第5話 家政は誰にでもできます、と申しました
夏の初めの招待は、二通で終わりました。
例年ならこの時期、机の上に六通か七通は並びます。デルフ侯爵家の園遊、南の別邸の水辺の会、それから名の知れた家の茶会がいくつか。今年は、遠縁の家の顔合わせと、修道院の寄進の集まりだけでした。
寄進の集まりは、招かれるというより、名前を出しておく場です。
去年は五通ありました。一昨年は七通です。
わたくしは机の上の二通を、朝のうちに二度並べ替えました。
返礼が遅れたのは、春の贈答です。
季節の品をいただいたら、十日のうちにこちらから返す。品は同じ格のものを選び、こちらが上等すぎても失礼になります。相手の家の当主が代替わりしていれば、宛名の書き方も変わります。そういうことは、家ごとに違います。
春の返礼は、三軒で二十日を過ぎました。
女中頭に任せたのが間違いでした。あの娘は品を選ぶことはできますが、順番を知りません。格の高い家から先に返さなければ、後から返された家は、自分が下に置かれたと受け取ります。
誰も口には出しません。次の季節に、招待が来ないだけです。
デルフ侯爵家には、三軒のうちで最後に返しました。あの家は、去年の秋にも園遊にお招きくださっています。返礼の箱を運ばせたのが二十二日目で、季節の花が終わったあとでした。
レインには、招待の話はしておりません。
薬の話で頭がいっぱいのようですし、こちらの数え違いのように聞こえるのも困ります。息子は、数の話を持ち出すと必ず理由を尋ねます。理由を並べているうちに、こちらの采配の話になります。
その日の午後、階下の食料庫を見に行きました。
膝のことがありますから、階段は使いません。厨の女に頼んで、乾物の箱をいくつか上へ運ばせました。運ばれてきた箱の蓋を開けて、匂いを見ます。
厨の女は、三つ目の箱を運ぶときに一度、袖で額を拭きました。
一つ目の箱で、指が止まりました。
干した果実の袋の口が、湿っています。紐の結び目のところだけ、麻の色が濃くなっておりました。袋の底を持ち上げると、粉のようなものが落ちます。
紙の上に払い落として、灯りを近づけました。粉ではありません。小さな虫です。動いております。
袋を戻して、指を布で拭きました。それから、残りの箱も開けさせました。四つのうち、二つが同じです。
厨の女は、青くなって黙っておりました。
「いつからです」
「存じません」
「箱を運んだ者は」
「五月に入ってから、下は誰も」
誰も、と言われて、わたくしは黙りました。あの食料庫の風通しは悪くありません。石の床で、北向きです。ただ、夏に入る前に品を上の棚へ移す決まりがありました。決まりというより、そういうものだと聞いていた話です。誰が決めたのかは知りません。
移す日を、今年は誰も言い出しませんでした。
夕方になって、書斎から帳面を持ってこさせました。
家政の帳面です。二年前まで、この屋敷では嫁が持っておりました。わたくしは膝を悪くしてから、鍵の束と一緒に渡しております。渡したあとで開いたことは、一度もございません。
必要がなかったのです。届くものは届き、返すものは返っておりました。手が止まらなかったのですから、気づきようがありません。
表紙は擦れて、角が丸くなっていました。開くと、紙の匂いがします。
最初の頁は、月ごとの支度の一覧でした。年初に何を買い、何を人に頼み、いつ返礼を出すか。二枚目から、季節ごとに分かれています。
三月の頁に、こう書いてありました。
デルフ侯爵家、返礼は必ず先。当主の代替わり後、宛名は現当主。前当主の名を残すと角が立つ。
読んでから、しばらく頁を持っていました。
代替わりの話は、わたくしも知っております。知っておりますが、返礼の順に関わるとは考えたことがありません。順というのは、格で決まるものです。それを、この頁は具体の名前で書いてありました。
次の頁には、屋敷の乾物の移し替えの日付が並んでいます。五月の第二週。虫のつく前に上へ、と一行。
その一行の下に、去年の日付が足してありました。一昨年の日付も。書き足された順に、少しずつ字が小さくなっています。
五月の第二週というのは、今月の話です。今月の第二週は、もう過ぎております。
わたくしは頁を繰りました。
薬草の頁を探しましたが、見つかりません。品の名も、飲む量も、煎じる時刻も、どこにも書かれておりません。
ゲオルクを呼びます。
「家政の帳面に、薬の頁がありません」
「そちらは、帳面には」
「では、どこに」
ゲオルクは、少し間を置いて答えました。
「先の奥様が、覚えておいででした」
覚えておいででした、という言い方をしました。
「二年、どうしていたのです」
「春と秋に、荷が届いておりました」
「誰の手配です」
執事は答えませんでした。答えないというのは、答えを持っているということです。この男は、知らないことについては知らないと申します。
「セラフィナさんですね」
「はい」
「代金は」
「そこまでは、伺っておりません」
伺っておりません、というのも、この男の言い方です。
わたくしは帳面を閉じて、膝の上に置きました。
家政は誰にでもできます。そう申しましたのは、わたくしです。
二年前の春、応接室でそう申しました。血筋のことですから、あなたに落ち度があるという話ではありません、とも。あのとき、あの人は羽根ペンの先を直しながら聞いておりました。何も言い返しませんでした。
言い返されていれば、こちらも一つくらいは覚えていたでしょう。
膝の上の帳面は、思っていたより重うございました。八十枚ほどの紙と、革の表紙です。それだけの重さです。
夜になって、レインを呼びました。
「ゲオルクを港へやりなさい」
「手紙は出しました」
「手紙は、あなたの字です」
息子は黙りました。
「あの人は、あなたの字の手紙を二通受け取って、二通とも返していません。三通目を出すおつもりですか」
息子は、二通目はまだ着いたばかりだと申しました。着いたばかりでも、返す人は返します。あの人は、朝のうちに返礼を片づける人でした。
「では、誰の字なら」
「字の話ではありません。人を出すのです。人を出せば、こちらが困っていることが伝わります」
そう申しましたが、伝わったところでどうなるかは、わたくしにも分かりません。
ゲオルクなら、二年のあいだの荷のことを知っております。知っている者を出すというのは、こちらの手の内を見せることでもあります。
レインは、承知しました、とだけ言って書斎へ戻りました。
わたくしは灯りを近くへ引き寄せて、もう一度帳面を開きました。
三月の頁から、十二月の頁まで、全部で八十枚ほどあります。買い付けの覚え、人への頼み、返礼の順、家ごとの好みと苦手な品。婚礼の年から始まって、二年前の春で終わっています。
最後の頁の途中で、字が切れておりました。書きかけの行の先には、何も足されておりません。その先を続ける者が、この屋敷にいなかったということです。
途中で人が替わった様子はありません。
帳面の頁は、どこも同じ字で埋まっておりました。




