第31話 エマが命じるわ
セナの腕があり得ない方向に折り曲げられるのが、モニター越しにはっきりと見え、エマは小さく息を飲んだ。
呪いを受けたセナはぐったりと膝をつき、抵抗するそぶりすら見せない。以前のように呪いを返さないのは、受けた呪いが大きすぎるせいなのか、それともまた別に原因があるのか、エマにはわからなかった。追っ手側の男がなにかを言っているようだが、音声がない為にそれもわからない。
エマは思わず、隣でモニターを見つめるジュリエットを振り返った。
「助けることは、できないの?」
だがジュリエットは静かな表情でモニターを見つめたまま、振り返ることもなく答えた。
「契約にないことはしないわ。手助けすることは含まれてないもの」
その返答に、エマは自分の心がざわめくのを感じた。ジュリエットが、酷く冷たい人間のように思えた。だがセナは彼女のことを、金を積めばなんでもする女と言っていた。逆に言えば、得られるものがなければ決して動かないのだろう。対価の分だけ動くというその考えは、エマにとって理解できないものではなかった。
しかしそうなると、ジュリエットを動かすには、なにかこれ以上の対価を与えなければならない。エマはジュリエットに与えられるものをなにひとつ持っていなかった。だがただひとつ、使えるものは持っていた。
エマは外のことを知らない。どういう生き方が正しいのかもわからない。だがセナを助ける為には、自分も使えるものを使うしかないと思った。
エマは心を落ち着かせるようにひとつ静かに呼吸をすると、改めてジュリエットを見つめた。
「彼のもとに、行かせて」
「聞けないわ。今あなたをここから出したら、あいつとの契約を半分反故にすることになるんだもの」
やはりその返答はにべもない。だが予想できていたことでもあった。エマはためらいを振り切って、それを口にした。
「貴方、わたくしの名前をご存じ?」
するとジュリエットが振り返り、薄く笑んだ。
「いいえ?」
その言葉が本当かどうかはわからない。その笑みは、こちらの様子を楽しんでいるようにも見えた。だが、次に言うべきことは決まっていた。
「わたくし、エマ、というのよ」
しっかりと、刻み込むように。
そしてエマはひとつ瞬きをすると、ジュリエットをまっすぐに見据えて言った。
「エマが命じるわ。ジュリエット、わたくしをこの家から出して」
しばしの沈黙が落ちた。ジュリエットの顔から、すっと笑みが消える。
効かなかったのだろうか、と思った。セナに対してはある程度の精神の侵食が進んだあとだった。だがジュリエットに対しては精神の侵食もできておらず、彼女の呪術師としての能力も未知数だ。となると効かない可能性の方が高いが――。
そんなことを考えていると、ふいにジュリエットが表情をやわらげ、ふぅ、と溜め息をついた。
「なるほど、やっぱりこういう呪術だったわけね。しかもあたしの名前まで入れるなんて、念の入ったこと」
なんの動揺もない様子に、エマは落胆を覚えて肩を落とした。やはり自分程度の練度では、効果を及ぼすことができなかったのだ。だがそんなエマをよそに、ジュリエットは肩をすくめて続けた。
「悔しいけど、弾き返せないみたい。これ、偽名なのにね」
その言葉に、エマは俯きかけていた顔を上げた。
「じゃあ……」
「行かせてあげるわ。まったく、恐ろしいお嬢様ね。偽名で呪を通すなんて」
呆れたような口調で、ジュリエットが言う。その顔に浮かべた笑みは、どこか猫のようだった。
それは咀嚼音とでも呼ぶべきものだった。
最も近い形状は熊かもしれないと、呪いの余韻による嘔吐感を飲み下しながらセナは思った。
膝をつき、折れた肘を庇いながら、巨大な獣の形をした呪いが、追っ手の男達を食っていく様を見ていた。
骨が折れる音、肉がちぎれる音、それらに人のものとは思えないような絶叫が混ざり、呪いはそのすべてを食っていた。それを見つめながら、エマはモニター越しにこれを見てしまっているだろうかと、重くだるい頭の中で思った。
右肘が折られ、それでもなおエマの行方を答えないセナに、左肘も折られようとした直前、唱え続けていた詠唱が終わり、呪いが主の元へ返っていった。
呪いを放った男は周到に、帰ってきた呪いを収める形代を持っていたが、帰された呪いの規模を見誤っていたのか、それは形代に収まらず、男を襲った。そして呪いはそれだけに飽き足らず、周囲にいた追っ手の男達を食い始めたのだった。
逃げる男達を、呪いはもやのように体を広げて絡めとり、抱き込むようにして食っていった。規模の大きな呪いは、帰った先の主を食うだけにとどまらず、周囲にその手を広げると聞いたことはあったが、実際に目にするのは初めてだった。
やがて悲鳴が消え、食うものがなくなった呪いが、霧散して消えていく。こちらを食う前に満足してくれたようだった。
大量の血だけを地面に残し、辺りが幾度目かの静寂に包まれる。
一度どこかに身を隠して、右腕をなんとかした方がいいだろう。そう思い立ち上がったセナの耳に、走るような足音が近づいてくるのが聞こえた。だが妙に軽い。追っ手のような、成人した男のそれではない。もっと軽い体重の――。
足音の先に顔を向ける。路地から飛び出してきたのはエマだった。
「エマ?!」
思わず声を上げる。すると傍まで来たエマが、セナの体の傷や折れた右腕を見て、その顔を曇らせた。そしてそのまま周囲を見回すと、セナを見上げる。
「追っ手は?」
心配と不安とをないまぜにしたエマの、初めて見るような切迫した様子に、セナは気圧されるように答えた。
「対峙していた者達は、全員死にましたが……」
「なら一度、どこかに身を隠しましょう。彼女に、痛みをやわらげる札を、借りてきたわ」
聞きたいことは山のようにあった。だがやはり今は身を隠すことが先決と考え、セナはエマの手を引くと、狭い路地へと入っていった。




