第七話 電話が切れても、ここに
ガラスの点は、4つから増えなかった。
ベランダに出て手のひらを上に向けると、2度だけ、冷たいものが当たった気がした。
それだけ。
30分待って、私たちは中に戻った。
『──隣県で実施された人工降雨の実験について、気象台は、降水域が一部でこちらの県境付近まで広がったとみられるとしています。降水量はごくわずかで──』
彼がイヤホンを片方こちらに寄こした。
「実験だって」
「実験でも、雲はこっちに来たんですね」
「来たけど、途中でなくなった」
落ちてくる途中で蒸発した、ということだろう。4つの点は、その生き残りだ。
日が昇ると、ベランダの床はまた乾いた。
*
対面の棟は、3日たっても何度か煙を上げ直した。
黒い煙が空の一角を塞いで、そこを通った光だけが赤くなる。
『──本日の最高気温は60度に達しました。繰り返します──』
60。
数字は上がるが、私たちの一日の形は変わらない。朝にパネル、昼は動かない、夕方に瓶、夜に本。
変わったのは、体を拭くのをやめたことと、水洗を2日に1回にしたことだった。
浴槽の底に残っているぶんを、私は目分量で数えた。バケツ一杯と、少し。
彼の唇が割れていた。
「切れてるよ、そこ」
「アオさんもですけど」
「こっちは見えないからいいの」
「鏡、ありますよ」
「見ない」
飲む水は減っていた。潰した段ボールの山は、玄関の高さを越えている。
多いと思っていた232リットルは、数えるのをやめたあたりから、目に見えて低くなった。
「半分は切りましたね」
「切ったね」
彼はそれ以上、数字を言わなかった。私も聞かなかった。
*
19日目の夜、音で目が覚めた。
窓に何かが当たっている。連続している。
私は寝室を飛び出した。玄関を開けると、向かいのドアも開いた。
「アオさん、雨です!」
「聞こえてる」
二人でベランダへ出た。
雨だった。
バケツ、洗面器、鍋、空になった段ボールの上にかぶせたビニール、飲み終えたペットボトルの上半分を切ったもの。置けるものを全部置いた。
手のひらに溜まった水は、生ぬるくて、少し埃の味がする。
それでも、上から水が落ちてくるという事実の前では、味はどうでもよかった。
彼は濡れたシャツを脱いで、腕で頭から水を落としている。
私は背を向けて、タオルを頭にかぶった。雨が首筋を通って、背中を落ちていく。
2週間ぶんの、乾いた塩の層が溶けていく感じがした。
上の階からも、下の階からも、笑い声が聞こえた。
誰かがベランダで手を叩いている。小さい子供の、高い声が混じっていた。
この棟には、まだこんなに人がいた。
「アオさん、口開けないでくださいね」
彼が背中越しに言った。
「なんで」
「屋根と手すりを通ってきた水なので。体だけにしましょう」
「ちぇ」
「舌打ちしないでください」
30分で、雨は上がった。
バケツの中は、三分の一だった。
*
「乾杯、しませんか」
彼が缶詰の棚から白桃を二つ持ってきた。
プルタブを起こす音が、いやに贅沢に響く。
「乾杯」
「乾杯」
シロップが甘すぎて、舌の奥が痛くなった。
痛くなるくらい甘いものを、私は19日ぶりに食べた。
彼はフォークの代わりに箸を使い、白桃を半分に割ろうとして失敗している。
「それ、滑るよ」
「滑りますね」
「缶ごといけば」
「品がないじゃないですか」
「いまさら」
2つ目の桃に箸を入れたところで、彼のリュックの中でスマホが鳴った。
続けて、私のも鳴った。
*
溜まっていた通知が、まとめて落ちてきた。
避難情報。高温注意。
避難所の一覧。会社の安否確認システムからの自動送信が4通。
どれも日付が古い。いまの私たちには、何一つ使えない紙屑だった。
「電波、来てます」
彼が耳に当てて、立ち上がった。
「母さん。……うん。うん、俺は平気。水は、まあ、ある」
