第五話 干し肉は食べない
夜明け前のベランダは、まだ息ができた。
3枚のパネルを床に寝かせて、角度をつけて手すりの内側に固定する。外へ出すな、通路を塞ぐな、と説明書に赤字で書いてあった。
電源本体は室内。日の当たらない廊下の、水気のない場所に置いた。
「本体を日向に出したら、たぶん止まります」
「保護がかかるってこと?」
「暑くなりすぎると、勝手に休むんだそうです。人間より賢い」
空が白んで、手すりの影が伸びた。
パネルに光が乗る。
画面の数字が、7から8に動いた。
「動いてる!」
「動いてますね」
彼が説明書を閉じて、こちらを見た。
「アオさん。尊敬します。1年半、開けなかったことも含めて」
8から9まで、思っていたよりずいぶん長かった。
箱には600ワットと書いてある。書いてあるのと、出るのは別らしい。
「角度と、雲と、あとはパネル自体の温度で落ちます」
「暑いと発電も落ちるの」
「落ちます」
「全部この暑さのせいだと、文句の行き先が一つで助かるね」
*
冷凍ストッカーの電源を入れて、蓋を閉めた。
「開けて涼んだりは」
「熱は、行く先が要るので。開けたら部屋の熱が中に入って、そのぶん後ろから吐き出されます」
「だと思った」
「思ってたなら聞かないでください」
冷えた瓶を3本だけ取り出して、浴室へ運ぶ。首の横と、脇と、脚の付け根。
濡らしたタオルを首に巻く。
体の全部を冷やす必要はない。血の通り道を冷やせばいい、とどこかで読んだ。
どこで読んだかは思い出せない。
USBの小さい扇風機を2台、床に並べた。一台は内蔵電池つきで、線を抜いても回る。
風は涼しくない。涼しくないのに、当たっていると少しましになる。
*
昼前、彼が自分の部屋から箱を運んでくる。
一往復では終わらなかった。二往復でも終わらなかった。
玄関に積み上がった段ボールを、私は数える。
18箱。
「水道水が苦手で、箱で買ってあります。先に言えばよかったですね、俺」
「……これ、全部あなたの」
「はい」
「何を想定して買ったんですか」
「買い物に出たくなかっただけです」
「それだけで18箱」
「毎日飲むものを、毎日買いに行くのが、どうしても嫌で」
「分かる」
「分かりますか」
「私はそれで冷凍庫を買った」
彼が、積んだ箱を端から指でたどっていく。18まで数えて、手が止まった。
「アオさんの冷凍庫がなかったら、俺の水だけじゃ3日目で茹だってました」
私が20日の籠城を見込んで買ってきた水は、2箱だった。
紙に書き出して、二人分を足す。飲めるぶんだけで、232リットル。
多い。ただし、多いというのは、減りはじめるまでの話だ。
1日に二人で何リットル使うのか、私は途中まで計算して、やめた。
数えると、数えた日から減る速さのほうが怖くなる。
食べ物も並べた。缶詰が64。
クラッカーの袋、ナッツ、アルファ米が20食、袋麺が5つ。
米が10キロ。
「これ、炊けないですね」
「炊けない」
電気がなければ、米はただの重い荷物になる。
キャンプ用品の箱からは、携帯トイレが30回分出てきた。買った記憶がない。
浴槽の水で流すのは大のときだけ、と最初に決めた。3日目には、1日に1回へ変えている。
残りの回数を数えるのは、私の担当になった。
「アオさん、もしかしてお姉さ──」
「その呼び方はやめてください」
彼が口を閉じた。
「……はい。すみません、アオさん」
「はい」
それきり彼は、二度と言わなかった。
*
解凍しかけた肉は、塩をしてベランダに並べた。
夕方に取り込むと、板の床に脂が落ちていて、危うく滑るところだった。
表面は乾いて、色は濃くなって、匂いだけが立派になっていく。部屋中が焼肉屋になる。
「食べます?」
彼が言った。言いながら、自分で首を振っている。
「やめておきましょう」
「やめておきましょう」
乾いたことと、安全なことは別だ。この暑さで腹を壊したら、水が2倍要る。
葉物は袋の中で溶けていたので捨てた。卵も捨てた。
冷凍庫の底に溜まっていたアイスの水も、袋ごと2枚まとめて捨てた。
もらったぶんの一本が、どれだったかは分からない。全部、同じ色の水になっていた。
主食は缶詰と乾物に決まった。鯖の味噌煮と、クラッカーと、ナッツ。
味は、3日で飽きた。
飽きても食べた。食べないと、暑さに耐えるための体力がそのまま減る。
冷やした炭酸を一本だけ開けて、二人で半分ずつにした日がある。あれが、この数日でいちばんおいしかった。
*
一日の形が決まった。
朝はパネルの角度を直して、電源を充電に回す。夕方に瓶を冷やし直して、夜に読む。
昼のいちばん暑い時間は、二人とも動かない。
浴室のタイルに背中をつけて座って、喋らない。喋ると喉が渇くからだ。
その時間が、毎日3時間ある。3時間、人は本当に何もしないでいられる。
本は、買ったまま開いていなかったものが棚に何冊もあった。
汗が落ちて、ページが波を打つ。指が濡れているので、紙をめくる音が鈍い。
彼も自分の部屋から本を持ってきて、ついでにボードゲームの箱を3つ抱えてきた。
「これ、配信用に買ったやつです。一度も使ってない」
「配信」
「ゲームの実況と、動画を作る仕事です。夜中に編集してるので、目の下がこれです」
初めて会った日の、起きたばかりみたいな顔を思い出した。
あれは起きたばかりではなく、寝る前だったのかもしれない。
一度だけ、最後まで通した。
カードを引いて、線路を伸ばして、相手の行きたい方向を塞ぐゲーム。私は塞ぐのが得意で、彼は伸ばすのが得意で、結果は彼の勝ちだった。
「営業なのに、道を塞ぐの上手すぎませんか」
「塞いでから、どうぞって言うのが仕事なので」
「こわ」
「そっちこそ、終盤の伸ばし方が意地悪でしたよ」
「配信で覚えました。見てる人が退屈しない負け方って、あるので」
「負ける前提なんだ」
「勝ってばかりだと、誰も見ないんです」
「じゃあ次は、私が負ける番?」
「負け方、教えましょうか」
「いらない」
『──本日の最高気温は、58度を観測しました。屋外での活動は──』
ラジオが言い、彼がイヤホンを抜いた。
数字には、もう二人とも慣れていた。
日が落ちて、部屋が少しだけ軽くなる。
彼はカードを箱に戻して蓋をし、自分の本を3冊重ねて抱えた。
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
玄関のドアが閉まって、少し遅れて、向かいのドアも閉まった。
私はページのあいだに指を挟んだまま、本を閉じた。




