第32話 白肌の犬
エマは小さな布包みを持っており、その中には札や簡素な呪具がいくつか入っていた。ジュリエットが持たせてくれたということだったが、それ以上に聞きたいことがあった。
「どうやってここまで来たんですか。いえ、どうやってあの家を出たんですか。あいつには絶対にあなたを家から出すなと、強く言ってあったはずなんですが」
するとエマは、どこか気まずそうに俯いた。
「……呪を、使ったの。彼女の名前も入れて」
その言葉に、セナは軽い驚きとともにエマを見つめた。ジュリエットは決して約束を違えない。エマがどれほど頼み込んだところで、それを容れることは絶対になかっただろう。それゆえにエマは呪を使ったのだ。だがこの様子を鑑みるに、決して安易に使ったわけではないのだろう。そしてその易くはない決断をさせたのは、間違いなく自分のせいだった。
受けた呪いは重く大きなものだったが、帰せないものではなかった。両腕が折られる前には帰せるだろうと思っていたが、エマはそれを知らず、カメラ越しに見ていたのは、呪いを受けて腕を折られ、膝をついている自分だけだ。そんなもの、心配するなという方が無理な話だった。いっそモニターのある部屋から出させておくべきだったかと思うが、もう遅い。
ほとんど麻酔に近い役割の札を腕に貼り付けている間も、エマは俯いたままだった。どう言葉をかけるべきか迷った挙句、セナは話題を変えることにした。
「彼女から渡されたのは、この布包みだけですか?」
エマは首を振った。
「いいえ……」
そう言ってポケットに手を入れ、折りたたまれた札を取り出して開く。
「これを、持っていなさいって。一度だけ、あなたを護るからって」
それは護ることに特化した札、護符だった。しかも随分と高価なものだ。呪具や痛み止めの札もそうだが、いったいどういう風の吹き回しなのか。エマの口調からしても、命じたわけではないだろう。約束を違えることになったことへの、せめてもの埋め合わせだろうか。
「では、それを肌身離さず持っていてください」
向こうがこれで諦めるとは思えない。新しい人柱を作って術式を成功させなければ、無二の呪術師としての立場も揺らぐ。奴らは躍起になってエマを殺そうとしてくるだろう。手段を選んでこない可能性もある。そうなった場合、自分はエマを護りきれるのか。今からでもジュリエットの家に戻すか――。
まとまりきらない思考を遮ったのは、新たな人の気配だった。隠すこともしないそれが、ゆっくりと近づいてくる。
やがてなにかを嗅ぐように鼻を鳴らす音がし、ひょうきんとも取れる高い男の声が聞こえてきた。
「血の臭いがするな。なるほど手傷を負っているのか」
エマが身を固くする。血ならそこらじゅうの路地に広がっているだろうが、嗅ぎ分ける獣じみた嗅覚に、セナは少々嫌な予感がした。そうした動物的な特質は、得てして近接型のものであることが多い。手段を選んでこないだろうとは思ったが、とうとう忌避している近接型を差し向けることにしたのか。
セナは布包みから呪具を取り出すと、エマの周囲に置いて即座に呪を滑らせた。
「なにがあっても、決してここから動かないでください。わかりましたね?」
不安げに見上げてくるエマが、ゆっくりと頷く。セナは背を向けると路地を走り、気配のある方へ飛び出した。
果たしてそこにいたのは、全身を白い衣服で包んだ男だった。詰襟の首元に、手には手袋をしている。暗闇に浮かび上がるようなその様子だけで、先ほどまでの追っ手とは違う雰囲気を感じた。
肌の色は浅黒く、いくらか鍛えられた体つきをしている。同族ではないが、系統の近い呪術師だろうことが察せられた。
「お前が、犬か?」
だしぬけに男が言った。それは屋敷で散々に聞かされた蔑称だった。黙したままでいると、男はセナの全身を眺めまわして言った。
「随分と満身創痍だな」
かと思うと、辺りをきょろきょろと見回す。
「お嬢さんはどこ行った? まとめて死体にしろと言われてるんだが」
だが元より答えは期待していなかったのか、そのまま視線をセナに戻す。
「まぁいいか。どうせお前が呪をかけてるんだろうし、お前を殺して残滓を辿ればいい……なっ!」
男が予備動作なく踏み出してきた。その手にはいつのまにか小振りなナイフが握られており、右腕を強襲したそれを、セナは体を捻って避けた。折れたままの右肘に鋭い痛みが走るが、顔をしかめる程度で済ませる。
流れるような動きで次々とナイフが繰り出され、セナはそれを、紙一重で避けていった。呪を使っている様子はない。近接型同士の戦いではよくあることだった。これもまた、呪術師らしからぬと、遠隔型に蔑まれるゆえんのひとつだった。
隙を縫って時折攻撃に転じるも、消耗の影響は無視できず、鈍った切っ先は男を捉えることができない。逆にセナの方は徐々に浅手が増えていった。そしてついには避けきれず、その刃をナイフで受け止めた。
乗せられた重さに、足が僅かに地面を削る。男はその顔に軽薄そうな笑みを浮かべると、実に軽い調子で言った。
「お前さ、なんで白肌の犬なんかやってんだ?」
セナは切っ先に神経を集中させながら、久しぶりに聞く呼び名だと、そう思った。殊更に侮蔑の意味合いはないが、肌に色を持つ呪術師の一部は、こう呼んで、自分たちと肌の白い呪術師を区別する。そこには彼らなりのプライドがあるらしかった。
「答える義務はない」
そう言うと、男はふっと笑った。
「ようやく喋ったな。声を封じられでもしてるのかと思ったぞ」
「お前こそ、なんで白肌に従ってるんだ?」
あえてそう呼んだのは、彼らのプライドに問いかけたからだった。白い肌の呪術師達が色のついた肌の呪術師を嫌うように、彼らもまた白い肌の呪術師をよくは思っていないはずだった。セナの一族がそうだったように。
「金になるからだよ」
男はさらりと答えた。
「奴ら近接型に対して有利を取れないのはわかってるくせに、ろくに対策を取ろうとしない。それそのものが屈辱だと言わんばかりにな。だからその辺りの仕事を俺が請け負ってやってるのよ」
「遠隔型に防御の呪を入れたのもお前か」
「ああ。あれどうなった? まぁお前が生きてる時点で失敗だったんだろうが」
心の奥底が、僅かにさざ波を立て、消えていった。そんなものが起きたことに、セナは自分のことながら違和感に似た驚きを覚えていた。
呪術師が人を物のように扱うのは、別段珍しいことではない。セナがただの駒であるように、エマが人柱であるように、有用か否か、使えるか否かという、合理的でまっとうな判断のもとに、すべてを動かしていく。セナ自身、人間を形代代わりにする一族の呪術に、さほどの感情も持ってはいなかった。エマが見ているなら、また怖がらせてしまうのではないかと、そう思った程度だ。
だからこのさざ波は、酷く不可解なものだった。それは自分が、ただの駒から逃げ出そうとしているからかもしれなかった。
「まぁあんまりお喋りしてるのもよくないか。遅くなるとうるさそうだしな」
刃の重さが増した。強く弾かれ、体勢が崩れる。男が瞬時に屈み込み、手にしたナイフをセナの脇腹に突き刺した。痛みに顔をしかめる。セナはそのまま男の脳天にナイフを振り下ろそうとしたが、それより早く、男は身を引きながらナイフを横薙ぎに払った。
深く裂かれた腹から大量の血が溢れる。耐えきれずセナはその場に膝をついた。




