第16話 善意で作られた墓
第16話 善意で作られた墓
初雪が降った朝、王都から大きな木箱が三つ届いた。箱の蓋には王国治療院の旧資料室と書かれ、釘の周りには黒い黴がついている。エレノアは厚手の紺色の仕事着に白い前掛けを重ね、治療院の倉庫で箱を開けた。窓辺に飾った黄色い寒菊からは土の匂いがし、隣の机ではマルタが干し葡萄入りのパンを小さく切っていた。
「これが、王都で見つかった記録ですか。ずいぶん埃っぽいですね。先に窓を開けたほうがよさそうです」
「外は雪ですよ。書類が湿りませんか。奥様も、そのパンを食べてから始めてください。朝食を半分残したと料理人から聞きました」
「一切れだけいただきます。その代わり、マルタも手袋をしてください。紙の端で指を切りますよ」
二人は油紙を敷いた長机へ資料を並べた。最初の箱には二十年前から十年前までの勤務記録が入り、二つ目には退職者と死亡者の名簿が詰められていた。三つ目からは、破棄されたはずの申立書が出てきた。紙は湿気を吸って波打ち、鼠に角をかじられたものもあった。
エレノアは一番古い名簿を開いた。そこには、三十二歳で魔力を失った女性治癒師の名前があった。百十三日間、一日も休まず働き、最後の診療中に倒れたと記されている。備考欄には、体力不足により解雇とだけ書かれていた。
「百十三日ですって。休養を申し出た記録はないのでしょうか。これでは、本人が勝手に倒れたように見えます」
「あちらの紙に同じ名前があります。休暇申請書のようです。でも、赤い字で却下と書かれていますよ」
「理由は、患者を見捨てる行為だから。申請日は、倒れる九日前です」
次の記録には、結婚を理由に退職を求めた治癒師の名前があった。王国が教育費を負担したのだから、三十五歳までは結婚も出産も認めないと院長が通告している。女性は婚約を解消して働き続けたが、五年後に魔力枯渇で治療師を辞めていた。その後の住所は空欄だった。
別の束からは、無償奉仕を断った男性治癒師の処分記録が見つかった。地方の流行病へ派遣され、半年間の給与も宿泊費も支払われなかったため、帰還を申し出た人物だった。処分理由には、治癒師にふさわしい献身性を欠くと書かれている。署名した者の中には、現職の厚生大臣の名前もあった。
「同じ言葉ばかりですね。献身、理解、使命、善意。どの紙にも、お金や休みのことはほとんど書かれていません」
「書かなければ、支払わなくても奪ったことにならないと思ったのでしょう。本人が善意で差し出したことにすれば、命令した側は手を汚さずに済みます」
「でも、この紙には指の跡がついています。何度も握ったのでしょうね。善意なら、こんなに皺にはならないと思います」
エレノアは何も答えず、紙の皺を指で伸ばした。王都で働いていた頃、自分も何枚か休暇申請書を書いたことがある。しかし提出前にレナードから、君なら患者の事情を理解できると言われ、すべて破ってしまった。自分の名前がこの箱にないのは、壊されなかったからではなく、壊れる前に逃げ出せたからだった。
昼になっても、資料の半分も確認できなかった。マルタが温め直した蕪のスープを運び、二人は倉庫の隅に置いた小机で食べた。スープには細く切った燻製肉が入っていたが、エレノアの器だけ蕪が多かった。パンを浸すと少し塩辛くなり、彼女は水を一杯飲んだ。
「奥様、午後の診療は副院長に任せましょう。今の顔で患者の前へ出たら、皆さんが自分の病気より奥様を気にします」
「そんなにひどい顔をしていますか。鏡を見ていないので分かりません」
「眉間に縦線が二本あります。一本ならいつものことですが、二本は休憩の印です。今日は私が決めました」
エレノアは反論せず、食後に寒菊の水を替えた。花瓶の底には細かな土がたまり、水が薄く濁っている。茎を少し切ると、青い匂いが指へついた。窓の外では雪がやみ、屋根から落ちる雫が規則正しく石を叩いていた。
三日かけて調べると、同じような記録が四十七人分見つかった。魔力を失った者が十六人、結婚や出産を禁じられた者が十一人、無償奉仕を断って追放された者が九人いた。勤務中に亡くなった者も四人いる。それでも王国治療院の公式記録では、全員が自己都合による退職か、本人の体力不足として処理されていた。
エレノアは記録を王都へ送り返さず、写しを作ることにした。過去の院長や大臣に都合よく処分される可能性があるためだった。辺境の書記官三人が治療院へ呼ばれ、朝から晩まで文字を書き写した。インクの匂いが薬草の香りに混ざり、机の端には削った羽根ペンの先が積み上がった。
「この記録を公開します。本人が存命なら、証言も集めたいと思います。亡くなった方については、ご家族へ許可を求めます」
「名前を公表すれば、家族まで非難されるかもしれない。まずは全員の意思を確認したほうがいいだろう。王都へ出す手紙には、私も署名する」
「ありがとうございます。でも、これは辺境伯家の命令にはしないでください。話したくない方には、黙る権利も必要です」
最初に返事をくれたのは、魔力を失った元治癒師のクララだった。五十八歳になった彼女は、王都の外れで小さな仕立屋を営んでいる。辺境まで旅をする体力がないため、エレノアが王都へ出向いた。クララの店先には白い山茶花が咲き、窓の内側には縫いかけの子ども服が吊るされていた。
