第11話 治せることと、引き受けることは違います
第11話 治せることと、引き受けることは違います
辺境に短い夏が訪れ、治療院の前庭では青い矢車菊と白い夏菊が咲いていた。エレノアは薄い水色の診療着に生成りの前掛けを重ね、開院前の待合室で薬草茶を飲んでいた。朝食の黒パンを一切れ残してしまい、皿の端には溶けかけた山羊乳のバターがついている。以前なら食事を中断してでも患者を迎えたが、今は鐘が鳴るまで診察室の扉を開けないと決めていた。
「奥様、また王都から馬車が来ています。今度は三台です。先頭の馬車には、グランデル侯爵家の紋章がついています」
受付を任されているマルタが、窓から外をのぞきながら言った。彼女の指には薬草を刻んだときについた緑色の染みがあり、腰の布袋からは編みかけの赤い靴下がはみ出している。冬になる前に孫へ贈るのだと、休憩時間になるたび少しずつ編んでいるものだった。
「予約は入っていますか。緊急の患者でしょうか。それとも診療時間を間違えているだけですか」
「予約はありません。馬車から降りた方は、ご自分で歩いています。従者に日傘を持たせるくらいには、お元気そうです」
「それなら鐘が鳴るまで待っていただきましょう。マルタもお茶を飲んでください。昨日から、その靴下が一段も進んでいないでしょう」
マルタは申し訳なさそうに笑い、台所から欠けた陶器のカップを持ってきた。二人が干した林檎の入った薬草茶を飲んでいると、玄関の扉が強く叩かれた。壁に掛けた木製の匙が振動で落ち、乾いた音を立てる。エレノアは反射的に立ち上がりかけたが、膝に置いていた布巾を畳み直してから椅子へ座り直した。
「聖女様がおられるのでしょう! グランデル侯爵夫人がお見えです! ただちに扉を開けなさい!」
外から聞こえた声に、エレノアの指がカップの取っ手を強く握った。王都にいた頃、食事中でも入浴中でも、レナードに呼ばれれば急いで駆けつけていた。待たせれば「君は立場というものを理解してくれるだろう」と言われ、急いで応じれば当然のように次の仕事を渡された。冷たくなった料理を一人で食べる夜が何度あったのか、もう数える気にもならなかった。
「鐘が鳴るまで、あとどのくらいですか。今日は朝からよく晴れていますね。それなら、外で待っても風邪はひかないでしょう」
「あと十二分です。日陰には長椅子もあります。それに、侯爵夫人は羽飾りを三本もつけていらっしゃいますから、日差しにも負けませんよ」
マルタの返事を聞き、エレノアは残していた黒パンを口へ運んだ。少し硬くなっていたが、林檎の蜂蜜を塗ると十分に食べられた。誰かを待たせたまま朝食を食べることに、胸の奥が落ち着かなくなる。それでも急いで飲み込まず、最後まで噛んでから水を飲んだ。
開院の鐘が鳴ると、侯爵夫人は従者二人と侍女を連れて待合室へ入ってきた。濃い紫色の絹のドレスには銀糸で百合が刺繍され、甘い薔薇の香油が薬草の匂いを押しのけるほど漂っていた。夫人は空いている長椅子を見ても座らず、受付台の前へ扇を置いた。マルタが診療申込書を差し出すと、夫人は紙を見ることさえせずに顎を上げた。
「私はグランデル侯爵夫人です。昨夜から右手の小指が痛むのです。王都の医師には腫れてもいないと言われましたが、聖女なら完全に治せるのでしょう?」
「診察をしなければ分かりません。先に申込書へ症状と発症した時刻をお書きください。診療費は銀貨五枚、治癒魔法を使う場合は別料金となります」
「お金を取るのですか。聖女が人助けをして、代金を求めるなんて聞いたことがありません。そもそも私は、三日もかけて王都から来たのですよ」
