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第12話 聖女を返せという王命

第12話 聖女を返せという王命


辺境では、夏の終わりを告げる紫色の竜胆が咲き始めていた。朝の治療院には煎じた薬草の匂いが残り、窓辺では洗った包帯が風に揺れている。エレノアは生成りの診療着の袖を肘までまくり、診察台についた蜂蜜の染みを濡れ布巾で拭いていた。昨日来た男の子が薬を嫌がり、母親の持っていた蜂蜜を診察台へこぼしたのだ。


「奥様、その染みは私が落とします。それより、お城から使者が来ています。白馬が二頭に、金色の紋章入りの馬車です」


受付のマルタは、干し杏を一つ口へ入れたまま窓を指さした。彼女が編んでいた赤い靴下は片方だけ完成し、もう片方はまだ踵にも届いていない。エレノアは布巾を洗面器へ戻すと、前掛けを外して皺を伸ばした。


治療院の前には、王家の紋章を掲げた馬車が止まっていた。青と金の礼装を着た使者が降り、その後ろから四人の近衛兵が続く。患者たちは何事かと窓へ集まり、包帯を巻いた農夫まで椅子を引きずってきた。使者は土のついた靴を気にしながら待合室へ入り、エレノアの前で銀色の筒を差し出した。


「エレノア・フォン・ハルディン辺境伯夫人に、国王陛下からの召還命令をお届けします。ただちに受領の署名をお願いいたします。出立は三日後を予定しております」


「受領の署名はします。ただし、内容を確認する前に出立を約束することはできません。使者殿も長旅でお疲れでしょうから、お茶を用意させます」


「これは命令です。お願いではありません。内容にかかわらず、従っていただくことになります」


エレノアの手が、銀の筒へ触れる直前で止まった。王都にいた頃も、レナードは同じ順番で話した。最初に決定を告げ、次に彼女の予定を奪い、最後に理解を求める。違うのは、目の前にいる者が公爵家の紋章ではなく、王家の紋章を胸につけていることだけだった。


「命令であっても、何を命じられたのかは確認します。署名はその後です。それとも王都では、中身を知らせずに人を連れていくことが認められているのですか」


「そのような意味ではありません。では、お読みください。私は玄関で待ちます」


使者は返事を待たず、踵を返した。しかしマルタに薬草茶と焼き菓子を勧められると、断りきれず長椅子へ座った。焼き菓子には干した苺が練り込まれており、使者は一口食べてから、残りを紙に包んでほしいと小声で頼んだ。王都にいる娘へ持ち帰りたいらしい。


エレノアは診察室へ入り、銀の筒から命令書を取り出した。厚い羊皮紙には国王の署名と印璽があり、王都の治療院へ復帰するよう記されている。だが報酬、勤務期間、診療時間、住居については一行もなかった。最後には「王国の民を思い、理解ある決断を期待する」と書かれていた。


「理解ある決断ですって。命令を出しておきながら、決断した形だけは私に与えるのですね。断れば、国民を見捨てたと言えるように」


エレノアが紙の端を握ると、古い傷の残る指が白くなった。もう一方の手で押さえていた朝食の包みから、薄切りの燻製肉が床へ落ちる。彼女はすぐに拾おうとしたが、腰をかがめたまま動けなくなった。王都の治療室で、食事を取る暇もなく硬いパンを立ったままかじっていた頃の記憶が戻ってきた。


昼前になると、知らせを受けたアルベルトが治療院へ来た。訓練場から直接来たため、濃紺の上着には砂埃がつき、革の手袋からは馬と汗の匂いがした。彼は命令書を読むと眉間に皺を寄せたが、紙を破りも、丸めもしなかった。机の端へ落ちていた燻製肉を布で包み、命令書をエレノアの前へ置いた。


「王国に属する治癒魔導士という表現はおかしい。君は王宮から俸給を受けていないし、終身雇用の契約も結んでいない。辺境伯夫人を命令一枚で連れ出せるなら、領地の自治権にも関わる」


「拒否してもよいと思いますか。それとも、辺境伯家として抗議しますか」


「私が決めれば、それも君から選択を奪う。行くか、拒むか、条件を出すか。君が決めてくれ。ただし、どれを選んでも必要な手続きは私が支える」


エレノアはすぐには答えず、机の引き出しから小さな缶を取り出した。中には白い砂糖が入っていた。普段は一杯の茶に一匙だけと決めていたが、今日は二匙入れた。匙がカップへ当たる音を聞きながら、王都へ戻った場合と、ここへ残った場合を順番に考えた。


「王都には戻りたくありません。あの治療室の匂いを思い出すだけで、食べ物が喉を通らなくなります。でも、そこで働いている治癒師たちは、今も私と同じように眠らず働いているのでしょうね」