クララは茶色い毛糸の上着を着て、火鉢の前で靴下を繕っていた。右手には魔力枯渇の後遺症が残り、針を持つ指が細かく震えている。卓上には冷めた麦茶と、固くなった胡麻菓子が二つ置かれていた。エレノアが記録の写しを見せると、クララは針を布へ刺したまま手を止めた。
「まだ残っていたのですね。院長からは、休暇を求めた記録などないと言われました。私が自分から無理をして、自分のせいで魔力を失ったことになっていました」
「休暇申請書には、院長の却下印があります。証言を公表するかどうかは、クララさんが決めてください。名前を伏せることもできます」
「名前を出してください。隠れているのは、もう疲れました。ただし、この服を縫い終えるまで待ってください。明日、近所の子の誕生日なのです」
次に会ったのは、結婚を禁じられた元治癒師のナディアだった。彼女は市場で乾燥薬草を売り、一人で暮らしていた。婚約者だった男性は別の女性と家庭を持ち、すでに孫もいるという。ナディアは売れ残った林檎を煮ながら、あの頃の自分は国民を救う立派な女性だと褒められるたび、断る言葉を失ったと話した。
「優しい女性なら理解できると言われました。結婚は後でもできるけれど、今日の患者は今日しか救えないと。気づいたときには四十歳を過ぎていて、魔力もほとんど残っていませんでした」
「その言葉を使った人の名前を覚えていますか。記録と照らし合わせます」
「全員は覚えていません。でも、毎朝食べていた薄い豆のスープの味は覚えています。温かいうちに飲めた日は、一度もありませんでした」
エレノアは十七人から直接話を聞き、二十二人から手紙を受け取った。話したくないと断った者も五人いたため、その名前は公開資料から外した。亡くなった治癒師の家族には、遺品と記録を照合してもらった。ある母親は、娘が最後に着ていた白い診療着を二十年間、木箱の底へしまっていた。
一か月後、辺境の公会堂で記録の公開会が開かれた。壁には冬咲きの白薔薇が飾られ、中央には四十七人分の記録が年代順に並べられている。王都から来た記者や議員のほか、現役の治癒師も大勢集まった。エレノアは濃紺のドレスを着て、胸元へ辺境伯家の銀の紋章を留めていた。
「これは、過去の院長一人だけの問題ではありません。二十年間、何人もの役人と貴族が署名し、同じ制度を残してきました。治癒師自身も、弱いと思われることを恐れ、隣の者へ我慢を求めてしまいました」
「エレノア様は逃げて、辺境伯と結婚して幸せになったではありませんか。なぜ今さら、昔のことを掘り返すのですか」
記者の一人が立ち上がり、細い鉛筆を構えた。会場の後方では、若い治癒師が椅子に座れず壁際に立っている。用意した席が足りなかったのだ。エレノアは自分の椅子を持ち上げ、その若者の前へ運んだ。
「私一人が幸せになって終われば、この椅子には次の誰かが座らされます。私は逃げられましたが、逃げる力まで失った方もいました。昔のことにしてしまえば、同じ言葉が明日も使われます」
エレノアが立ったまま話を続けようとすると、アルベルトが会場の隅へ歩いていった。受付係が使っていた予備の椅子を一脚持ち、彼女の隣へ置く。脚の裏が床をこすり、大きな音がした。飾りのない木の椅子だったが、座面には誰かがこぼした茶の丸い染みが残っていた。
「立ち続けて制度を変える必要はない。座って話せばいい。君が休むことまで、誰かの許可を求めるな」
「では、座ります。でも、この椅子は少しがたつきますね。紙を一枚、脚の下へ挟んでもらえますか」
「大事な資料は使えない。記者が持っている号外を一枚もらおう。どうせ君を『わがままな聖女』と書いた古い新聞だ」
会場のあちこちから笑いが起きた。記者は気まずそうに鞄から古新聞を出し、四つ折りにして椅子の脚へ挟んだ。エレノアが腰を下ろすと、椅子は動かなくなった。その隣ではアルベルトも別の椅子へ座り、証言者たちの話を最後まで聞いた。
公開された記録は翌週、王国議会へ提出された。厚生大臣は過去の慣習だったと弁明したが、自分の署名がある処分記録を否定できなかった。王国治療院では、すべての治癒師に休暇申請書の写しを渡し、却下する場合には理由を記録することが義務づけられた。魔力を失った元治癒師への補償についても、正式な調査が始まった。
公開会の翌朝、エレノアは治療院の倉庫を片づけていた。木箱から出した資料は鍵のかかる棚へ移し、空いた箱には冬用の毛布を入れる。マルタは寒菊の枯れた花を摘みながら、昨夜焼いた林檎菓子を紙袋から出した。端は焦げていたが、中には甘い果汁が残っていた。
「奥様、昨日の椅子はどうしますか。公会堂から返すように言われています。茶の染みがありますから、屋敷では使わないほうがよいでしょうか」
「治療院の待合室へ置きましょう。染みは洗えば少し薄くなります。がたつく脚には、新しい木片をつけてもらいます」
「二脚ともですか。辺境伯様が持ってきたほうもありますよ」
「二脚ともです。一人で座るより、隣に誰かが座れるほうがよいでしょう」
二人は椅子を窓辺へ並べ、その間に小さな卓を置いた。卓上には林檎菓子と、湯気の立つ薬草茶を二杯置く。外では初雪に耐えた寒菊が、朝の日差しを受けていた。エレノアは隣の椅子へマルタを呼び、診療開始の鐘が鳴るまで、温かい菓子をゆっくり食べた。