侯爵夫人は扇で受付台を二度叩き、後ろにいた侍女へ椅子を出すよう命じた。侍女は長旅で疲れているらしく、灰色の制服の裾には乾いた泥がつき、目の下も薄く黒ずんでいる。それでも夫人のために椅子を運び、自分は壁際へ立った。エレノアは侯爵夫人の小指より、侍女が左足をかばっていることに気づいた。
「侯爵夫人、こちらでは身分にかかわらず受付順に診察します。歩ける方より、命に関わる患者を優先します。無料診療は、領内の生活困窮者に限っています」
「私を待たせるつもりですか。侯爵家から寄付を受けられるかもしれないのですよ。少しくらい融通を利かせてもよいでしょう?」
「寄付には条件をつけないでください。順番を買うためのお金なら受け取りません。それから、そちらの侍女の方は足を傷めているようですが、ご本人も診察を希望されますか」
侍女は驚いて顔を上げたが、侯爵夫人が扇を閉じる音を聞くと、すぐに首を振った。馬車から荷物を下ろす際に足首をひねったものの、大したことはないという。けれども靴の縁から見える足首は赤く腫れ、右足より明らかに太くなっていた。エレノアがしゃがんで診ようとすると、侯爵夫人は紫色のスカートを広げ、二人の間へ割り込んだ。
「その子は後でよろしいのです。私は助けを求めて、はるばる来たのですよ。助けられるのに断るのですか?」
その言葉を聞いた瞬間、エレノアの鼻に薔薇の香油ではなく、王都の治療室に染みついていた血と消毒薬の匂いが戻ってきた。重傷の騎士を治療している最中、レナードは擦り傷を負ったセリアを連れてきた。彼は治療台に横たわる兵士を見ようともせず、エレノアなら事情を理解できると言った。あのとき彼女が治療を中断していたら、若い騎士は右腕を失っていただろう。
エレノアは立ち上がり、前掛けについた埃を手で払った。窓の外では、庭師が夏菊へ水をやっていた。飛び散った水が日差しを受けて光り、開けた窓から湿った土の匂いが入ってくる。ここは王都の公爵邸ではなく、誰かの機嫌によって順番が変わる治療室でもなかった。
「治せることと、私が無条件で引き受けることは、同じではありません。私は診察を拒んでいるのではなく、規則に従っていただきたいと申し上げています。規則を守れないのであれば、王都の医師へお戻りください」
侯爵夫人の頬が赤くなり、扇の飾り紐が細かく揺れた。聖女は慈悲深く、頭を下げれば何でもしてくれると聞いたのに、と夫人は声を荒らげる。その言葉を聞いたマルタは、受付台の下から一冊の帳面を取り出した。表紙には小麦粉のついた指で触ったような白い跡があり、間には去年の矢車菊が押し花にして挟まれていた。
「こちらは奥様が無料で治療した方々の記録です。鉱山事故で腕を負傷した方、吹雪で凍傷になった子ども、魔獣に襲われた行商人もいます。ですが、皆さんが無料だったわけではありません。払える方からは、きちんと代金をいただいています」
「では、私は侯爵夫人だから多く払えというのですか。身分の高い者を狙って金を取るなんて、恥を知りなさい」
「銀貨五枚は、領主様もパン屋のご主人も同じです。侯爵夫人からも、それ以上は取りません。奥様は、誰かを特別に安く扱わない代わりに、特別に高く扱うこともしません」
待合室にいた農夫が、包帯を巻いた手を膝へ置いたまま小さくうなずいた。その妻は籠から茹でた卵を取り出し、殻をむいて夫へ渡している。硫黄に似た匂いが薔薇の香油に混ざり、侯爵夫人は露骨に顔をしかめた。それでも農夫の妻は気にせず、余った卵を一つマルタへ差し出した。
侯爵夫人は帰ろうとしたが、侍女が一歩踏み出したところで顔をゆがめた。体が傾き、壁へ肩をぶつけそうになる。エレノアは侍女の腕を支え、近くの椅子へ座らせた。靴を脱がせると、足首には紫色のあざが広がっていた。
