第四話 暗証番号と浮かぶ鶏
10階から上は、一段ごとに空気が厚くなった。
残り6階。数えるのをやめたくなる数字だ。
12階の踊り場で、乾いた音がした。
窓ガラスに、端から端まで細い線が一本走っている。枠のほうが先に歪んだらしい。
「割れるんですか、これ」
「枠とガラスで、伸び方が違うので」
「全部割れますか」
「分かりません。日の当たるところから順に、としか」
13階の窓は無事だった。割れた階と割れない階に、規則はないように見える。
背中を伝った汗が、腰のところで止まって、そこから先へ進まない。蒸発が追いつかないのではなくて、たぶん、もう出す水が足りていない。
14階で、私の足が上がらなくなった。
彼が2段下りてきて、リュックの肩紐を掴んで引く。乱暴だったが、おかげで一段上がれた。
15階。手すりが熱くて、掴んだ手のひらが痛い。
16階の防火扉を、二人で押し開けた。
*
共用廊下は、階段室より暑かった。
彼がポケットを叩いている。左、右、胸、リュックの前。
「鍵が」
「0726」
私は自分のドアを指した。
「暗証番号です。押して」
彼が顔を上げる。
「いいんですか」
「早く」
電池式の錠は生きていた。4つ押すと、気の抜けた電子音のあとに、いつもの案内が流れる。
【おかえりなさい】
*
二人で転がり込んで、私は後ろ手にドアを閉めた。
廊下の熱が、閉めた線のところで切れる。
部屋の中は、外よりましという程度だった。
それでも、ましというのは大きい。二人でしばらく玄関に座り込んで、残っていた冷気を吸った。
コンクリートは、外の熱をそのまま通すわけではないらしい。朝からの熱がいま届いている、という感じの遅さで、部屋は温まっていた。
立ち上がって、冷蔵庫を開けた。
中の空気がもう冷たくない。野菜室のレタスが、袋の中で水を出している。
冷凍ストッカーの蓋を持ち上げると、こちらはまだ白い息が出た。ただし、上のほうのアイスの箱は形が崩れて、底に色のついた水が溜まっている。
「冷凍庫、大きいですね」
「あの感染症の頃に、勢いで」
「勢い、えらいな」
「……いや、これ、いまこのフロアでいちばん頼れる箱ですよ。うちの冷凍室なんか、製氷皿2枚で満員です」
飲む水は箱のまま、玄関脇に積んである。浴槽にためたぶんは、もう飲み水には数えない。
分けておかないと、あとで必ず間違える。
私は浴室へ向かった。
北側で、窓が小さくて、朝から日が入らない場所だ。この家でいちばん遅く温まる。
冷凍ストッカーから丸鶏を4羽出して、二重の袋の上からさらにポリ袋をかぶせ、口を縛って浴槽に沈めた。
沈まない。
「浮きますね」
「浮きますね」
私は服のまま浴槽に入った。鶏が4羽、水の上でゆっくり回っている。
彼は蓋を下ろした便器に腰かけて、洗面器に足を入れ、膝の上にもう一つ洗面器を載せ、腕の中に丸鴨を抱えていた。
絵として、かなり間抜けだと思う。
「これ、ゾンビでも来ると思って詰めてたんですか」
「ゾンビのほうがよかった。家から出ないで済む」
「たしかに」
彼が笑った。笑うと、目の下の黒さが少し薄くなる人だった。
水は、指先が冷えるほどではない。それでも、喉から下の焦げるような感じが引いていく。
「この水、飲むんですか」
「飲まない。飲むのは玄関の箱のほう」
「分かりました。混ぜないようにします」
腕の中の鴨を持ち替えて、彼は洗面器の縁に踵を乗せた。
「アオさん、ここ、いちばん涼しいって最初から知ってました?」
「夏に、洗濯物が乾かないから」
「理由がひどい」
「役に立ったからいいの」
*
日が落ちて、向かいの棟にぽつぽつと灯りがついた。
