じ言い回ししか流していない。流域の、住民は、直ちに、上階へ。


同じ言い方で、どれだけのことが省かれているのか。私には確かめる手段が一つもない。


私は窓枠を掴んだ。掌が切れたが、痛みは遅れて来た。


足の下で、床が細かく震えはじめている。


「真樹」


私は寝室へ駆け戻った。


「真樹、起きて。起きて」


腕を引っ張り上げて、掛けてあった布団を二人の頭の上から被せる。


彼の手が、私の背中を探して、掴んだ。

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