第八話 二人で入る
壁の日めくりは、途中で止めたまま放ってある。
数えているのは私の頭のほうだ。
23日目。
申請した休暇は20日だった。3日前から、私は無断欠勤をしていることになる。
会社がまだあるのかどうかも分からないのに、そこだけ律儀に気になるのが、我ながらおかしい。
「アオさん、それ持ってください。落ちます」
彼が抱えてきた箱の角から、ボトルが一本、滑り出しかけていた。
受け取ると、手の中で形がおかしい。
肩のあたりが凹んで、蓋の下に皺が寄っている。熱で縮んだらしい。
「これ、飲める?」
「口のところが歪んでるやつは、分けておきましょう」
分けた山のほうが、残った山より高かった。
残っているのは、箱でいえばもう箱ではない。床に直接並べた20数本と、色のついた甘いのが2本。
数えたくないので、私は並べ方だけ揃えた。
飲める水と、飲めない水と、飲みたくない水。3つに分けると、3つ目がいちばん多い。
「携帯トイレ、あと9回です」
彼が奥から声を張った。
「9回で何日もつと思う?」
「聞かないでください」
*
「今日は下がるかもしれませんよ」
彼が床に座り込んで、シャツの襟を掴んで扇いだ。
「昨日、半度下がったので」
向かいの棟は、3日前から煙を上げていない。夜の灯りも、もう数えられる数ではなくなった。
数えるのをやめたことを、私は彼に言っていない。
「上げる話はしないでほしい」
「上げてないです。下がる話をしてます」
「60を超えたのに、半度で喜べるのがもう変だよ」
彼が笑って、そのまま仰向けに転がった。
「俺たち、熱に適応してきたんじゃないですかね。まだ二人とも倒れてない」
「うちは三代、熱中症になったことがない」
「うちもです。俺、中学のとき、猛暑日に部活を強行して、相手チーム3人と味方二人を病院送りにしました」
「あなたが送ったの」
「救急車を呼んだのが俺なので、実質的には」
「実質的には加害者だよ、それ」
「否定はしません」
「瀬川さん、痩せたね」
「アオさんもですよ」
「私は前から細い」
「その言い方、痩せてない人がするやつです」
私も床に転がった。
背中のタイルが熱い。冷たいと感じたのは、もう何日前だろう。
天井のガラスの灯りが見えた。災害の前の月に替えたばかりのもので、電気が来ていなくても、まだ光をよく拾う。
そういえば、と思い出した。
人間は地表に湧いたウイルスで、地球は熱を出してそれを殺そうとしている──いつだったか、掲示板でそんな書き込みを読んだ。
読んだときは笑った。
いま思い出しても笑えないのは、単に、頭が働いていないからだと思う。
灯りが揺れた。
目のほうがおかしくなったのかと思って、私は瞬きをする。
揺れは大きくなった。
*
「地震!」
彼の声と、床の突き上げが同時に来た。
私は転がって、ダイニングテーブルの脚を掴んだ。彼は壁際まで這って、両手で頭を抱えた。
建物が傾いて、戻って、また傾く。
食器棚の扉が開いて、中身が順番に出てきた。テレビが台から落ちて、ガラスのテーブルの角を割る。
天井の灯りが、振り子になって、蛍光灯の位置から半分ずれたところまで振れた。
上下の突き上げに変わる。
体が床から浮いて、落ちた。
どこかで、金属が折れる音がした。
上の階から、人の走る音と、ものが倒れる音が、間を置かずに降ってくる。
遮音のいい部屋で、こんなに他人の音を聞いたのは初めてだった。
*
止まったあと、部屋は白っぽい埃でいっぱいだった。
「無事ですか」
「無事」
彼が咳をしながら立ち上がった。天井の灯りが、まだ小さく前後に振れている。
寝室のほうへ行って、そこで足が止まった。
私も追いついて、同じ場所で止まった。
掃き出し窓のガラスが、下半分だけ残して、ベランダに散っている。
固定していた3枚のパネルは、2枚が割れて、一枚が手すりの外へ半分はみ出している。落ちる寸前で引っかかっているだけだ。
廊下に置いてあったポータブル電源の本体から、白い煙が上がっていた。
出力の端子のあたりで、被覆が黒くなって縮れている。
「消火器」
私が言う前に、彼が台所へ走っていた。
*
粉が収まったあと、私たちはその場に座り込んだ。
電源の画面は何も表示しない。ボタンを押しても反応がない。
「直せる?」
「中は開けません」
彼が首を振った。
「開けたら、たぶんもっと燃えます」
ベランダの割れたパネルを見た。手すりの外の一枚は、風もないのにゆっくりと角度を変えている。
昨日まであった仕組みが、50秒でなくなった。
彼は一度廊下に出て、玄関のドアと、階段室の防火扉を順番に押した。
「どっちも動きます」
戻ってきて、それだけ言った。
歪んで開かなくなった扉の話を、この23日で何度も聞いていた。動く、というのは大きい。
『──震度、および震源については、現在確認中です。なお、最新の予報では、日中の最高気温は62度に達する見込みで──』
彼のスマホから、雑音混じりの声が流れた。
62。
窓の穴から、外の空気がまっすぐ入ってくる。顔の産毛が縮れて、毛穴の中に巻き込まれるような痛みがあった。
日が高くなるまで、あと何時間だろう。
*
私は立ち上がって、冷凍ストッカーの前に行った。
中のものを、床に放り出していく。密封の効いている冷たい瓶だけ残して、あとは全部出した。
「何を」
「押して。窓から離して、ベッドの足のところまで」
脚のロックを外して、二人で押した。
タイヤが埃の上に2本の線を引く。
蓋を開けて、内側に手を入れた。壁面はまだ冷たい。
電気が切れても、この箱は熱の入ってくる速さがほかより遅い。それだけの話で、冷える箱ではもうない。
「瓶を4本。密封が確かなやつだけ。あとは濡らしたタオルと、電池が入ってるほうの扇風機」
「水、全部入れないんですか」
「入れない。持って出るぶんを残す」
「出たあとの話をするんですね」
「するよ」
「靴、脱いで入って」
「いや、俺は」
彼が一歩下がった。
「俺、閉所恐怖症なので。アオさん、一人なら入れますよね。俺が外から瓶を入れます。そうすれば、たぶん──」
目が泳いでいた。
配線の説明をしていたときと、同じ人とは思えないほど下手な嘘だった。
窓の穴から入る空気が、さっきより熱い。日が屋根を越えたらしい。
時間がない、というのは、こういう手触りをしている。
*
「瀬川さん」
私は彼を見た。
「5年前に離婚してる。殴られてた。出てくるのに1年半かかった」
彼の口が半分開いて、止まった。
「だから、急に触られると跳ねる。頭を撫でられても跳ねる。あれはあなたのせいじゃないの」
「……はい」
「ずっと、誰かが近くに来るたびに、まず逃げ道を数えてた」
窓の穴から入る風が熱い。喋るたびに喉が乾いていく。
それでも、いま言わないと、たぶんもう言う機会がない。
「いま、数えてない」
「……はい」
「この23日、私は一度も、あなたから逃げる道を数えてない」
彼が息を吸う音がした。
「瀬川さん、一緒に死んでくれる?」
私は続けた。
「死にたくないから言っている」
彼の喉が動いた。
「二人で入れば、外の熱が入ってくるまでの時間が、一人より短くなる。それは分かってる。でも一人で入って一人で生き残るのは、私はもう嫌なの」
「……」
「だから、入って」
彼は、まだ何も言わなかった。
それから、履いていたサンダルを脱いだ。




