第三話 駐車場を出る
呼び出し音は、10回で切れる。
3度目でやめた。
汗が顎から落ちて、玄関のタイルに丸い跡を作る。私は床に座ったまま、冷凍ストッカーの蓋を開けた。
丸鴨を一羽、二重の袋ごと引っ張り出す。凍った塊を抱えると、腕の内側がすぐ痛くなった。
バスタオルを一枚巻いて、抱え直す。
これでいい。
「落ち着いて。順番に考える」
声に出すと、その声が部屋に残った。遮音のいい部屋だ。
外の音も、隣の音も入ってこない。
経口補水液を開けて、半分飲む。ハッカ油を首筋に塗って、冷却ジェルシートを額に貼った。
毛布を浴槽の水に浸して、肩からかける。
できることが尽きた。
そこでインターホンが鳴った。
「管理室です。……咳、失礼しました。市内は高温災害の状況にあります。屋上の設備に損傷があり、電力の復旧時期は未定です。地下駐車場は比較的気温が低く、地下2階で38度を計測しています。ご自身の判断で、一時的な退避先としてご利用ください」
地下。
考えていなかった。
リュックに水を3本、経口補水液、ハッカ油、菓子パンを二つ。抱えていた鴨を押し込んで、毛布を濡らし直す。
車の鍵を掴んで、私はドアを開けた。
同時に、向かいのドアも開いた。
大きなリュックを背負った向かいの人が、そこに立っている。
「ついてきてください。俺の車、ガソリンが満タンです」
私は半歩下がった。
体が先に動いていた。
彼の顔から表情が抜ける。
「……すみません。変な意味じゃないです。お車もお持ちですよね。先に俺のを使って、燃料が切れたらそちらを使えば、そのぶん長くもちます」
廊下の窓から日が入っていて、部屋より暑い。吸い込むと喉の奥が焼ける。
「行きましょう」
私は鍵を握り直して、ドアを閉めた。
*
階段室は、思っていたより涼しかった。
ふだん誰も使わない場所で、日も当たらない。16階から下りる足が、勝手に速くなる。
水の箱を抱えた管理会社の人が二人、私たちを追い越していった。
下の階から足音が上がってきた。一組ではない。
舌打ちと、子供の泣き声と、荷物が壁に当たる音が混ざっている。
5階の踊り場に、白髪の人が壁を背にして座っていた。
通り過ぎる人が何人かいたが、誰も止まらない。
「大丈夫ですか」
私が聞くと、その人は顔を上げずに手を振った。
「足がな。動かん。ええから行き」
「肩を貸します。二人いますから」
先へ行っていた向かいの人が、角から戻ってきて言った。
「いらん。行け」
「無理にとは言いません。ここ、風は通ってますから」
「知っとる。ここの住人だ」
声が鋭くて、私は反射的に階段を下りた。
3階で彼が追いついてくる。リュックのファスナーを閉めながら、前を向いたまま言った。
「水を、一本置いてきました」
「怒られたのに」
「怒られましたね」
「それでも置いたんだ」
「置きました」
それだけだった。低い声が、少し震えていた。
*
地下1階。
階段室の出口に近いところで、SUVのライトが2度光った。
彼は運転席に乗り込んでリュックを助手席へ投げ、エンジンをかける。振動と一緒に、ガソリンの匂いが上がってきた。
私はもともと車に酔う。後部座席に体を入れて、息を浅くした。
酸っぱい匂いがする。発酵した果物の匂いだ。
「すみません、果物の袋を出し忘れてて」
前から声がした。ミラーで私の顔を見たんだろう。
座席の下から袋を引き出して、口を縛って、隅に押しやる。捨てはしなかった。
持ってきた食べ物は多くない。
冷気が回りはじめて、濡れた毛布を畳んで膝に載せた。
「アオです。……シート、濡らしてすみません」
「瀬川です。気にしないでください」
しばらく、エアコンの音だけになった。
「……あのアイス、食べました?」
「冷凍庫に入れました」
「入れたんだ」
「溶けるので」
彼は何か言いかけて、やめた。
彼が手を伸ばして、スマホをダッシュボードに立てる。雑音が流れ出した。
「電波、入らないですよね」
