第3話 エマと呼んで
セナはゆっくりと唇を開き、それを口にした。
「エマ」
音はそれだけで通り過ぎた。なにかを支配した感覚はなかった。やはり偽名のようだった。
「なにかしら?」
エマが応える。それを聞いて初めて、当主の娘を呼び捨てにしてしまったことにセナは気付いた。真名か否かを確かめる、いつもの癖が出てしまっていた。
「すみません」
慌てて謝るが、エマの表情は変わらない。不愉快そうな色も見えなかった。
気分を害してはないのだろうかと思っていると、エマが胸に置いた手を、すっとセナの前に差し出した。青白い血管の浮いた手の甲に、セナはその場にひざまずくと、差し出された手を取った。
折れそうなほど細い指は、氷のように冷たかった。応接室は差し込む陽の光で暖かいはずだったが、エマばかりが一人、寒空の下にずっと立ち尽くしていたかのようだった。
自分とはまるで違う肌の色の、その指先に、戴くように額を近付け、静かに離す。儀礼通りの臣下の礼を終えると、頭上から静かな声が降った。
「呪を、かけてはくれないの?」
ひざまずいたまま顔を上げると、宝石のように澄んだ瞳が、なんの表情も見えぬまま、セナを見つめていた。
「わたくし、初めて外に出るのよ。旅の安全を願うような、呪を、かけてはくれないの?」
どこか不自由そうに喋るエマの、だが予想外の発言に、セナは戸惑いつつも返す。
「この家の方に呪をかけるのは、禁じられております」
セナはそのような立場にない。そもそもセナが扱う呪のほとんどは、誰かの命を奪うものだ。祝福を授けるようなものは、もっと別の、セナのように買われた存在ではない、この家の呪術師の役目だった。だがエマはにべもなく言った。
「わたくしがいいと言っているのよ」
高慢とも取れる静かな物言いに、セナは意外な思いでエマを見つめる。感情の希薄な大人しい娘かと思っていたが、内面はそうではないのかもしれない。
そんなことを思いつつ、改めて手元に目を落とす。呪をかけることはできなかったが、触れたままの、酷く冷えた指先が気になった。
セナは口の中で短く唱え、細い指先にふっと息を吹きかけた。旅の安全を願うものではなかった。冷えた指先を暖めるような、呪とも呼べない、母親が子どもにしてやるまじないに近いものだった。だがセナ程度の呪力があれば、まじない以上の効果をもたらす。それでも呪術を学ぶことを許されなかった彼女が、それと気づくことはないだろう。
そっと手を離し、立ち上がる。エマはしばらく俯いたままだったが、やがてぽつりと呟くように言った。
「……ありがとう」
涼やかに礼を告げるその声には、だがやはり、感情というものは見えなかった。
エマを連れてエントランスホールを出ると、車回しに黒塗りの車が止まっていた。いつもなら自分などが乗ることはないが、エマの護衛という名目があるからだろう、エマを後ろに乗せたあと、促されて助手席に乗る。そのまま敷地内を走ったが、門の手前で降ろされた。やはりここから先は、徒歩か別の交通手段になるものと思われた。
運転手の男から、後ろの収納スペースに入れてあったらしい、焦げ茶色の洒落たトランクケースを渡された。エマの手荷物だろうが、外泊でもするかのような大きさだった。まさかと思うも、男はなにも言わずエマに向き直り、深く頭を下げる。エマに対し、口を利くことを禁じられているかのようだった。
エマは男を一瞥もせず歩き出し、開かれた真鍮製の門の、同じく頭を下げている門番の間を抜けていく。小さく鳴らす靴音だけで門を潜っていくエマは、初めて出る敷地の外に、臆した様子も見えなかった。セナがその少しあとに続くと、やがて背後で門が閉まった。
敷地の周囲に立ち並ぶのは、大小のビル群だった。少し離れた大通りには車がひっきりなしに走り、そこここをあらゆる人種の人々が行き交う。香の代わりに漂うのは、排気ガスの臭いだった。
敷地からいくらか離れた辺りで、エマが立ち止まる。圧倒されているのだろうか、と思った。生まれてこの方、屋敷から一歩も出たことがないとされている少女である。そういえば、このあとはどこへ向かえばいいのだろう。外を見せるとのことだったが、どこかに行けと言われていない以上、彼女の要望に応じる形になるのだろうか。
「お嬢様」
呼びかけると、エマがゆっくりと振り向いた。
「どちらへ向かえばよろしいですか?」
そう尋ねるが、エマは相変わらず感情の読めない顔のまま、じっとセナを見つめてくる。どうしたのだろうと思っていると、やがてエマはゆっくりと口を開いた。
「エマと、呼んでいただける?」
唐突な要求に、セナは少し戸惑いつつも答える。
「わかりました、エマ様」
だがそう返すと、エマは少し語調を強め、区切るように言った。
「エマ、と、呼んでいただける?」
「当主のご息女を呼び捨てにはできません」
そう返すと、涼やかな声音に戻ったエマが告げる。
「わたくしがいいと言っているのよ」
応接室で言われたものと同じ言葉だった。セナの中で、高慢な娘という像が結ばれ始める。
呼び捨てることに抵抗はあったが、逆らうことはすまいと思った。従順であることが、この屋敷での自分の役目であり、それは彼女に対しても変わらない。
「わかりました、エマ」
そう返すと、満足したのか、エマは背を向けて歩き出した。セナは内心で溜め息をつきつつ、そのあとを追った。




