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第17話 理解を求める側の義務

第17話 理解を求める側の義務


治癒制度改革法案の採決を一週間後に控え、王都には再び雪が降った。辺境伯家の王都屋敷では、暖炉の前に濡れた外套が三枚干され、玄関には靴から落ちた泥が点々と残っている。エレノアは葡萄色の毛織りのドレスを着て、食堂の大きな卓いっぱいに帳簿を広げていた。料理人が用意した鶏肉のパイは半分ほど冷め、切り口から白い脂が固まり始めている。


「また食事を止めているな。パイは帳簿を読んでくれないぞ。冷めきる前に一口だけでも食べてくれ」


「あと三件で計算が終わります。レナードが地方視察へ出るたび、私が騎士団の給与明細を作っていた分です。移動日を含めれば、七十二日分になります」


「私が計算する。君はパイを食べろ。それとも、計算を続ける代わりに私が口へ運ぶか」


「自分で食べます。あなたは七と九をよく間違えるので、計算には触らないでください」


アルベルトは反論しかけたが、自分の書いた数字を確認して口を閉じた。彼の帳面には七と九の両方に長い飾り線があり、確かに見分けにくい。エレノアは鶏肉のパイを一口食べ、冷めた紅茶へ蜂蜜を足した。窓辺には白いクリスマスローズが飾られ、暖炉の熱で花びらの先が少し乾いていた。


翌朝、王国治療院の元会計官が屋敷を訪れた。彼は古い革鞄から、エレノアが王都で働いていた頃の診療記録を取り出した。記録には一日に治療した人数だけでなく、使った薬草、魔石、包帯の数まで残されている。会計官は眼鏡を何度も拭きながら、診療一件ごとの正規料金を計算した。


「重傷者への高位治癒が三百八十七件、通常治癒が二千百六十件です。夜間と休日の割増を加えると、金貨六千四百八十二枚になります。ただし、これは診療だけの金額です」


「騎士団の書類作成、公爵家の会計、外国語の手紙の翻訳も加えてください。それから、セリアが使った治療費も分けて計算できますか」


「記録はあります。擦り傷、軽い捻挫、食べ過ぎによる腹痛まで、すべて特別診療として聖女様が呼び出されています。深夜の診療も十一回ありました」


エレノアはセリアが菓子を食べ過ぎて腹痛を起こした夜を思い出した。自分は三日続けて夜間診療を担当し、ようやく寝台へ入ったところだった。それでもレナードは寝室の扉を叩き、セリアは繊細なのだから理解してやってくれと言った。治療を終えて戻ると朝になっており、用意されていたスープには薄い膜が張っていた。


三日間の計算を終えると、卓上には項目別の請求書が積み上がった。治癒費、夜間手当、休日手当、騎士団の会計業務、報告書の代筆、公爵家の外交文書の翻訳、宴会の準備、セリアの世話まで含まれている。正規の相場で換算した総額は、金貨一万八千七百六十四枚だった。前年の公爵家の収入は金貨一万六千九百枚であり、エレノアが無償で行った仕事のほうが多かった。


「計算を間違えていませんか。私は、それほどの仕事をしていたのでしょうか」


「むしろ低く見積もっています。緊急の呼び出しによって中断した食事や睡眠には、値段をつけていません。婚約者として出席した行事も除外しました」


「これを金額にしなければ、誰にも見えなかったのですね。私自身も、頼まれるたびに一つ増えただけだと思っていました」


会計官は書類を束ね、赤い紐で結んだ。紐の端が余ったため、何度も蝶結びを作り直す。エレノアは残った帳簿を閉じ、卓上へ落ちたパンくずを指で集めた。小さな山になったくずを、窓辺へ来る雀のために皿へ移した。


採決前日、改革法案に反対する貴族たちは議会の控室へ集まった。彼らは治癒師へ給与と休暇を保障すれば、年間予算が金貨二万枚以上増えると主張した。地方の治療院へ助手を置く費用も惜しみ、貴族家からの寄付で運営すればよいと言う。寄付をした者が優先的に治療を受けられる条項まで、修正案へ加えようとしていた。


エレノアは資料を届けるため控室へ入った。今日は黒に近い緑色のドレスを着て、髪を銀の留め具でまとめている。室内には強い葉巻の煙と珈琲の匂いがこもり、窓は寒さを理由に閉め切られていた。卓上には食べかけの砂糖菓子が並び、貴族たちは昼食後の葡萄酒を飲みながら話していた。


「辺境伯夫人、ちょうどよいところへ来た。あなたからも若い治癒師を説得していただきたい。金銭ばかり求めるようでは、聖なる職務への信頼が失われる」


「治癒師は、金銭ばかり求めているのではありません。働いた分の給与と、倒れないための休息を求めています」


「我々、貴族も国のために無償で働くことがある。高貴な立場には、それにふさわしい献身の精神が必要なのだ」


エレノアは彼らの卓上へ視線を向けた。一本金貨三枚の外国産葡萄酒が二本空き、銀皿には珍しい冬苺が残されている。暖炉の前に脱ぎ捨てられた毛皮の外套だけで、地方治療院の助手一人を半年雇えた。彼女は窓を開け、煙のこもった空気を入れ替えた。


「皆様が無償で働いた日は、何日ありますか。昼食を取れなかった回数と、夜中に呼び出された回数も記録していらっしゃいますか」


「そのような細かな話をしているのではない。国を支える心構えの問題だ。治癒師には、自分より患者を優先する覚悟が必要だと言っている」


「では、その覚悟を求めた皆様も、冬苺と葡萄酒を諦めてはいかがですか。治癒師だけに生活を差し出させながら、ご自分は何も失わない献身を語るのですか」


控室の空気が止まり、外から入った冷たい風が書類をめくった。貴族の一人が窓を閉めろと使用人へ命じる。しかし使用人が動く前に、アルベルトが窓辺へ立った。彼は開いた窓を半分だけ閉め、葉巻の煙が出ていく隙間を残した。