蝋燭だろう。ずいぶん残っている。
風呂の水が冷たく感じられるようになったので、私は立ち上がった。
足の裏が床に触れる。
タイルの模様が、下から上へ流れた。
*
目を開けると、床のタオルの上にいた。
肩に濡れたバスタオルがかけてあって、少し離れたところに彼が膝を抱えて座っている。
「動かないでください。2分くらいでした」
「……水」
「飲み込めますか。喉が動くなら、少しずつ」
常温のスポーツ飲料が、口の中でやけに甘い。半分飲んだところで、指に力が戻ってきた。
「支えて、よかったんですけど」
彼が言い訳のように言った。
「浴槽の縁に、当たらないようにするので精一杯でした」
「充分です」
彼はそれきり動かず、私が自分で起き上がるまで、膝を抱えたまま同じ場所にいた。
近づいてこなかったことを、私はたぶん、あとで思い出す。
*
夜のあいだに、蛇口が止まった。
最初は勢いが落ちて、細くなって、切れた。彼が洗面所とキッチンを両方ひねって、首を振る。
停電と、断水と、圏外。
3つ揃うと、部屋はただの箱になる。
「向かい、戻れます?」
「戻れます。……たぶん、こっちより暑いですけど」
私の部屋には冷凍庫があって、彼の部屋にはない。それだけの話だ。
「リビングでいいなら」
「助かります」
彼はリビングの隅に自分のリュックを置いて、そこから動かなかった。
彼のスマホでラジオをつけた。イヤホンを垂らしたまま、床に寝転がって聞く。
『──日中の最高気温は、60度に達する可能性があるとの予報です。屋内でも、風通しと水分に十分──』
「予報だって」
「予報です」
60度という数字は、いま聞いても現実の手触りがない。56度と60度の違いを、体では区別できない。
「残量、どれくらいですか」
彼がスマホを傾けて見せた。
「3パーセントです」
電池が切れれば、この部屋に外からの声が一つも入らなくなる。
モバイルバッテリーは二つある。それも、いずれ空になる箱にすぎない。
私は天井を見たまま、順番に思い出していった。
冷凍庫。飲む水。
浴槽。食べ物。
それから。
「……あ」
起き上がった拍子に、頭の後ろが鈍く鳴った。
*
書斎の収納棚の前に、椅子を引いてくる。
「上の段の、四角い箱を下ろしてください」
「これですか。……軽いな」
「たぶんそれはパネルです。重いほうは下の段」
彼が下ろした箱を受け取って、床に置く。低い段のもう一つは、二人で手前へ引きずり出した。
持ち上げようとして、二人とも一度あきらめた。
テープは、届いた日のまま乾いて白くなっている。
カッターを入れると、閉じ込められていた梱包材の匂いが出てきた。
1年半、この匂いはここにいたわけだ。
「ポータブル電源」
彼が説明書を広げた。
「これ、アオさんの」
「1年半前に買った。車中泊で旅行するつもりだったのに、停める場所が見つからなくてやめたの」
「旅行の代わりに籠城で使うの、なんか嫌ですね」
「ほんとに」
電源ボタンを押す。画面に数字が出た。
7パーセント。
そこで二人とも黙った。
「……つまり、こっちも充電しないと、何もできない」
「そうなりますね」
「ただ、7パーセントでも、つながるかどうかは先に確かめられます」
彼が折りたたみパネルの箱を開けて、3枚の板を畳のように広げた。
端子を一つずつ確かめて、説明書の図と見比べていく。手つきは、少なくとも私より慣れていた。
「こういうの、得意なんですか」
「配線だけは。仕事で使うので」
何の仕事かは、そのとき聞かなかった。
私は懐中電灯を持ってその手元を照らした。
窓の外は、まだ黒い。
「日が出る前に、ベランダに出します」




