第34話 幸いを願う呪
* *
古びたモニターが放つ光が、薄暗い部屋の中を照らしていた。
吐き出された紫煙が、ゆっくりと部屋の空気に溶けていく。ジュリエットはそれを、なんとはなしに眺めていた。
家の中はすっかり静かになり、各部屋から伝えられるスピーカーを通しても、もうなにかが聞こえてくることもない。あるのは傍に置かれたパソコンが立てる、冷却ファンの音だけだ。
「静かになったわねぇ……」
口に出すと、静寂がなお強調されるような気がした。
過ぎてみれば、あっという間の数日間だった。紫煙を見つめながらふいに思い出したのは、馴染みの男が連れてきた少女のことだった。
随分懐いている、というのが最初の印象だった。護られることしかできないお嬢様だと思っていたが、まさか己の身を危険に晒してまでして助けに行こうとするとは、思いもよらなかった。
「ちょっと甘く見てたわね」
思わず笑みが漏れる。そして続けて思い出したのは、彼女に持たせる札を用意しがてら、興味本位で尋ねたことだった。
――そうやって呪を使って、あいつに言うことを聞かせてきたの?
あの男は偽名を名乗っただろうが、偽名で呪を通せるとなると、名乗った時点でそれはもう支配下に置かれているのと同じだ。そもそもそれだけ強い力を持つのなら、言霊だけでなにかを命じることもできたかもしれない。少女がどこか不自由そうに話すのも、それ故に慎重に言葉を選んでいるか、言葉を制限するよう言われ続けて育ったかのどちらかだろうと思われた。
だがそう尋ねたジュリエットに、少女は首を振った。
――いいえ。彼に命じてなにかをさせたことは、ないわ。
――でもあいつの名前を呼んでたんなら、支配下には置いていたんじゃないの?
だがそう言ったジュリエットに、少女は俯くと、ぽつりと言った。
――名前は、呼んだことはないわ。
――どうして?
乏しい表情の中に一瞬だけ垣間見えたのは、寂しさだったのだろうか。すぐさま掻き消えてしまったそれは、なにを意味していたのか。
――だって、支配してしまうかもしれないもの。わたくしは、彼を利用してここまで来たのかもしれない。けれど、支配したいわけじゃない。……支配したくない。
酷く苦しそうに、少女は言った。それは深い後悔の色だった。すでにあの男に対して、なんらかのものを施してしまったのだろうと思われた。
そしてジュリエットは、彼女に護符を渡した。麻酔や治癒の札を持たせたのは軽い埋め合わせで、でもそれだけのはずだった。出会ったばかりの少女が死のうが生きようが、一銭にもならない以上、どちらでも構わないはずだった。
「お金にならないことをしたのは、久しぶりだったわね」
目をやったのは、机の端だった。そこには、血の拭われたチョーカーが置いてある。持ち主はもう、ここにはいない。
* *
携帯電話が震えた。随分久しぶりの感覚だなどと、どこか乾いた意識で思う。暗がりで光るディスプレイに表示されているのは、いつもの相手だった。
通話ボタンを押して、耳に当てる。
「おや、出ないかと思ったよ」
低く嗄れた声音は穏やかで、いつもと変わらないように聞こえる。黙したままでいると、相手は気にせず続けた。
「従順だったお前がこんなことをするとはね、少し驚いたよ。なにがあった?」
なにが。なにがあったのだろう。自分はなぜこんなことを、当主を裏切るようなことをしたのだろう。
顔を上げ、離れたところでガラス越しの夜景を見つめている、小柄な後ろ姿を見つめる。
桂花タワーの展望フロアだった。
いつもとは違う服装をしたその姿を見つめながら、自然と口が動いた。
「外を、見せたかったんです」
相手はしばらくなにも言わなかった。自分の言葉を、どう思ったのだろう。だがやはり、胸の裡など知れたためしがないので、わかりようもなかった。
「わかっているんだろうな?」
相手はそれだけを言った。
「はい」
だからセナも、それだけを答えた。だがふいに思い立ち、ひとつ言葉を続けた。なぜそれを口にしようと思ったのかは、自分でもわからなかった。
「お世話になりました」
受話口から、フッと小さく笑う声が聞こえた。それがどういう意味のものだったのかわからないまま、セナは携帯電話を耳から話すと通話を切った。そしてそのまま電源を落とし、傍らの屑入れに投げ捨てる。元よりジュリエットが加工していた為に、追跡ができないようにはなっていたが、どうあれ、この先には必要のないものだった。
静かに夜景を見つめ続けるエマの傍に行く。大きめのキャスケットに髪をしまい込み、男物の服を着た彼女は、一見すると小柄な少年のようだった。
「きらびやかね」
照明が減らされたフロア内は暗く、その顔は夜景の明かりに薄く照らされている。
「この街の多くの人に、罪がないとしても。このきらびやかさは、人柱の犠牲の上に、成り立っているのよね」
答えを求める風でもなく、エマは独り言のように続ける。
