第十話 十八階の窓
ぶつかる音が、下から来た。
トラックとトラックが正面から当たったような音で、建物そのものが横に押された。
残っていた窓ガラスが、まとめて飛んだ。
天井のガラスの灯りが落ちてきて、布団の上で砕けた。
衣装棚と壁のつなぎ目が、金属の悲鳴を上げる。
ベッドが跳ね上がって、私の体が浮いた。何かに背中を打って、そこから引き戻される。
真樹の手だった。
私はその手を掴み返して、自分の体を彼のほうへ投げる。
二人で抱き合ったまま、転がって、落ちた。
*
目を開けたとき、床はまだ細かく震えていた。
建物は立っている。
寝室の外壁が、途中から無かった。
雨が斜めに入ってきて、床に直接落ちている。天井の照明の跡から配線が垂れ下がって、風で揺れていた。
書斎の扉が枠から外れて、廊下に倒れていた。
台所の棚は全部開いていて、缶詰が床の水の上を、ゆっくり回りながら漂っている。
23日ぶんかけて並べ直したものが、全部、順番を失っていた。
布団が二人を包んでいて、私の両手は体の下敷きになっている。
倒れた冷凍庫が、私たちの上に斜めに乗っていた。腰から胸のあたりを押さえて、動くと角がどこかに当たる。
「……青葉」
「いる」
「息、できる?」
「できる。そっちは」
「胸が重い。……冷凍庫、そっちに寄ってますね」
「寄せたのは私だよ」
「文句じゃないです」
真樹の腕が、私の背中に回ったままだった。もう片方は、布団の下で変な角度に曲がっている。
「下には、行けない」
彼の声が掠れている。
「上だ。上のほうが、見つけてもらいやすい」
太腿が冷たかった。水だと思う。
下を向こうとしたら、顎を掴まれて、口を塞がれた。
「生きろ、青葉」
離れてから、彼がもう一度言った。
「婚姻届。役所。俺が取ってくる」
「短くていいよ、そういうの」
「短くしました」
「もっと短い」
「……童貞のまま死ぬの、嫌だな」
「今それどころ?」
彼の胸が震えた。笑ったらしい。
*
隙間はあった。
冷凍庫は斜めに引っかかっていて、床とのあいだに三角の空きがある。ベッドの枠が、そのぶんを支えていた。
力任せに持ち上げられる重さではない。持ち上げる必要もない。
通れる形になるまで、体のほうを削ればいい。
私は右手を、体の下から少しずつ引き抜いた。
腕が何かの縁で擦れて、皮が持っていかれる感覚があった。痛いというより、熱い。
右手が出ると、押されていた胸が楽になった。
3度、途中で止まる。
そのたびに息を全部吐いて、肋骨のぶんだけ体を薄くした。営業の車で、隙間のない駐車場に頭から入れるのと、やることは同じだ。
左手も抜く。両手を床について、体を斜めにずらして、頭から先に三角の外へ出た。
「抜けた!」
「そっち、行ける?」
真樹が動けるほうの肩で、冷凍庫を少し押し上げた。私が下から布団を引く。
どん、と重い音がして、彼が水の上に転がり出た。
床の水が、赤かった。
*
私の右の太腿の後ろが、横に裂けていた。
見ると膝が笑うので、私は見るのをやめる。
真樹の右の前腕は、肘と手首のあいだで方向が変わっていた。左の足首の外側に、ガラスの破片が刺さっている。
「抜かないで」
「抜きません。抜いたら血が出ます」
「知ってるんだ」
「配信で、救急のやつを流したことがあるので」
「布、当てます。服をめくるけど、止血のためです」
先に言ってから、彼は私のシャツの裾に触れた。
それでも私の腹は縮んだ。縮んだことを、彼は見なかったことにしてくれた。
シャツを脱いで裂いた。厚く畳んで、太腿の傷に当てて押さえる。
片手では固定できない。
足元に転がっていたスニーカーから靴ひもを引き抜いて、布の上から2周させて結んだ。
「締め上げないんですか、それ」
「紐で脚を縛るのは違うって、どこかで読んだ」
「合ってると思います」
「自信はない」
細い紐で脚を締めるのではなくて、布がずれないようにするだけだ。それ以上のことは、いまの私にはできない。
「青葉、そっちのスマホ」
床に落ちていた私の電話を拾って、彼が画面を見た。
