第6話 説明されなかったことは、なかったことです
ゲオルクさんは、船で来ました。
馬車ではなく、乗合の船です。桟橋に降りたところを、わたくしは荷揚げ場から見ておりました。外套は着ていません。手に持っているのは、革の鞄が一つだけです。
二年前の朝、玄関の広間でわたくしの鞄を持ってくれたのは、この人でした。玄関から馬車まで、十歩ほどの距離です。その十歩のあいだ、何もお話しになりませんでした。
港の板を歩く足が、王都の人の歩き方です。板の継ぎ目で一度ずつ足を止めます。
「セラフィナ様」
「ゲオルクさん」
それだけで、こちらの用件は分かりました。
店の裏の井戸端に、腰かけられる石があります。そこへ案内して、水を汲みました。ゲオルクさんは鞄を膝に置いたまま、湯呑みを両手で受け取りました。船で来ると、王都から五日かかります。
「お達者そうで」
「働いておりますので」
「手が、変わりましたな」
わたくしは指を見ました。爪の際が緑がかっています。薬草の仕事のあとは、二日ほど残ります。
ゲオルクさんは、それ以上その話をしませんでした。
「旦那様のお言伝を、預かって参りました」
「伺います」
言伝は長うございました。ゲオルクさんは覚えたことを順に並べる人で、途中で言い直しをしません。
二年前の春、親族の会が三度開かれたこと。血筋のことを持ち出したのは、南の分家の伯父君であること。義母がそれを引き取る形で離縁の話をまとめたこと。旦那様はその場で反対をなさらなかったが、それは反対すればこちらの立場が悪くなり、後で戻すことが難しくなると考えたからであること。
「旦那様は、二年のうちに必ずお戻しするおつもりでございました。」
そこまで聞いて、わたくしは湯呑みを石の上に置きました。
言伝の中に、一度も出てこない言葉があります。伺う、という言葉です。誰にどう伺うか、という段取りの話が、二年ぶんのどこにもありませんでした。
「ゲオルクさんは、それをご存じでしたか」
「存じておりました」
「いつから」
「離縁の書面を運びました日から」
そうですか、と申しました。それ以上のことは、この人に言っても仕方がありません。
二年のあいだに、この人からも手紙は来ませんでした。持参金の照会に一度だけ、只今取り込んでおります、と返してくださったのが最後です。あれは旦那様の名ではなく、この人の名で来ました。
「お返事は、明日でよろしいでしょうか」
「もちろんでございます」
ゲオルクさんは宿へ行かれました。港の宿は、船着き場の並びに二軒あります。安いほうを選んだと、あとでダーヴィトから聞きました。
その日の午後、店の表で香辛料の小分けをしました。
粒のままのものと、挽いたものを、別の棚に分けます。紙の袋に小分けして、口を二度折って糊で留めます。挽いたものは一年か二年で香りが抜けます。粒は数年もちます。
見た目はどちらもほとんど変わりません。変わらないので、客は挽いたほうを古くても買っていきます。
ブラントさんが、粒の入った壺と、粉の入った壺を並べました。
「どちらが古いと思います」
「粉のほうです」
「同じ日に仕入れたものです」
蓋を開けて、鼻を近づけました。粒のほうは、蓋を開けた途端に匂いが来ます。粉は、鼻を近づけないと分かりません。
「早く使えるようにしたぶん、早く抜けます」
「そうですね」
「挽くのは、こちらの都合です」
ブラントさんは壺の蓋を閉めて、棚に戻しました。それから、下の段の袋を一つ持ち上げて、底を確かめています。湿りの出やすい段です。石の床に近いところは、この時期どうしても戻ります。
袋の底に手を当てて、少し待ってから離す。冷たさの残り方で、中まで湿っているかどうかが分かります。
「セラフィナさん」
「はい」
「あの方は、王都の方ですか」
「二年前まで、勤めていた家の執事の方です」
ブラントさんは袋を置いて、しばらく黙っておりました。それから、帳面を開いて、何かを書き足すふうに手を止めました。
帳面の見返しに、名前が書いてあります。ブラント商会の帳面はどれも、最初の頁の裏に持ち主の名を入れます。この帳面の見返しには、女の名前が書いてありました。十年前の字です。インクが茶色くなっています。
一度、これは、と聞いたことがあります。ブラントさんは、書き直していないだけです、と答えました。帳面は毎年新しくしますが、見返しの名だけは書き写しているようです。
「わたしは四十六です」
その日、はじめてご自分の年の話をなさいました。
「あなたは二十六です」
「はい」
「二十年ぶん、先に終わります」
帳面の頁を、指の腹で押さえておられました。
「それを、二十年下の人に背負わせるのが、こわい。この二年、言わずにおりました」
わたくしは何も申しませんでした。申すべきことが、すぐには出てきません。
こわい、という言葉を、この人が使うのを初めて聞きました。
「言わずにおくのは、よくありません」
「はい」
「言っておいて、決めるのはあなたです」
ブラントさんは袋を持ち上げて、上の段へ移しました。それから、こちらを見ないままで続けました。
「あなたが王都へ戻ると決めても、この店は困りません。だから、好きに決めてください。」
困らないというのは、嘘です。この時期の目利きは、わたくしのほかにいません。ヨナスさんは分銅を見る人で、匂いは分かりません。
嘘をついてまで、この人はわたくしに決めさせようとしています。
その日の残りは、いつもの仕事をしました。夕方に袋を三つ外して、赤い麻ひもを結びました。
その夜、宿へは行きませんでした。
翌朝、ゲオルクさんは店の前に立っております。鞄は持ったままです。船の便は昼です。
「お返事を伺います」
わたくしは前掛けで手を拭いて、それから申しました。
「昨日のお話は、承りました」
「はい」
「けれど、あれは二年前に伺うはずのことでした」
ゲオルクさんは、鞄の持ち手を握り直しました。
「あの方は、書けたはずです。屋敷を出る朝も、船を待つ三日のあいだも、二年のあいだも。書かれませんでした」
ゲオルクさんは、何も申しません。
「旦那様は、お書きになれば奥様が先に出ていかれると」
「わたくしは、出ていきました」
言葉が途切れました。井戸のほうで、桶の縁が石に当たる音がします。
「説明されなかったことは、なかったことです。」
ゲオルクさんは、二度、うなずきました。それから、承りました、と申しました。
桟橋まで送ります。船が出るまでに、まだ間がありました。
「セラフィナ様」
「はい」
「膝の薬は、こちらでお買い求めできましょうか」
「港の薬種商で扱っております。名を書いてお渡しします」
紙に草の名を書いて、渡しました。薬種商の場所も書き足します。乾かし方は書きませんでした。
ゲオルクさんはそれを二つに折って、胸に入れました。折り目を指でなぞってから、もう一度なぞりました。
船が桟橋を離れます。
ゲオルクさんは甲板の端に立って、こちらを見ておりました。鞄は膝の上にあります。来たときと同じ持ち方です。
言伝は、来たときと同じ重さで帰っていきました。