「君が救う義務はない。王都にいる治癒師も、王都の患者も、本来は国が守るべき者だ。君一人の肩へ載せてよい責任ではない」


「分かっています。だから、以前のように戻るつもりはありません。私を取り戻せば元どおりになると考えている人たちへ、元どおりにはしないと伝えに行きたいのです」


午後の診療が終わると、エレノアは屋敷へ戻った。台所では料理人が茸のスープを温め直しており、鍋の蓋から白い湯気が漏れている。食卓には焼いた川魚と豆の煮込みが並び、花瓶には庭で摘んだ竜胆が三本挿してあった。エレノアは魚の皮を少しずつ外しながら、アルベルトと王都へ出す返書の内容を相談した。


「まず、召還ではなく期間を定めた協議への出席とすること。滞在は十日間。王都で治療を行う場合は、一日六時間までです」


「護衛と補佐官を同行させる。宿泊先は公爵家でも王宮でもなく、辺境伯家の王都屋敷だ。ほかにはあるか」


「急患以外の夜間診療はしません。私が断った患者を、身分を理由に診察室へ入れないこと。そして、王都にいる治癒師全員の勤務記録と給与記録を開示してもらいます」


アルベルトは一つずつ書き留めた。彼の文字は大きく、紙の右端へ近づくにつれて少しずつ上がっていく。エレノアがそれを指摘すると、アルベルトは紙を傾けていたせいだと言い張った。二人は新しい紙を用意し、今度はエレノアが文章を書いた。


翌朝、王都の使者が返事を受け取りに来た。エレノアは淡い灰色の外出着を身につけ、銀色の髪留めで髪をまとめていた。机の上には王命への受領書と、彼女が作成した条件書が並んでいる。使者は条件書の長さに目を見開き、国王の命令へ条件をつける者などいないと声を低くした。


「陛下は、あなたが国民のために理解ある決断をすると期待されています。条件など出さず、王都へ戻るべきではありませんか」


「私も、王国が治癒師の健康と生活を理解する決断をすると期待しております。そのために王都へ参ります。条件を受け入れられないのであれば、出立いたしません」


「それでは命令違反とみなされる可能性があります。辺境伯家にも処罰が及ぶかもしれません。それでも署名なさるのですか」


エレノアは震えそうになる指を、机の下で一度だけ握った。窓の外では、マルタが洗った包帯を取り込んでいる。風に飛ばされた一枚が竜胆の上へ落ち、マルタは花を折らないよう腰をかがめて拾った。エレノアはその様子を見届けてから、ペン先をインクへ浸した。


「署名します。私は王都へ戻ります。ただし、誰かの所有物として返されるのではありません。自分で定めた条件を持つ治癒師として参ります」


エレノアは条件書の最後へ名前を書いた。使者は返す言葉を失い、二枚の書類を銀の筒へ収めた。帰り際、マルタから娘への焼き菓子を受け取ると、彼は小さく頭を下げた。王家の馬車が見えなくなるまで、エレノアは治療院の前に立っていた。


出立までの三日間、エレノアは留守中の診療予定を整えた。急患は副院長が担当し、薬草の在庫はマルタが管理する。鞄には華美なドレスではなく、診療着を三枚、丈夫な革靴、乾燥させた薬草、それに竜胆の押し花を挟んだ帳面を入れた。アルベルトは横で荷物を確認しながら、燻製肉を多めに持っていけと何度も勧めた。


「王都にも食べ物はあります。荷物が重くなりますから、二包みで十分です」


「王都の食事が口に合わなかったら困る。移動中に腹が減るかもしれない。三包みにしておけ」


「では、三つ目はあなたの鞄へ入れます。私だけに持たせるのは公平ではありません」


出発の朝、辺境には細い雨が降っていた。濡れた竜胆は色を濃くし、治療院の煙突からは朝の煙が上がっている。エレノアは濃い青色の旅行着の上に灰色の外套を羽織り、自分の足で馬車へ乗った。扉が閉まる前に治療院を一度だけ振り返ったが、戻りたいとは言わなかった。


馬車が王都へ向かって走り始めると、車輪が水たまりを踏み、窓へ泥水が跳ねた。エレノアは膝の上に条件書の写しを置き、その上へ手を重ねた。以前はレナードに呼ばれ、自分の予定も意思も持たずに王都を歩いていた。今度は違うと確認してから、隣に座るアルベルトへ顔を向けた。


「私は、王都へ帰るのではありません。話をつけに行くのです。終わったら、ここへ戻ってきます」


「分かった。では、帰りに王都で胡桃を買おう。辺境の店より安いらしい」


エレノアは少し考え、二袋買いましょうと答えた。馬車の中には革張りの座席と燻製肉の匂いがあり、足元には三日分の衣服を詰めた鞄が置かれている。王都へ続く道は雨でぬかるんでいたが、行き先を決めたのは王でもレナードでもなかった。エレノアは自分で選んだ道を、自分の条件を携えて進んでいった。


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