圏外のまま、天気のページが残っている。最高62度。
時刻の表示は、昨日の朝だった。
彼はそれを水の中に落とした。
昨日の朝の数字は、もう何も教えてくれない。いま外は雨で、私は寒くて、指先が白くなりかけている。
血が減ると寒くなるというのを、体で知ったのは初めてだった。
*
玄関の壁は、内側へ倒れていた。
そこをまたいで、共用廊下に出る。廊下の床に水は来ていない。
来ているのは、窓から入った雨だけだ。
階段室のドアを開けて、下を覗いた。
3階ぶん下から、水の面が見えた。動いている。
木や板が回りながら、壁にぶつかる音がしている。
下りるという選択は、そこで消えた。
上を見た。
天井の一部が落ちて、段の上に塊がいくつか転がっている。鉄筋が露出した段差が二つ。
それでも、踏める。
「上」
「上」
一段が、遠い。
真樹は左足を引きずり、右腕を腹の前に抱えている。私は右脚をまっすぐ伸ばしたまま、手すりに全体重を預けた。
二人とも、片側だけが使えない。使える側を突き合わせて、互いに寄りかかった。
17階。
廊下に人の姿はなかった。ドアが二つ開いたままで、中は暗い。
声をかけようかと思って、やめた。返事があったときに、私たちにできることが何もない。
踊り場で2度、座り込んだ。
座るたびに、立ち上がるのに前より時間がかかる。3度目に座ったら終わりだと思って、私は3度目を我慢した。
18階。
そこで、私の脚が止まった。
*
廊下の窓は、枠ごとなくなっていた。
四角い穴から、風が吹き込んでくる。雨が冷たい。
23日ぶりの冷たさが、いまは体温を持っていく。
私は壁に背中を預けて座った。押さえていた布が、もう重い。
雨の匂いがする。焦げた匂いも、泥の匂いも混じっている。
23日、この街には匂いというものがほとんどなかった。熱は匂いを飛ばしてしまう。
戻ってきた匂いは、どれも、あまりいいものではなかった。
「真樹」
「うん」
「そこから落としてよ。そのほうが早い」
「だめだ」
即答だった。
「俺が先に死なないと、外聞が悪い」
「何それ」
「順番の話です」
彼は膝で這って窓のそばまで行き、穴の縁に腕をかけて、外を見た。
背中が動かなくなった。
「何か見える?」
返事がない。
「真樹」
「……待って」
それから、肩が震えはじめた。
「泣いてる?」
「泣いてない」
「泣いてる」
「青葉」
彼が振り返った。顔が濡れているのは、雨のせいかもしれない。
「神様、見に来て」
「無神論者なんだけど」
「いいから」
「立てない」
「肩、貸します。折れてないほう」
私は彼の左肩に腕を回して、片脚で立ち上がった。目の前が白くなって、また戻ってくる。
窓の縁までは、体を預けても落ちない距離があった。彼が腕で前を塞いでいる。
外を見た。
*
灰色の空の下に、茶色い面が広がっていた。
街の低いところは全部その下で、屋根だけが島になっている。
その屋根と屋根のあいだを、小さい船が2艘、進んでいた。
ゴムのボートだった。人が3人ずつ乗っている。
オレンジ色。
救命胴衣の、あの色だった。距離があっても、あの色だけははっきり分かる。
腕に白い布を巻いている人が、屋根の上にいる誰かに手を伸ばしていた。
もっと遠く、街の向こう側に、本流の水面が見えた。
そこに、灰色の艦影が一つ、止まっている。艦橋のかたちが、街の建物とは違う角度で立っていた。
低い音が、雨の音の下から届いてくる。回転翼の音だ。
どこにいるのかは見えない。
「……見えてる。私にも見えてる」
頬を落ちていくものが、窓から吹き込む雨より温かい。
「きれいでしょう」
「うん」
「手」
真樹が言った。
「振れます?」
私は残っているほうの腕を上げた。
彼も、折れていないほうの腕を上げた。
先に震えたのは、私の手のほうだ。
2艘のうち、後ろの一艘の舳先で、光が動く。
2度、こちらを照らして、消える。
彼の折れていないほうの肩に、私の頭が落ちる。
それから、白い舟首がゆっくりと向きを変えて、この建物のほうを向いた。




