第二話 チェーン越しのアイス
月曜の朝、スマホの着信で起こされた。
「青ちゃん、今日出てこないの」
同僚の声が、やけに近い。
「休んでる。長いやつ」
「人事が、有給も代休も全部消えてるって言うから、何かあったのかと思って」
「暑いから休んだだけ。心配しないで」
「暑いから休むって、それ正気?」
「正気。41度だよ」
「……それで、通るんだ」
「通った」
「……いいなあ。うち、まだ現場の立ち会いが残ってるの。今朝、会社まで歩いた15分で手の甲が赤くなった」
「それ日焼けじゃなくて火傷だから」
「怖いこと言わないでよ。……青ちゃん、ほんとに何もないの? 家のこととか」
「何もない。冷凍庫が九分目なだけ」
「何それ、籠城?」
「籠城」
「いいなあ。うちも籠城したい」
「立ち会い、代わってもらえないの」
「代わる予定だった人が、先週熱中症で入院した」
「……代わってあげられなくてごめん」
「謝るなら休みを半分ちょうだい」
「半分あげたら、私が10日で出社することになる」
「それでいいよ」
電話を切って、時計を見る。
8時45分。この時間で、もう窓の外の空気が揺れている。
遮光カーテンを少しだけ開けて、すぐ閉めた。
*
ゴミ袋を持って玄関を開けると、廊下に管理会社の人が立っていた。
向かいのドアが開いている。
「ちょうどよかったです。お二人まとめて、お伝えしてもいいですか」
胸の名札に小野とある。小野さんは、よく玄関前の傘を直してくれている人だ。
私は頷いて、向かいのドアのほうを見た。
初めて見る顔だった。
髪が少し長くて、目の下が黒い。起きたばかりなのがはっきりわかる格好で、こちらに気づくと、短く会釈をした。
私も会釈を返す。
「このところの気温で、停電が起きる可能性があります。起きた場合、共用部の非常用電源に切り替わるまで10分ほどかかります」
「10分待てば戻るってことですか」
私が聞くと、小野さんは首を横に振った。
「共用部の話です。お部屋の電気が戻る時刻までは、お約束できません。それと、しばらくエアコンは26度でお願いしています」
「水は」
「お水は、出ているうちにためておいてください。給水がいつまで続くかは、まだ確認が取れていません」
「避難所、もう開いてるんですか」
「冷房の使える公共施設から順に、24時間で開けています。ただ、そこに書いてある開放状況は、昨日の時点のものです」
「行ってみたら閉まってる場合もある、と」
「そうならないようにしたいんですが、確認が取れていない施設もあります」
向かいの人がチラシを受け取って、頷いて、ドアを閉めた。
早い。
あまり話したくない人なんだろう。
小野さんは気にする様子もなく、私にもチラシを渡した。
冷房の使える公共施設の一覧が、裏面に小さく並んでいる。
「中で休んでいきますか。麦茶ならあります」
「いえ、上の階からまわらないといけないので。掲示は出してるんですが、見ない方が多くて」
「それは、まあ、見ないですね」
「ゴミ、お預かりします」
言うより先に、小野さんは私の手から袋を取っていた。
共益費が月に2万4000円かかる理由の三割くらいは、この人だと思う。
*
玄関のパネルにも、同じ内容が出ていた。
言われなければ、たぶん一度も触らずに1年が過ぎる場所だ。
私は浴槽の栓をして、蛇口を全開にした。
桶とバケツと、洗面器と、鍋も二つ。台所の給水ボトルにも入れておく。
満ちるまでのあいだに、崩れていた髪を一度ほどいて、結び直した。
浴槽が上まで来たのを確かめて、栓の上に指を置く。
これで200リットルくらいだろうか。飲む水は箱がある。
準備した気になっていた自分が、少し恥ずかしい。
*
それから数日、外の数字だけが上がっていった。
43度。46度。
救急車のサイレンが、朝と夕方に必ず通る。屋外の仕事はほとんど止まって、会社はオンラインに切り替わったと同僚が言っていた。
SNSで、短い動画が流れてきた。
帽子をかぶらずに屋外から中継していた人の頭から、細く煙が上がる。
まわりの人がペットボトルの水をかけて、それで終わる。
動画は17秒しかなくて、何が起きたのかは説明されていない。
笑っていいのかどうか、判断がつかなかった。
母からの電話は、2日に1度になった。
「青ちゃん、エアコンつけてるでしょうね」
「つけてる。26度だけど」
「電気代なら心配しなくていいから。……こっちもつけたよ」
「山で?」
「俺たちもエアコンをつけた」
受話器の向こうで父の声が割り込む。
「山でも、今日はつけないと無理だよ」
「鶏は」
「日陰に水をまいてる。夕方は俺が見てるから、そっちの心配をしろ」
「そっちは、今日は何度だったの」
「39度。去年までは、この時期でも33、4だった」
「こっちは46度」
母が何か言いかけて、やめる音がした。
「……青ちゃん、それ、外に出たら死ぬよ」
「出てない。20日ぶん、買ってある」
電話のあと、私は台所の棚を開けて写真を撮った。
缶詰が2列。米の袋が二つ。
これを見れば、母はまた1週間は黙る。
*
8日目の午後、テレビが消えた。
部屋の音が、まとめてなくなる。
スイッチを2度押してから、停電だと理解した。
10分。私は壁の時計を見ながら待った。
12分。15分。
エアコンが止まった部屋は、思っていたより早く重くなる。吸い込む息が、そのぶんだけ熱い。
冷凍庫からアイスを出して、床に座って食べた。
食べ終わっても、電気は来ない。
もう一本出した。
溶けるのが早い。
チャイムが鳴ったのは、2本目の棒を捨てたときだった。
ドアスコープを覗く。
向かいの人が、額に汗を貼りつけたまま立っている。
*
チェーンをかけて、ドアを指の幅だけ開けた。
「何か」
彼は手に持ったものを、少しだけ上げてみせた。
アイスだった。
「さっき管理会社に電話したら、あと30分はかかるそうです。暑いでしょう。うち、まだたくさんあるので」
思っていたより低い声だった。
「ありがとうございます。でも、けっこうです」
「……そうですか」
彼は玄関脇の棚にそれを置いて、背を向けた。
私は隙間から、彼が廊下を横切って、向かいのドアを開けるまでを見ていた。
ドアが閉まる。
廊下には、まだ誰もいない。
*
チェーンを外して、アイスを取り込んだ。
こういう時期に、これは貴重品だ。悪い人ではないのかもしれない。
袋を一枚かぶせて、少し考えて、もう一枚かぶせた。
冷凍ストッカーの端に押し込んで、ついでに自分のを一本出す。
これで最後にしよう。開けるたびに冷気が逃げる。
30分が過ぎた。40分も過ぎた。
スマホを起こす。
15時38分、更新。48度。
読み違えたと思って、画面を指で引き下ろした。
15時39分、更新。48度。
もう一度。48度。
3度目で、画面が白くなって、見つかりませんの表示に変わった。
戻る。天気が開かない。
電波のマークに赤い印がついている。
電源を切って、入れ直す。2枚とも圏外。
私は玄関へ行って、インターホンの管理室呼び出しを押した。
呼び出し音が鳴る。
10回鳴って、切れた。
受話器を戻さないまま、私はもう一度、同じボタンを押した。