「前回の術式で捧げられた人柱は、わたくしの祖母に当たる人だと、聞いたことがあるわ。顔も、名前も、知らないけれど」
人の営みが放つ輝きを、エマは見つめ続ける。
「初めて貴方に出会った日、わたくしは、街を見たいと、言ったわね」
桂花タワーから景色を眺めたあと、大通りや、小売りの店が並ぶ路地や、公園、そこに暮らす人々を。
「これが、この街なのだと。この街に住む人々なのだと、初めて知ったわ。わたくしは、この人達の為に、死ぬのだと。わたくしが死ななければ、この人達が、死ぬのだと。街のすべてではないけれど、きちんと、目にしたつもりよ」
それでも。それを、見た上でも。
「この輝きを暗闇に変えてしまうわたくしは、酷いかしら」
答えを求めているのかは、わからなかった。だがセナは答えた。
「あなたがあなた一人の幸せを願っても、この街の誰一人、あなたを責めることはできません」
するとエマが振り返った。傍らに立つセナを見上げる。
「貴方も、責めないでいてくれる?」
その首には、銀の鎖に通された、黒い石の指輪が下がっている。石はひび割れ、もう護りの役割は果たさないのだが、エマはそれを外すことを拒んだ。
「答えるまでもありません」
「それでも、教えて……くれないかしら」
エマは言葉を選ぶようにそう言った。命じるように言えば、セナは答えるしかなくなるからだった。一度侵食したものを元に戻すことはできない。エマはそのことについて、酷く後悔していた。
「俺は、あなたを責めません」
だからセナは答えた。エマが命じなくてもいいように。これはちゃんと、自分の意思で言ったのだと、伝わるように。
エマが、じっとセナを見つめる。その瞳には、消えない陰りが宿っていた。それは、エマが最後に使った呪に起因するものだった。
近接型を仕留めたあの時、セナはもうここで死ぬのだろうと思った。そんなセナに、エマが泣きそうな顔で祈りのように呪を使い、それを最後に意識が途絶え、だがそのあとセナは、ジュリエットの家のベッドの上で目を覚ました。
歩いた記憶はなかった。かといって、エマが運べたとも思えない。あとでジュリエットに聞いたところによると、セナは自身の足で歩き、エマを伴って戻ってきたとのことだった。だが話しかけても応答はせず、玄関のドアを潜った途端、倒れて動かなくなったのだという。
だがセナにその記憶はなかった。可能性があるとすれば、エマの呪だった。
自分を連れて、ジュリエットの家に帰る。エマはそう、セナに教えた。それが暗示となって、セナの体を動かしたのだ。
だがそうだとすれば、恐るべき呪の強さだった。相手の意志どころか、その体がおよそ動かせる状態になくとも動かすのだ。まるで死体を操るように。
しかしそれを口にすることはできなかった。セナが目覚めてから――否、ジュリエットによると、セナが眠っている間もずっと、エマは泣き続けていたらしかった。
ごめんなさいと、エマはただひたすらに繰り返していた。セナに死んでほしくなかったが為に、人を人とも思わぬ呪を、セナ自身に使ったことに。二度と縛らぬと、己に誓ったのに。
だがセナに責める気持ちなどあるはずもなく、目覚めたあとは、泣き続けるエマをただなだめ続けた。生きて戻れたのなら、これからもエマを護ることができるのなら、それでいいと。長い、長い時間をかけて。
「ねぇ」
エマの声に、ふと意識を戻す。呼びかけてきたエマは、いつの間にか、再び夜景に目を向けていた。
「次は、どこへ行こうかしら」
問いとも独り言とも取れるそれに、返すべきか迷っていると、エマがこちらを振り向いた。問われていたのだった。
「行きたいところがあるのでしたら、お連れします」
「どこでも?」
重ねて問われて、セナはようやく気付いた。だから答えた。
「どこへでも」
するとエマが、泣きそうな笑みを浮かべた。希望のない旅路に、セナを道連れにすることに。それでもなお、捨て置けと、命じることをしなかったことに。
エマは命じなかった。ただひとつだけ、お願いを。呪を使わない、なんの強制もない願いを言った。
――貴方には、死んでほしくない。けれどわたくしの……傍にいてくれないかしら。
泣き続けたエマの、ただ謝り続けていたエマの、それでも譲ることのできない願いだった。そしてセナにとってそれは、叶えることなど容易い願いだった。
フロアの人々はまばらで、誰もがガラス越しの夜景を眺めている。こちらに気を留めている者は誰もいなかった。
セナはその場にひざまずくと、エマの手を取った。折れそうなほど細い指は、相変わらず冷え切っている。だがそれは、この先も自分が温め続ければいい。だから今使うべき呪は、あの時とは違うものだ。
唇に呪を滑らせる。それは、彼女のこれからの幸いを願うもの。すべての厄を、呪いを退け、いつか心からの笑顔を浮かべられますように。
セナはその指先に、そっと息を吹きかける。
end