「これは大したことのない傷ではありません。骨にひびが入っている可能性があります。今すぐ診察します」
「待ちなさい。その子より、私の指が先でしょう。私は主人なのですよ」
「緊急度は、身分では決まりません。彼女は歩き続ければ悪化します。侯爵夫人の小指には腫れも変色もありませんから、順番をお待ちください」
エレノアは侍女の足首へ手をかざし、探査魔法を流した。淡い金色の光が皮膚を包むと、侍女は息を止めて椅子の縁を握った。骨に細い亀裂が一本入っていたが、今なら短い治療と固定で治せる。エレノアは魔法で亀裂を塞ぎ、マルタに清潔な布と添え木を頼んだ。
「治療費は私のお給金から、少しずつお支払いします。ですが、今月は実家へ仕送りをしたばかりで、手持ちがありません」
「それなら分割で構いません。受付で相談してください。治療が必要な人を、財布の中身だけで帰したりはしません」
「無料ではないのですね。でも、追い返しもしないのですね。そんな治療院があるとは知りませんでした」
侍女の目から涙が落ちそうになると、マルタは何も言わずに茹で卵を半分に割った。片方を侍女へ渡し、残りを自分の口へ入れる。朝から何も食べていなかった侍女は遠慮したが、腹が小さく鳴ったため、頬を赤くして受け取った。侯爵夫人はため息をつきながらも、今度は侍女を立たせようとはしなかった。
診察の結果、侯爵夫人の小指には病気も怪我もなかった。新しく買った指輪がきつく、長時間つけていたため痛みが出ただけだった。エレノアが指輪を外して休ませるよう説明すると、夫人は三日もかけて来たのにそれだけなのかと不満を漏らした。それでも診療費の銀貨五枚を受付台へ置き、侍女が治療を終えるまで長椅子で待った。
夕方、最後の患者を見送ると、エレノアは治療院の窓を閉めた。水色の診療着には薬草の粉がつき、髪からは汗と石鹸の匂いがした。机の上には侯爵夫人が置いていった銀貨と、農夫の妻が礼にくれた小さな夏瓜が並んでいる。マルタは赤い靴下を三段だけ編み、満足そうに籠へしまった。
「侯爵夫人、本当に帰ってしまうかと思いました。奥様は怖くありませんでしたか。王都で悪い噂を流されるかもしれませんよ」
「怖くないと言えば嘘になります。でも、悪く言われないために規則を曲げたら、次はもっと大きなものを差し出すことになります。私はもう、理解のある人間だと思われるために、自分を使い切りたくありません」
治療院を出ると、アルベルトが門の前で待っていた。訓練帰りらしく、黒い上着の肩には乾いた土がつき、片手には紙袋を抱えている。中には焼きたての胡桃パンが二つ入っており、香ばしい匂いが夕方の風に乗った。彼は侯爵夫人との一件を聞いていたが、エレノアの判断が正しかったとも、もっと穏便にするべきだったとも言わなかった。
「夕食まで待てずに買ってしまった。一つ食べるか。それとも、家へ帰ってからにするか」
「今、半分だけ食べます。残りは夕食のスープにつけたいです」
「分かった。では、半分に割ろう」
アルベルトは大きさが同じになるよう何度も見比べてから、胡桃パンを割った。片方がわずかに大きいことに気づき、そちらをエレノアへ渡す。エレノアはそれを受け取り、一口かじった。温かなパンの中で胡桃が小さく砕け、蜂蜜の甘さが舌に広がった。
二人は夏菊の咲く道を、急がずに歩いた。治療院には明日も患者が来る。できる治療もあれば、できない治療もあり、断らなければならない頼みもある。それでもエレノアは、自分の時間と力を自分で選べる場所へ、胡桃パンを片手に帰っていった。




