終話 彼の視点
第一印象は3秒で決まる、と誰かが言っていた。
俺の3秒は、鶏の巣みたいな寝癖と、目の下の隈で使い切っている。
管理会社の小野さんがチャイムを鳴らしたとき、俺は5時間前まで動画を書き出していて、起きて10分だった。
向かいのドアが開いて、人が出てくる。
背はあまり高くなくて、髪を上でまとめていて、目がきれいな人だった。
俺は2秒だけ見て、会釈して、通知を聞いて、チラシを受け取って、ドアを閉めた。
閉めてから、その場で頭を抱える。
早い。閉めるのが早すぎる。
愛想が悪いにも程がある。
調子に乗るな俺、ですらない。今のは乗る以前の問題だ。
その日、俺がパソコンでやったことは、「隣人 自然に 話しかける」で検索したことだけだった。
*
停電して、部屋が暑くなって、冷凍庫を開けた。
アイスが一本あった。
一本しか、ない。
これは天が俺にくれたチャンスだと思った。30歳が近い男の思考として、どうかとは思う。
チャイムを押すまでに、廊下を二往復した。
ドアはチェーンの幅だけ開いた。
「うち、まだたくさんあるので」
言った直後に、頭の中で自分を殴った。
たくさんない。ゼロになった。
もし「じゃあもう一本」と言われていたら、俺は自分の部屋に戻って、存在しない2本目を探して、そのまま戻ってこなかったと思う。
断られて、ほっとして、それから落ち込んだ。
棚に置いて帰って、ドアスコープに貼りついた。
見えるのは共用廊下だけだ。それでも、細い腕が出てきてあれを取っていったとき、俺は声を出さずに拳を握った。
いま思い出しても、あまり褒められた話ではない。
避難の通知が入ったときも、荷物をまとめて、靴を履いて、ドアスコープの前で待っていた。
向かいのドアが動く音がしてから、たまたま同じ時に開けたような顔で、外に出た。
偶然ではない。
「ついてきてください。俺の車、ガソリンが満タンです」
人生でいちばんかっこよく言えたと思った。
彼女は半歩下がった。
調子に乗るな俺。
*
水の話をしておく。
俺の部屋には、水の箱が18個あった。
理由は単純で、水道水が飲めない。カルキの匂いがすると、その日は口の中がずっとそれになる。
毎日買いに行くのも無理だった。配信の時間が不規則で、店が開いているうちに外へ出るのが、そもそも難しい。
だから半年に一度、まとめて頼む。積む。
減る。また頼む。
出不精と偏食でできた18箱が、たまたま二人ぶんの命を3週間引き延ばした。
これを「準備していた」と言い張るのは、さすがに図々しい。
青葉がいなかったら、俺は18箱の水と一緒に茹だっていた。これは言い張っていい。
*
名前の話もしておく。
真木真樹。まき・まき。
母の旧姓が瀬川で、車の中で咄嗟にそっちを名乗った。
アオ、という呼び名を車の中で聞いたとき、俺はその二文字を一晩繰り返した。
小学校で3年間「まきまき」と呼ばれ、中学で「巻き巻き」に進化する。高校では諦めた。
大人になってからは、名乗るたびに相手が0.5秒だけ考える。あの0.5秒が、ずっと嫌でしかたない。
青葉は笑った。笑って、「かわいい」と言った。
それで28年ぶんが消えるわけではない。ただ、軽くはなった。
*
助かった日のことは、正直あまり覚えていない。
ボートに乗せられて、名前を聞かれて、腕に何か巻かれて、気がついたら病院だった。
4週間たった。
通信は区域ごとに戻ってきている。俺の実家は、もう避難所を出ている。
青葉の両親も生きていた。
電話がつながった日、青葉は「もしもし」の二文字で声が出なくなって、俺が代わりに名乗った。名乗る前に、少しだけ練習している。
「あの子、倒れても誰も気がつかないって、私ずっと言ってたの。……あなたが気がついてくれたんだね」
俺は電話を耳に当てたまま、横を向いた。
青葉が、俺の折れていないほうの肩に顔を埋めてくる。
電話を、青葉の耳のほうへ寄せる。
「青葉、道が通れるまでは来なくていいよ。脚はどう? 無理して歩いてない?」
山の麓の平らなところと、作業場を、市の一時的な避難先に使ってもらうことになったらしい。
「使えるのは、下の平らなところだ。斜面のほうは、確認してもらってからにしてくれ」
電話の向こうのお父さんは、そういう言い方をする人だった。
青葉の両親の山が、いま何百人かを受け入れている。
道は、まだ通っていない。
それから、小野さんのこと。
あの人がどうなったのか、俺たちは知らない。管理会社の連絡先は止まったままで、こちらで見られる名簿にも、いまのところ名前がない。
分からない、というのが現在の答えだ。
俺はそれを、分からないままにしておく。
*
俺は右腕と左の足首がまだで、家で座っている時間が長い。
青葉のほうが治りが早くて、もう出かけている。近くの集会所で、どこに何がいくつ足りないかを数えて、電話でまとめる仕事をしているらしい。
「数えるのは得意だから」
そう言って出ていく。
「知ってる。23日、横で見てた」
閉まりかけのドアに、俺は毎回そう返す。
帰ってくると、髪を一度ほどいて、結び直す。
今日の天気は31度だった。
31度を涼しいと感じる体になったのが、俺たちの後遺症のひとつだ。
もうひとつの後遺症は、青葉の側にある。
俺が後ろから近づくと、まだ跳ねる。
跳ねたあとに謝るのは彼女ではなく俺の役目だと、俺が勝手に決めた。声をかけてから触る。
触る前に言う。手順が一つ増えるだけの話だ。
治ると思っていない。治らなくても困らないやり方なら、いくらでもある。
「真樹」
台所から声がした。
「婚姻届、2枚もらってきた」
「2枚」
「一枚は書き損じるでしょ」
「俺のことをよく分かってる」
「あと、友達に連絡がついた」
「全員?」
「3人中、二人。残りの一人はまだ」
「じゃあ、3人揃ってから会う」
「待つんですか」
「待つよ。揃ってからのほうが、あなたが嬉しいでしょ」
中学から俺を一生独身だと言い続けた3人には、届を出した日に写真を送る。文面は決めてある。『誰が一生独身だって?』
台所で水を出す音がした。蛇口から水が出る音を、俺はまだ、毎回ちょっと見にいってしまう。
道が通ったら、山へ行く。
証人の欄を誰に頼むかで、俺たちはたぶん一回もめる。