私は自分の電話を握って、母の番号を出していた。
『おかけになった電話は、電源が入っていないか──』
もう一度。同じ。
家の固定電話。呼び出し音が鳴らず、短い音が続く。
父の番号。同じ案内。
「うん、そっちの避難所、涼しい? ……よかった。あのさ、友達に電話貸すから、切るね」
彼が私の前に自分のスマホを置いた。
「使ってください。2台あれば、片方が探して、片方がかけられるので」
私は受け取った。
伯父。叔母。
ずっと連絡していなかった従姉。
3人目で、繋がった。
「もしもし」
「もしもし、あの、青葉です」
「せい……? どちらさま」
「片瀬の青葉です。3番目の叔母さんの、娘の」
「ああ、青葉ちゃん。久しぶりねえ」
「すみません、急に。実家に連絡がつかなくて。あっちの様子、何か聞いてませんか」
「うちも聞いてないの。あのへん、全部止まってるらしくて」
「……そうですか」
「避難所に電話してみたら? 番号、送るわ。名簿を見てくれるところもあるみたいよ」
送られてきた番号は6つあった。
1つ目。名簿にありません。
2つ目。確認できません。
3つ目。少しお待ちください、という声のあと、保留の音楽が流れた。
同じ16小節が、7回繰り返される。私は数えていた。
数えていないと、切ってしまいそうになる。
8回目の途中で、音楽が止まった。戻ってきたのは人の声ではなく、無音。
4つ目にかけようとして、画面の上の表示が変わった。
圏外。
もう一台も、圏外。
*
指が動かなくなるまで、私は2台の番号を押し続けた。
押しても、発信の画面すら出ない。
「60を過ぎてるの」
声が変になっていた。
「二人とも、山にいて、電気がなかったら、あの家、エアコンないとこ多いし、井戸のポンプも電気だし──」
紙の箱が視界に入った。
彼がティッシュを差し出している。
私はそこで初めて、自分の顔が濡れているのを知った。
火事の夜も、56度の階段も、泣かなかった。
電話が繋がらないだけで、こうなる。
「俺、何て言えばいいか」
彼が言った。
「大丈夫ですとは、言えないので」
「言わないで」
「言いません」
彼は少し離れたところに座り直した。
床に置かれたティッシュの箱が、私と彼のあいだにある。
「隣、いいですか」
私は頷いた。
彼が膝でにじり寄ってきて、肩が触れそうなところで止まった。
シャツの袖が、私の腕の産毛に当たる。
「手、出します」
宣言してから、彼は右手を上げた。
その手が私の背中のあたりで止まっているのが、見なくても分かった。
体が縮んだ。勝手に縮んだ。
彼の手が、空中で止まった。
「やめます」
「……違う」
「違わなくても、いいです」
私は息を吸った。吸って、吐いて、もう一度吸った。
19日ぶんの汗と、雨の匂いがする。
「やめないで」
言い終わるまで、彼は動かなかった。言い終わってからも、2秒くらい動かなかった。
それから、腕が背中に回ってくる。
ひどく下手だった。力の入れ方が分からないらしく、最初は触れているだけで、途中で少しだけ締まって、また緩んだ。
肩の骨が当たって痛い。腕も汗で滑る。
「ご両親は、たぶん、電波の届かないところにいるだけです。断定はできませんけど」
「うん」
「一度繋がったなら、また繋がります。それも、断定はできないですけど」
「断定しないね、あなた」
「できないので」
できない、と言い切る声が、いちばん落ち着いた。
私は額を彼の肩に預けた。
汗くさい。ものすごく汗くさい。
そのことが、なぜかいちばん安心した。
「……待つ」
「待ちましょう」
*
腕がほどけたあと、私たちはしばらく床に座っていた。
彼が立って、放り出したままの缶を持ってきた。
シロップの中で、半分に割れそこねた白桃が傾いている。
「ぬるくなりました」
「ぬるくても甘いでしょ」
「甘いです」
私は箸を受け取って、残りの半分を掬った。




