第33話 セナの血
「まだ倒れないのか。頑丈な奴だな」
男の声が頭上から降ってくる。痛みに耐えながら顔を上げると、ふいに額に、男のナイフの柄が触れた。
「なるほど、これがお前の型か」
すぐさま払いのけるが、既に遅い。力の型を読まれた。
ナイフに呪を滑らせた男の視線が、辺りをゆるりと眺めたあと、ある路地を見つめて止める。
「あっちだな」
セナはすぐさまその脚をめがけてナイフを薙ぐが、簡単に避けられた。男はそのまま悠然と路地に向けて歩き出す。
「待て!」
声を上げるが、男は振り返りもしない。
止まらない血に、寒気に似たものが這い上ってくる。。セナは足を引きずりながら必死であとを追った。だがゆっくりと歩くだけの男に追いつくことができない。男の姿が路地に消える。やがてあと一歩で辿り着くという時、神経が擦れるような、痛みに似た感覚が走った。
結界が壊された。
セナは懸命に足を動かし、路地へ曲がる。すると同時に、なにかが弾けるような音とともに、男が小さく呻き声を上げた。見えたのは、手袋ごと切り裂かれ、無数の裂傷が走る右手を押さえてたたらを踏む男と、その傍で、驚いたような表情をしつつも無傷のエマだった。
護符か。思うと同時、セナは男に向かって全力で距離を詰めて体当たりをした。
予想外の衝撃に弾き飛ばされた男が、地面に倒れる。だがセナもまた、痛みのあまりそのまま地面に倒れ込んだ。
よろよろと体を起こした男が、血まみれの手袋越しに、切り裂かれた手を押さえつける。セナを振り返ったその顔には、驚愕と焦り、苛立ちが混じっていた。
「ふざけるなよ。なんで近接型がこんな強い護符を使えるんだ。ありえないだろうが」
さしあたり右手は使い物にならなくなったようだった。だがそれで終わるわけもなく、男の視線が落としたナイフに向けられる。体を伸ばしナイフを拾おうとする男に、セナは歯を食いしばって上体を起こすと、脇腹を押さえ続けて血まみれになった手で、男の目元を掴んだ。そのまま地面に押し付け、再びその体を引き倒す。
「くそっ、離せ……!」
もがいた男がセナの手を掴んで引き剝がす。そのまま腕で目元を拭いながら体を起こして立ち上がり、後退して距離を取った。だが腕をどけ、再びこちらを見た瞬間、男の顔が怪訝に曇った。
「……どういう、ことだ」
見開かれた目はセナの方を見ているが、セナ自身を見てはいない。
「お前、なにしやがった。いや、呪なんてかけられないはずだ。なのになんで……!」
動揺もあらわに、必死にセナの方を睨みつける男に、セナはウエストバッグにしまっていた治癒の札をありったけ脇腹に貼り付け、肩で息をしながら答えた。
「なんにも、見えないだろう」
脇腹に張った札が、見る間に血に染まっていく。もはやそれは、ただ血を吸うだけの紙切れに成り下がっていた。
ふらつく足で立ち上がるセナに対し、男は必死に暗闇に向かって目を凝らしていた。だが街灯ひとつないこの場所で、暗視の呪に頼り切っていた目では、なにも見えないはずだった。
「俺がどういう一族か、教えられてなかったんだな。お前も結局は、ただの捨て駒だったんだ」
男がとっさに暗視の呪をかけなおす。だがその時には、セナはすでに目の前にいた。
突き出されたナイフが歯を砕き口内に突き刺さる。そのまま呪を滑らせ、ナイフを引き抜くと同時に下がると、男は大量の血を吐いて崩れ落ちた。
痙攣していた男が、やがて動かなくなる。それを視界に収めながら、セナは改めて周囲に向け、慎重に意識をやった。だが、新手が来る気配は感じられなかった。
振り返って、エマの様子を窺う。やはり体のどこにも怪我は負っていなさそうだった。だがその顔は、今にも泣きだしそうに歪んでいる。感情表現が豊かになるのはいいが、そういう類のものは見たくないな、と思った瞬間、体が地面に倒れていた。
「セナ!」
悲痛な叫び声が響いた。だが視界は随分暗くなっており、暗視の呪が解けかかっているのか、失血のせいかはもうわからなかった。
「わたくし……どうしたら……どうしたらいいの……」
エマが震える声で言う。意識は今にも飛び去りそうだったが、その前にやっておかなければならないことがあった。
傍らに屈み込むエマに手を伸ばす。血に濡れた指先で触れたのは、エマの首につけられたチョーカー、その赤い石だった。
触れた途端、ぴしりと軽い音を立てて石が割れた。続けて鎖がちぎれ、首から外れたそれを手に取ると、セナはほっと息をついて手を下ろした。エマが驚いたような表情で、己の首を触る。
セナの一族の血の、最も強力で最も秘されるべき能力、それは、血そのものであらゆる呪が解けることにあった。そしてその血の為に、セナの一族は絶滅寸前にまで追い込まれたのだった。
加えて、これほど強力な呪具の破壊は、呪具を作った主に対して、破壊されたことが明確に伝わる。これであの男は、ぬるい追っ手を差し向けることなど、二度としなくなるだろう。
だがそれらをエマに説明している余裕はなく、セナは必死で口を開いた。
「ジュリエットの……家までの道は……わかりますか……」
「ええ……」
「では……あなただけでも戻ってください……。これ以上の追っ手が来ないとも、限りませんから……」
「貴方は、どうするの」
震える声が、僅かな険しさを帯びる。
「あとで……追いかけます……」
酷い嘘だと思った。そしてそれは、やはり見え透いたものであるらしかった。
「なら今、一緒に行きましょう」
「俺は……少し休んでから向かいます……」
今はとても、動けそうになかった。全身が酷く重く、寒かった。
するとふいに、両の頬に、ひんやりとしたものが触れた。エマの手がセナの顔を包み込み、自分の方に向けていた。
ぼんやりとした視界の先に、泣きそうな顔をしながらも、セナをまっすぐに見つめるエマが見えた。
「エマが教えてあげる。貴方はこんなところで死んだりしない。わたくしを連れて、一緒にジュリエットの家に帰るのよ」
できることなら、そうしたかった。そんなことを思いながら、セナの意識は完全に閉ざされた。