採決当日、傍聴席は現役の治癒師と元治癒師で埋まった。魔力を失ったクララも、仕立屋の弟子に付き添われて出席している。彼女は自分で縫った灰色の上着を着て、膝の上には布で包んだ湯たんぽを置いていた。隣の席ではナディアが、昼食用の林檎と固いチーズを籠に入れている。


議会が始まると、財務大臣は改革に必要な予算を読み上げた。治癒師の増員、助手の配置、危険手当、休養中の給与を合わせると、国庫の負担は大きいという。反対派の議員たちは次々に立ち上がり、増税につながる法案は国民の理解を得られないと主張した。さらに、治癒師の待遇を改善すれば使命感が薄れると訴える者もいた。


「治癒師は神から特別な力を授けられています。民のために使うのは当然ではありませんか。金銭を条件にする者に、患者の命を預けられるでしょうか」


「騎士は剣の才能があっても給与を受け取ります。教師も知識があっても住居と食事を必要とします。治癒師だけが、力を持っているという理由で無償になるのはなぜですか」


「あなたは辺境伯夫人として裕福に暮らしているから、そのような理想を語れるのだ。多くの国民は、治療費を払えないのですよ」


「だから国が制度を作るのです。患者に払わせられない費用を、治癒師一人に負担させることを制度とは呼びません」


エレノアは書記官へ合図し、赤い紐で結んだ資料を議員全員へ配った。表紙には、エレノアが無償で行った業務の対価と書かれている。最初は鼻で笑っていた議員たちも、最後の合計額を見ると声を失った。公爵家の年間収入を上回る数字が、黒い文字で記されていた。


「これは誇張ではないのか。婚約者として手伝ったことまで、仕事として計算しているのでしょう」


「夜間の治療、騎士団の給与計算、公爵家の外交文書作成を、婚約者の愛情と呼ぶのですか。ならば、なぜレナードは一度も同じ量の仕事を私の実家へ提供しなかったのでしょう」


「それは、公爵家へ嫁ぐ者として必要な準備だったのではないか。将来の家族のためなら、多少の負担を理解するものです」


「その将来はなくなりました。それでも、公爵家は私の働きによって得た利益を返していません。理解という言葉だけで金貨一万八千枚分の仕事を受け取ったのです」


議場にざわめきが広がった。傍聴席では、治癒師たちが配られた資料を隣同士で見せ合っている。クララは震える指で合計額をなぞり、自分が百十三日間に行った治療にも値段があったのだと呟いた。ナディアは籠の中の林檎を握ったまま、前方を見ていた。


厚生大臣が立ち上がり、エレノアへ理解を求めた。制度を一度に変えれば混乱が起きるため、まずは危険手当を見送り、休暇の日数も減らしたいという。財政が整うまで五年ほど待ってほしいと話した。待っている間も、治癒師が今までどおり働くことには触れなかった。


「辺境伯夫人なら、国の事情もお分かりになるでしょう。今は互いに譲り合うときです。どうか理解ある決断をしていただきたい」


エレノアは机の上へ両手を置いた。指先の近くには、過労で亡くなった四人の名前が記された資料がある。その隣には、昼休憩が取れず、空欄のまま提出された勤務表が積まれていた。彼女は厚生大臣から傍聴席へ視線を移した。


「理解を求めるなら、まず事情を説明し、対価を払い、断る権利を認めてください。それができないお願いは、命令か搾取です。五年待てと頼むなら、その五年間に誰が何時間働き、倒れたときに誰が責任を取るのか、先に示してください」


厚生大臣は答えられなかった。代わりに若い議員が立ち上がり、王宮の宴会費を減らして初年度の予算へ回す修正案を提出した。別の議員は、高位貴族が治療を受ける際の料金を二倍にし、その差額を生活困窮者の治療費へ充てる案を出した。反対派から怒鳴り声が上がったが、議長は木槌を三度叩いて採決を命じた。


賛成票と反対票が一枚ずつ読み上げられた。途中まで同数が続き、最後の十票になっても差は開かなかった。エレノアは膝の上で手を組み、爪が掌へ当たらないよう指を緩めた。傍聴席のクララは、湯たんぽを抱えたまま口を固く結んでいる。


最後の一票が開かれた。賛成百二、反対百一。改革法案は、一票差で可決された。


しばらく誰も声を出さなかった。やがて傍聴席の後方から拍手が起こり、前方へ広がっていく。クララは拍手をしようとしたが、右手がうまく動かなかった。隣に座るナディアがその手を両手で包み、一緒に二度だけ膝を叩いた。


議会を出る頃には、雪がやんでいた。石段の脇では、雪の間から白い待雪草が顔を出している。アルベルトは売店で温かな焼き芋を二つ買い、紙に包んだままエレノアへ渡した。彼女は指先へ伝わる熱に息を吐き、半分に割った。


「一票差でした。もし、あの最後の一人が反対していたら、また最初からだったのですね」


「そのときは、最初からやればいい。今度は七と九を間違えずに、私も計算を手伝う」


「その前に、数字の飾り線をやめてください。あなたの七は、どう見ても九です」


二人は焼き芋を食べながら、王都屋敷まで歩いた。甘い湯気が冷たい空気へ消え、手袋には黒い皮の粉がついた。法案が可決されても、治療院の働き方が明日すぐに変わるわけではない。それでもエレノアは、理解という言葉を差し出すだけで誰かの時間と力を奪える仕組みに、初めて値段と責任をつけることができた。


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