↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
猛暑の終末、向かいの部屋の彼とこもって生き延びる  作者: 空の異変


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/11

終話 彼の視点

第一印象は3秒で決まる、と誰かが言っていた。


俺の3秒は、鶏の巣みたいな寝癖と、目の下の隈で使い切っている。


管理会社の小野さんがチャイムを鳴らしたとき、俺は5時間前まで動画を書き出していて、起きて10分だった。


向かいのドアが開いて、人が出てくる。


背はあまり高くなくて、髪を上でまとめていて、目がきれいな人だった。


俺は2秒だけ見て、会釈して、通知を聞いて、チラシを受け取って、ドアを閉めた。


閉めてから、その場で頭を抱える。


早い。閉めるのが早すぎる。


愛想が悪いにも程がある。


調子に乗るな俺、ですらない。今のは乗る以前の問題だ。


その日、俺がパソコンでやったことは、「隣人 自然に 話しかける」で検索したことだけだった。


    *


停電して、部屋が暑くなって、冷凍庫を開けた。


アイスが一本あった。


一本しか、ない。


これは天が俺にくれたチャンスだと思った。30歳が近い男の思考として、どうかとは思う。


チャイムを押すまでに、廊下を二往復した。


ドアはチェーンの幅だけ開いた。


「うち、まだたくさんあるので」


言った直後に、頭の中で自分を殴った。


たくさんない。ゼロになった。


もし「じゃあもう一本」と言われていたら、俺は自分の部屋に戻って、存在しない2本目を探して、そのまま戻ってこなかったと思う。


断られて、ほっとして、それから落ち込んだ。


棚に置いて帰って、ドアスコープに貼りついた。


見えるのは共用廊下だけだ。それでも、細い腕が出てきてあれを取っていったとき、俺は声を出さずに拳を握った。


いま思い出しても、あまり褒められた話ではない。


避難の通知が入ったときも、荷物をまとめて、靴を履いて、ドアスコープの前で待っていた。


向かいのドアが動く音がしてから、たまたま同じ時に開けたような顔で、外に出た。


偶然ではない。


「ついてきてください。俺の車、ガソリンが満タンです」


人生でいちばんかっこよく言えたと思った。


彼女は半歩下がった。


調子に乗るな俺。


    *


水の話をしておく。


俺の部屋には、水の箱が18個あった。


理由は単純で、水道水が飲めない。カルキの匂いがすると、その日は口の中がずっとそれになる。


毎日買いに行くのも無理だった。配信の時間が不規則で、店が開いているうちに外へ出るのが、そもそも難しい。


だから半年に一度、まとめて頼む。積む。


減る。また頼む。


出不精と偏食でできた18箱が、たまたま二人ぶんの命を3週間引き延ばした。


これを「準備していた」と言い張るのは、さすがに図々しい。


青葉がいなかったら、俺は18箱の水と一緒に茹だっていた。これは言い張っていい。


    *


名前の話もしておく。


真木真樹。まき・まき。


母の旧姓が瀬川で、車の中で咄嗟にそっちを名乗った。


アオ、という呼び名を車の中で聞いたとき、俺はその二文字を一晩繰り返した。


小学校で3年間「まきまき」と呼ばれ、中学で「巻き巻き」に進化する。高校では諦めた。


大人になってからは、名乗るたびに相手が0.5秒だけ考える。あの0.5秒が、ずっと嫌でしかたない。


青葉は笑った。笑って、「かわいい」と言った。


それで28年ぶんが消えるわけではない。ただ、軽くはなった。


    *


助かった日のことは、正直あまり覚えていない。


ボートに乗せられて、名前を聞かれて、腕に何か巻かれて、気がついたら病院だった。


4週間たった。


通信は区域ごとに戻ってきている。俺の実家は、もう避難所を出ている。


青葉の両親も生きていた。


電話がつながった日、青葉は「もしもし」の二文字で声が出なくなって、俺が代わりに名乗った。名乗る前に、少しだけ練習している。


「あの子、倒れても誰も気がつかないって、私ずっと言ってたの。……あなたが気がついてくれたんだね」


俺は電話を耳に当てたまま、横を向いた。


青葉が、俺の折れていないほうの肩に顔を埋めてくる。


電話を、青葉の耳のほうへ寄せる。


「青葉、道が通れるまでは来なくていいよ。脚はどう? 無理して歩いてない?」


山の麓の平らなところと、作業場を、市の一時的な避難先に使ってもらうことになったらしい。


「使えるのは、下の平らなところだ。斜面のほうは、確認してもらってからにしてくれ」


電話の向こうのお父さんは、そういう言い方をする人だった。


青葉の両親の山が、いま何百人かを受け入れている。


道は、まだ通っていない。


それから、小野さんのこと。


あの人がどうなったのか、俺たちは知らない。管理会社の連絡先は止まったままで、こちらで見られる名簿にも、いまのところ名前がない。


分からない、というのが現在の答えだ。


俺はそれを、分からないままにしておく。


    *


俺は右腕と左の足首がまだで、家で座っている時間が長い。


青葉のほうが治りが早くて、もう出かけている。近くの集会所で、どこに何がいくつ足りないかを数えて、電話でまとめる仕事をしているらしい。


「数えるのは得意だから」


そう言って出ていく。


「知ってる。23日、横で見てた」


閉まりかけのドアに、俺は毎回そう返す。


帰ってくると、髪を一度ほどいて、結び直す。


今日の天気は31度だった。


31度を涼しいと感じる体になったのが、俺たちの後遺症のひとつだ。


もうひとつの後遺症は、青葉の側にある。


俺が後ろから近づくと、まだ跳ねる。


跳ねたあとに謝るのは彼女ではなく俺の役目だと、俺が勝手に決めた。声をかけてから触る。


触る前に言う。手順が一つ増えるだけの話だ。


治ると思っていない。治らなくても困らないやり方なら、いくらでもある。


「真樹」


台所から声がした。


「婚姻届、2枚もらってきた」


「2枚」


「一枚は書き損じるでしょ」


「俺のことをよく分かってる」


「あと、友達に連絡がついた」


「全員?」


「3人中、二人。残りの一人はまだ」


「じゃあ、3人揃ってから会う」


「待つんですか」


「待つよ。揃ってからのほうが、あなたが嬉しいでしょ」


中学から俺を一生独身だと言い続けた3人には、届を出した日に写真を送る。文面は決めてある。『誰が一生独身だって?』


台所で水を出す音がした。蛇口から水が出る音を、俺はまだ、毎回ちょっと見にいってしまう。


道が通ったら、山へ行く。


証人の欄を誰に頼むかで、俺たちはたぶん一回もめる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。