第6話 ひとつの部屋で
屋台街は、表通りからはやや離れた路地の奥にあった。歩いているうちに徐々に日が沈み、辺りが少しずつ暗くなってくる。周囲の建物は、外壁が剥がれた古いビルや、違法に増築されたアパートばかりになり、すれ違う人々の肌の色も、徐々に有色のものが増えていく。やがて橙の吊り下げ電球がちらほらと見え始め、食べ物の匂いと人のざわめきが近づいてきたかと思うと、唐突に視界が開けた。
そこは路地奥の吹き溜まりのような場所だった。薄汚れた幌と細い鉄骨で組まれた屋台が所狭しと並び、そこここに吊された電球がそれらを照らし出す。香辛料や肉、油など、いろいろな匂いが混ざりあい、点在する簡易机には、各々の食べ物を買い求めた人々が座っている。その肌はほとんどが黄色か浅い褐色をしており、着ているものも薄汚れた粗末なものが多い。だが貧した暗さはそこにはなく、ただ笑い、食い、時折酒を飲み、生きている者の顔がそこにはあった。そしてそれらを見ていると、セナは少しばかり、懐かしさと痛みに似たものを感じるのだった。
彼らはしばしば物珍しげな視線をエマに向けてきたが、隣にいるセナに気づくと、興味をなくしたように目を逸らす。さしあたり害意に晒すことはなさそうだと内心胸をなで下ろすと、セナはいつもの屋台に向かった。すると薄汚れた幌の下で、黄色い肌をした老爺が顔を上げた。
「おや、今日は少し、早いネ」
所々歯の抜けた口から、片言の言葉が投げかけられる。
「いつものやつ、二つ」
そう告げると、二つ? と首を傾げた老爺が、セナの隣にいたエマに気づいた。その目を丸く見開く。
「アレ、べっぴんなお嬢さんだネ。妹かい? それにしちゃあ、まったく似てないネ」
「妹じゃない」
「それじゃあ、娘かい? それにしちゃあ……」
「いいから早くくれ」
汚れた台に硬貨を置くと、老爺はハイハイーと言いながらそれを掴んで仕舞い込み、屋台の中の鍋に向かう。やがて、湯気を立てる簡素な器と割り箸が、台の上に二つ置かれた。セナはそれを受け取り、近くに点々とある簡易机に置く。椅子は運良く二つ空いており、申し訳程度に表面を拭ったそれに、エマを座らせた。
エマが、器の中を覗き込む。澄んだスープに浮かぶのは、薄く切られた肉と香味野菜、半透明の平たい麺だった。
「熱いので、気をつけてくださいね」
向かいに座り、割り箸を割って渡す。すると受け取ったエマが、どこか不思議そうにそれを見つめた。
「この棒で、食べるのかしら?」
その言い方に、セナはもしやと思う。
「箸、使ったことないんですか?」
「これのことかしら?」
「はい」
「ええ、そうね」
あの家は洋食文化だけだったのかと、今更に思う。確かに自分もこの街に来て屋台街に入り浸るまでは、箸など使ったことはなかったが。
席を立って屋台の方に行き、老爺に声をかける。フォークの類がないか尋ねたが、そんなものないヨと一蹴された。仕方なく戻って座ると、エマが言った。
「これは、どうやって使うのかしら?」
「ええと……」
セナは自分の手を見せ、箸の持ち方を教える。だがエマも器用なもので、数回動かしただけでものを掴めるまでになっていた。
エマが箸で麺を一本だけ掴み、口へ運ぶ。啜るという概念がないのか、少し食べづらそうだったが、咀嚼して飲み込むと、また一本を器の中から拾い上げた。特に食べることをやめない様子から、昼間同様、口に合わないという事態は避けられたのだろう。
ほっとしつつ、セナも食べ始める。だがいつもの癖で流し込むように食べたので、五分とかからないうちに食べ終わってしまった。
エマは途中から拾い上げる本数を増やしていたが、相変わらずゆっくりと食べているので、器の中はほとんど減っていない。それを眺めながら、さてこれからどうするかとセナは思案した。
どこか寝泊まりするところを探さなければならないが、下手な安宿になどエマを泊まらせることはできない。かといって彼女の身分に合うような高級な施設は、自分の懐がもたない。となると、適度なところで我慢してもらうしかなさそうだった。
そんなことを考えていると、食べる手を止めたエマが、中身が半分以上残った器を差し出してきた。
