第六話 ノックは二回まで
向かいの棟の灯りを数えるのが、夜の習慣になっていた。
最初に数えた晩は、30以上あった。
一昨日は16。昨日は14。
今夜は12だった。
減った灯りが何なのか、私は考えないことにしている。蝋燭が尽きただけかもしれない。
避難所へ移ったのかもしれない。
数える以上のことは、ここからは何もできない。
「今日は12」
「昨日より二つですね」
「数えてるの、知ってたんだ」
「毎晩、窓のところで足が止まってるので」
「やめたほうがいい?」
「……いえ。俺も数えてます」
彼はガラスの一点を指した。
「24階に一つ、ずっと同じ場所で点いてるのがあって」
「知ってる。あれ、消えない」
「消えないでほしいですね」
「瀬川さん、蝋燭ある?」
「ないです。火は、こわいので」
「私もない」
*
潰した段ボールが、玄関に積み上がってきた。
空いた箱を平らにして重ねるのは彼の担当で、枚数を見れば、飲んだ量はだいたい分かる。
浴槽の水位は、指3本ぶん下がった。
蒸発と、1日1回の水洗と、体を拭くぶん。そのうち、拭くのをやめる日が来る。
「箱、何枚になりました」
「14」
「思ったより早い」
「暑いと飲みますから」
「飲まないほうが早く死ぬので、飲みましょう」
「そういう言い方、営業っぽいですね」
「褒めてる?」
「褒めてます」
『──本日の最高気温は58度でした。明日も同程度の見込み──』
「変わらないですね」
「変わらないほうがいいの、これ」
「上がらないだけましだと思うことにしてます」
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい。……ドア、内側から掛けておいてください」
「掛けてる」
「ですよね」
夜、私はページの波打った本を伏せて、灯りを落とした。
*
ドン、という音で体が跳ねた。
床が揺れたのではない。空気のほうが叩かれた感じだった。
私は寝室を出て、玄関へ走る。
共用廊下へ出ると、向かいのドアも同時に開いた。
彼がサンダルの片方を引きずったまま出てくる。
二人で廊下の窓に寄った。
向かいの棟の、7階か8階のあたりから火が出ていた。
窓の四角が、内側から橙色に塗られている。上の階の窓にも、同じ色が回りはじめていた。
「何が燃えて」
「分かりません」
「消防、来ますか」
「……どこも手いっぱいだと思います」
道路には、赤い光も、走る人影もなかった。
80メートル向こうで棟が一つ燃えていて、誰も来ない。それがこの街のいまの状態だった。
ドン。
2度目の音で、廊下の窓ガラスが震えた。
私は彼の腕を掴んでいた。掴んでから、掴んだことに気がつく。
「大丈夫です。向こうの棟です。あいだに道路があって、80メートルくらい──」
彼の手が、私の頭に触れた。
体が跳ねた。
私は両手で彼の胸を押している。押してから、押したことに気がついた。
彼が半歩下がって、手を空中で止めた。行き場のない指が、そのまま下りていく。
「……すみません」
「違う」
言葉が足りない。喉の奥が狭い。
「違うの。あなたじゃない」
廊下の熱が、足の裏から上がってくる。
「入って」
私は自分のドアを押さえた。
「そこ、暑いから。入って」
彼が靴を脱ぐ音を背中で聞きながら、私は寝室へ入って、内側の鍵を回した。
*
カチ、という小さい音が、体の中では別の音になる。
薄い合板を外から叩く音。2回で終わらない音。
私は床に座って、膝を抱えて、両手で耳を塞いだ。
ノックが2回、聞こえた。
「アオさん」
耳を塞いだ手のあいだから、それだけ入ってくる。
私は答えなかった。
「ここにいます。開けなくていいです。何かあったら、声だけください」
それきり、ノックは来なかった。
リビングの床に何かを置く音がして、あとは動く気配が消える。
戻る足音もしなかった。
あの人は、廊下の熱を知っている。自分の部屋のほうがこちらより暑いことも知っている。
それでも、ドアの前から動かない理由が、私には計算できなかった。
計算できないものを、私は昔から苦手にしている。
*
窓から、向かいの棟が見えた。
火は上の階へ移っていた。ベランダから水をかけている人がいる。
バケツ一杯ぶんの水は、途中で白くなって消えた。
懐中電灯を振っている窓が二つ。
上の階の窓から、翼のないものが落ちていった。
私は目を閉じて、また開ける。
火の色は、部屋の中まで届いていた。届いているのに、温度はほとんど変わらない。
80メートル向こうが地獄でも、こちらの空気は昨日と同じ重さだった。
その理不尽さのほうが、見ていられなかった。
眠ったつもりはない。火の色が薄くなって、また濃くなるのを、何度か見た。
向こうの音は、ガラス越しにほとんど届かない。遮音のいい部屋を選んだのは私だ。
選んだ理由が、今夜だけは逆から働いた。見えるのに、聞こえない。
膝を抱えたまま、私は夜が白くなるのを待った。
足の感覚が、途中でなくなった。
*
コン、コン。
2回だけだった。
「瀬川です」
名前が先に来た。名前を先に言えば、音が音だけにならないと、この人は分かっている。
私は壁に手をついて立った。立ってから、両脚が痺れていることに気づいて、その場に座り直した。
「……起きてます」
「よかった。あの、窓を見てもらえますか」
鍵を回して、ドアを細く開ける。
彼はリビングの床に座っていた。壁に背中を預けて、こちらを見上げている。
寝ていないのは、目を見れば分かった。
「ずっとそこにいたんですか」
「動くと音がするので」
「……ごめんなさい」
「謝らないでください。俺が、いきなり触ったので」
「それもだけど」
「それもって、何ですか」
言いかけて、うまく置き換えられない。
ドアを蹴らなかった。叩き続けなかった。
声を荒げなかった。名前を呼んで、返事がなくても、それ以上は入ってこない。
そのどれも、口にすると変な話になる。
「……何でもない」
「気になるんですけど」
「窓」
彼が顎で示す。
私は膝で歩いて、掃き出し窓に近づいた。
ガラスに、点が3つ。
その上に、もう一つ。
「……水」




