第一話 カート三台、休みは二十日
信号が赤になって、私はハンドルの上で指を組み替えた。
吹き出し口を顔のほうへ回す。ガラスの内側が、まだ外の熱を抱えている。
ダッシュボードに伏せていたスマホを起こした。
17時45分、38度。
夕方に出る数字ではない。
川沿いの道は、この時間ならいつも自転車と犬の散歩で詰まっている。今日は人がいない。
葦瀬川の護岸が、水の引いたぶんだけ2段、色を変えて残っていた。
信号の先で、軽トラックの運転手が窓を全開にして、腕を外へ垂らしている。あの腕、焼けないんだろうか。
青に変わる。
まっすぐ行けば家。左へ折れれば、葦瀬市でいちばん大きいスーパー。
私はウインカーを左に出した。
金曜日だ。半年かかった案件は、先週やっと先方の判をもらって終わっている。
この暑さが来週も続くなら、有給と代休をまとめて申請する。38度の道を歩いて出社する理由が、私には一つも思いつかない。
*
生鮮売り場で、鶏もも肉の棚を3段ぶん空にした。
冷凍の通路へ回って、牛肉と魚とエビを放り込む。日用品の棚でナプキンとタンポンが特売になっていたので、大きい袋を二つ積んだ。
そこでカートが満杯になる。
「お持ちしましょうか」
若い店員さんが、横から手を添えてカートを受け取ってくれた。
私はもう一台引いてきて、缶詰の棚へ向かう。
鯖、焼き鳥、コーン、ミックスビーンズ。種類ごとに二つずつ。
ナッツの袋とポテトチップスを、腕で薙ぐように入れていく。
「飲み物はいかがですか。炭酸のまとめ売り、今日は安くなってます」
「……じゃあ、それ」
言われてみればそうだった。ポテトチップスだけあって飲むものがない家は、わりと悲しい。
「お水もどうぞ。箱のほう、今日は積んでありますので」
「……じゃあ2箱。車まで運んでもらっていいですか」
「はい。冷凍のぶん、保冷剤をお付けしますね」
「お願いします。30分は走るので」
1.5リットルを10本と、ミネラルウォーターを2箱。2台目が沈んだ。
最後に、米の棚の前で足が止まる。
家の米びつは、たしか底が見えていた。5キロを2袋、店員さんに担いでもらって、私は袋麺を5つ、空いた隙間に押し込む。
カート3台。
レジの数字は3万4680円になった。
「お届けもできますが」
「いえ、車まででいいです」
「けっこう重いですよ」
「平気です。こういうの、運ぶのだけは得意なので」
「お仕事、お引越しとかですか」
「営業です。荷物は書類とサンプルですけど」
「じゃあ、慣れてらっしゃる」
「今日のは、たぶん人生でいちばん重いです」
店員さんは荷物を全部、後ろのトランクへ積んでくれた。
最後の箱を押し込んでハッチを閉めたとき、後ろで短い息が漏れた。
振り返ると、もう空のカートを押して戻っていくところだ。
*
駐車場から玄関まで、三往復かかった。
エレベーターホールに荷物を積み上げて、16階の廊下を、台車代わりの両腕で運ぶ。向かいの部屋の前には、今日も見たことのない傘が一本、立てかけてある。
このフロアは2戸しかない。5年住んでいて、向かいの人に会ったことは一度もなかった。
靴を脱ぐより先に、冷凍ストッカーの蓋を開ける。
550リットル。あの感染症の頃、買い物に行けない日が続いて、勢いで買ったものだ。
中は八分目まで埋まっている。三分の一はアイス、残りは実家から届いた丸鶏と丸鴨、それに小分けの豚肉。
両親は遠浦県の山の麓で鶏と鴨を飼っていて、処理場を通した肉を、季節ごとに段ボールで送ってくる。断っても送ってくる。
今日の牛肉と魚とエビを押し込んで、九分目。
蓋が一度では閉まらなくて、手のひらで押した。
これだけあれば、2か月は肉に困らない。
缶詰と米は台所の棚へ。飲料は冷蔵庫と、床に積んだ箱のまま。
書斎の収納棚に日用品の袋を置きに行って、上の段の箱に肘が当たった。
折りたたみのソーラーパネル。その下の段に、もっと重い箱。
1年半前、車中泊で旅行するつもりで揃えて、停める場所の当てがなくてやめた一式だ。
開けていない。届いた日のテープがそのままだった。
袋を押し込んで、私は扉を閉めた。
*
シャワーを浴びて出てくると、申請は通っていた。
週末を挟んで、有給と代休で20日。上司の承認は5分。
半年ぶんの無理を横で見ていた人なので、文句は来ないと思う。
不在着信が2件。母だ。
かけ直すと、1度目の呼び出しで出た。
「やっと出た。そっち、すごい気温じゃないの」
「今日38度だった。もう外に出ない」
「出ないでよ。倒れても誰も気がつかないんだから」
母の声の後ろで、換気扇が回っている。
「そっちは」
「こっちは35度だったよ。お父さん、夜は布団をかけて寝てる」
「山はずるい」
「ずるくないよ。鶏が参ってるの。水を替えても、夕方まで卵を産まない子がいる」
「お父さんは」
「畑。日が落ちてから出ていくの。止めても行くんだから」
「無理しないでって言っておいて」
「言ってるよ、毎日。……そうだ、豚がまだあるから、来週送ろうか」
「お母さん、鶏はまだある。私も買い足しちゃったから、次の箱は待って」
「ちゃんと食べてる? しまってあるだけじゃ減らないんだからね」
「食べてる。今日も3台ぶん買ってきた」
「3台って何が3台なの」
「カート」
「3台も何を買ったの」
「肉と、水と、お米」
「お米は送るって言ったでしょう」
「重いから、いつも頼んでるの」
「あんた、向こうで一人でしょう。何かあったら誰が気づくの」
「管理会社の人が毎日まわってる」
「ゴミは持っていってくれても、倒れてるのは見つけてくれないよ」
それから10分ほど、私の食生活について一方的な話し合いが行われた。
適当なところで相槌を切って、電話を置く。
冷凍庫の写真を撮って、母へ送る。九分目の画面を見れば、しばらくは黙るはずだ。
アイスを一本出して、ソファに座った。
テレビをつけると、どこかの国の街路樹が燃えている。地名は聞き取れなかった。
画面の下に、その国の最高気温が並んでいる。
エアコンのきいた部屋で冷たいものを食べながら見ている自分が、少しうしろめたい。
*
ピン、と音が鳴った。
スマホの通知。市の高温注意情報。
41度。
【明日の最高気温は41度以上の見込みです。午前10時から午後6時までの外出は控えてください。ご高齢の方、小さなお子さまの……】
アイスの棒を口から抜いて、私はもう一度、その数字を読んだ。