「これ、電波がなくてもFMが聞けるんです。イヤホンがアンテナ代わりになるので」
『──屋外での活動は中止してください。繰り返します──』
『──北部の氷床で、観測史上もっとも早い融解が──』
『──専門家は、この気温の地域はすでに人が住む条件を満たしていないと──』
「聞かないんですか」
「順番に悪くなるだけなので」
「……だね」
彼は3つ目でスイッチを切った。
窓の外を、リュックを背負った人たちが通っていく。老人と、子供と、荷物。
「だからお義母さんのところへ行こうって言ったでしょう」
「今その話をするのか」
通り過ぎていった夫婦の声が、ガラス越しに途切れて聞こえた。
周りの車が、次々にライトをつけている。10台のうち8台はもうエンジンがかかっていた。
天井の照明が2度点滅する。
エレベーターは止まっている。この灯りは、どこの電気だろう。
それに、音がない。
いつもこの駐車場で唸っている、あの低い音がしない。
バン。
前の席で、彼がハンドルを叩いた。
*
音が、体の中で別の音に変わる。
薄い合板のドアを、外から叩く音。手のひらではなく、拳の側面で。
あの部屋のドアは薄くて、音が骨まで届いた。
私は流しの前に立っていて、指のあいだから落ちたものが白い床に散っていた。
赤い。自分のだと分かるまでに、少し時間がかかった。
判を押したのは5年前だ。半年かけて知らない土地を移動して、いちばん音の届かない部屋を選んで借りた。
ワンフロア2戸、遮音等級、独立した防火扉。選んだ理由を、私はいまでも全部言える。
「──さん。すみません」
呼ばれて、体が戻ってきた。
彼が半分振り返った姿勢のまま、固まっている。
「今のは、俺が自分に腹を立てただけです。……驚かせました」
差し出された水のボトルが、途中で止まって、引っ込んだ。
「ご自分のを飲んでください。そのほうがいいですよね」
私はリュックから自分の水を出して、半分飲んだ。心臓が、少しずつ元の速さに戻る。
「何に腹を立てたんですか」
「換気です」
彼はフロントガラスの向こうを指した。
「止まってますよね、さっきから。俺、確認しないで誘いました。この台数でエンジンをかけ続けたら、一酸化炭素がたまります。あれ、匂いで分からないんです」
「窓を閉めていれば」
「関係ないです」
短かった。
「エンジンを切ります」
「上に戻るんですか」
「俺は戻ります。アオさんは、車に残ってもらっても構いません。窓を閉めて、エンジンを止めていれば、しばらくは──」
「それ、燃料が切れる前に外へ出るやつですよね」
「……そうです」
私はこめかみを押さえた。
16階。下りるのは楽だった。
「戻ろう。……階段を使う日のことまで考えて借りなかったな、私」
*
エンジンを切って、二人とも車を降りた。
隣の車は窓が曇っている。後ろの席で、小さい女の子がこちらを見ていた。
私はガラスを指の背で叩いた。
「換気が止まっています。エンジンをかけたままだと危ないです」
母親らしい人が子供を抱き寄せて、唇だけ動かした。何を言ったのかは分からない。
伝えた。それ以上はできない。
階段を上りはじめて、3階で私はもう後悔していた。
5階の踊り場に、空のペットボトルが一本転がっている。
人はいなかった。
10階で、リュックを背負った小野さんとすれ違った。
「上に戻るんですか」
息が上がっている。
「戻ります。地下、換気が止まっています。エンジンをかけた車が増えてます」
彼が言うと、小野さんの顔から動きが消えた。
「……地下の換気ですね。管理室に伝えます。私も、近くの方には声をかけます」
それから小野さんは、私たちのあいだに一歩入って、声を落とした。
「管理側で測った外の気温は、56度です。日陰の温度計で、気象台の発表ではありません」
彼が聞き返す前に、小野さんは手すりを掴んで下りていった。
「ご自身で判断してください。私はまだ、上から順にまわります」
足音が2階ぶん落ちて、消える。
「56度」
私は、声に出して繰り返した。