「満足したわ。あとは、貴方が食べてちょうだい」
「腹、膨れてますか?」
思わず尋ねるが、エマはええと答えた。昼と夜の分を合わせても、一食分にすらなっていない気がするのだが、極端に少食なのだろうか。
渡された残りを流し込み、食器を老爺の元に返す。辺りはすっかり暗くなっていた。
「暗いので今日はもうホテルに向かいますが、いいですか?」
「ええ」
行き先を任せているからだろう、エマはセナの半歩ほど後ろをついてきた。だがやはり歩幅の違いは大きく、気を抜くと距離が空いている。セナは度々振り返りながら、屋台街から少し離れたホテルに辿り着いた。
入り口前で、エマがホテルを見上げる。
「もっと安いところでも、構わないけれど」
「そういったところはセキュリティに不安が残ります」
自分一人ならまだしも、エマを連れてなど以ての外だ。
促して中に入り、フロントで部屋を確認すると、幸い空きはいくつかあった。
「じゃあシングルで二部屋――」
そう言いかけた時、後ろから声がした。
「一部屋でも、構わないわ」
振り返ると、少し後ろで待っていたエマが、セナを見上げていた。その表情は相変わらず、なにを考えているのかわからない。
「そういうわけにはいきません」
セナは窘める色をはっきりと声に乗せたが、エマの表情は変わらない。
「あの人が、信用するほどなのだから、貴方に問題はないのでしょう? それに、別々だと、貴方も大変なのではなくて?」
あの人、というのは、当主である父親のことだろう。確かに別の部屋となると、自分の呪術では、万が一の時の対応に遅れが出かねない。だがそうだとしても、さすがに承伏しかねる内容だった。
「いけません」
セナは重ねて言うが、言った傍から、なんと返されるか予想がついてしまっていた。そしてエマは言った。
「わたくしがいいと言っているのよ」
セナはもはや隠さずに溜め息をついた。
「お父上に知られたら、俺の首が胴から離れます。……文字通りの意味で」
「問題ないと思うわ」
「ないわけないでしょう」
「なぜ?」
なぜって、あなたは人柱の役目を負っているんですよ、と言いたかった。人柱に穢れなど、決してあってはならない。もちろんセナはエマを穢そうなどと思ってもいないが、もし同じ部屋で眠ったことが当主に知られたら、あらぬ疑いをかけられることは必至だ。どういう処分を受けるか想像もつかない。
だがエマの役目は秘されたものであり、この場所でそれを口にすることはできなかった。だからせめて、人柱でなくとも問題があることをセナは伝えることにした。
「あなたは女の子なんですよ」
エマの薄水の瞳が、まっすぐにセナを見つめる。その表情はなんら変わらない、と思っていたが、そうではなかった。ほんの僅かだが、不思議そうに、こちらを見つめている気がした。
なぜそんな表情を浮かべているのかはわからなかったが、どちらにしろ、これで理由は充分なはずだった。セナは改めてフロントに伝えようとエマに背を向けたが、口を開こうとした時、差し込むように後ろから声が上がった。
「わたくしは、構わないわ」
開こうとした口が閉じる。もう一度振り返ると、感情の読めない顔に戻ったエマが、傍まで歩み寄ってきた。そして改めて、近い距離からセナをまっすぐに見上げる。
「わたくしがいいと言っているのよ」
小柄な少女の、もう何度も繰り返されたその言葉に、セナはその時、不可思議な圧力を感じた。表情は変わらない。声音も静かなままだ。エマと呼び捨てろと言った、あの時とも違う。逆らうことを許さないとまでは言わない、迫力などもない、だが意識外に圧するなにかを感じた。それがなんであるか捉えようとした時、フロントの方からいよいよ声がかけられてしまい、セナは慌てて向き直った。
だがその瞬間、捉えかけていたものは霧散してわからなくなってしまった。捉えなおそうにも、もはや形もわからない。
気にはなったが、さしあたりは部屋を決めなければいけなかった。これ以上時間をかけて、変に印象に残るのも避けたい。それでも同じ部屋で眠ることに抵抗はあったが、エマの様子からすると、どうあっても承諾されない気もした。
セナは諦めるようにひとつ息をついて言った。
「ツインで一部屋」




