第2話 護衛対象
品のいいスーツに身を包み、年齢は六十を超えているはずだが、外見はそれよりいくらか若く見える。皺の少ないその顔には、常に崩されることのない穏やかな笑みが浮かべられていた。
机から数歩離れたところでセナが立ち止まると、男が再び口を開いた。
「次の仕事だ。お前に護衛を頼みたい」
「……護衛、ですか」
思わず反応が遅れた。セナが男に命じられるのはほとんどが殺しで、護衛の任など、この屋敷に来てから一度も命じられたことがない。第一に、セナの扱う呪術は、護ることに長けていない。
「一体、誰を」
戸惑いつつも返すと、男は言った。
「私の娘だ」
戸惑いが困惑に変わる。男に娘がいるのは知っていた。この屋敷で数十年に一度行われるとされる大がかりな呪術、それに人柱として捧げられる役目を持つ存在だ。その術はここ桂花街の安寧の要とされており、男の一族はその重責を担う存在として、一般の呪術師より位を上とする。
だが人柱である彼女は、屋敷から出ることを禁じられているはずだった。そしてそんな困惑は顔に出ていたらしく、男は言った。
「役目を果たす前に、一度外を見せてやろうと思ってな。なにも知らぬまま命を終えるのは、哀れだろう」
それは、娘を思う慈悲の言葉だった。だがおよそこの男から出てくる言葉とは思えず、セナは違和感を覚えざるを得なかった。こんな男でも、娘に対する情は持ち合わせていたのだろうかなどと、頭の隅で思う。
しかしなぜそんな大切な役目を、よりによって自分に任せるのか。浮かんだ疑問は、だが口から出てくることはなかった。セナは尋ねることを許されていない。男が求めるのは言われたことをただ従順にこなすことであり、そしてそれこそがこの屋敷でのセナの役割だった。
「……わかりました」
疑問を飲み込みそう返すが、男はそれを見透かしたように、その声に慈悲深さを被せた。
「お前を頼りにしているからだよ、セナ」
出てきたのは、いつもの台詞だった。ここに連れてこられた幼い当初は、その言葉を素直に信じ、その期待に応えようと頑張ったものだった。だが今となっては、自分を都合よく使う為の台詞に過ぎないということに気づいてしまっている。そのことに男も気づいているだろうが、そうなったところで変わるものなどなにもなく、自分は命じられた仕事をこなすだけだった。
「俺の他には誰が?」
さすがに一人ではないだろうと思い尋ねると、男はさらりと返してきた。
「お前一人だ」
セナは耳を疑った。
「俺一人、ですか?」
「そうだ。あまり目立ちすぎてもよくないのでな。なに、お前の腕なら問題はないだろう」
穏やかに続ける男に、セナはさすがにすぐ言葉を返すことができなかった。セナの呪術が護りに向いていないのは、男も充分理解しているはずだ。なのに、一人で護れと言うのか。
だがここでなにを言ったところでそれが覆ることはなく、そもそも自分に意見する権利などない。重い仕事になりそうだと思いつつ、セナは気持ちを切り替えるように言った。
「わかりました。出立はいつですか?」
「今日だ」
あっさりと告げられたそれに、再び言葉を失う。男は意に介さず続けた。
「今日、このあとだ。娘は応接室に待たせてある。警備の方には伝えてあるから、そのまま行ってくれ」
セナはまたひとつ言葉を飲み込むと、一礼して身を翻した。だが扉に向かって歩き、ノブに手をかけようとした時、突然呼び止められた。
「そうだ、大事なことを言い忘れていた」
手を止めて振り返ると、男は言った。
「今回の仕事はお前にとって慣れないものだろうが、なに、気負う必要はない。万一全うできなかったとしても、糧にはなる」
困惑が、隠しきれず顔に滲む。どういう意味だと思った。まるで失敗に終わっても構わないとでも言うような物言いではないか。人柱の命が儀式以外で失われるなど、決してあってはならないはずなのに。
だがやはり、セナに問うことは許されておらず、その疑問は飲み込むしかない。元より自分に命じられる仕事のほとんどはそうだった。なぜと思ったすべてを飲み込んで、ただ言われたことをこなす。それが自分の役目だった。そう、これはいつもの仕事と同じだ。
「わかりました」
セナはいつものように、従順な駒として返事をし、部屋を出た。
長い廊下を、セナは応接室に向かって歩いた。静かな廊下を無言で歩き続けていると、否応もなく、最後に言われた言葉が脳裏に甦ってくる。だが考えたところでわかるわけもない。元より男の胸の裡など、推し量れたためしもないのだ。首を振ってその疑念を追い出し、代わりに護衛対象のことを考えた。
当主の娘。確か歳は十六辺りで、自分とは十も離れている。そんな年頃の少女、しかも上流階級の令嬢など、どう扱えばいいのか。
溜め息を飲み込み、辿り着いた重厚な木のドアをノックする。
「失礼します」
ドアを開けると、陽の射した明るい応接室が目の前に広がった。中央に豪奢なローテーブルとソファが置かれ、そのソファに、一人の少女が座っている。
真っ先に目に入ったのは、背を流れる銀の髪だった。窓から差す陽の光を反射し、絹糸のように輝くそれに、束の間目を奪われる。俯きがちの顔の、その肌は抜けるように白く、華奢な体を、シンプルな黒のワンピースで包んでいた。
セナが後ろ手にドアを閉めると、その顔がこちらを向いた。淡く薄水に透き通る瞳は、稀な宝石のような美しさだった。だがその顔に表情と呼べるものはおよそなく、整いすぎた面差しも相まって、よくできた人形のように見えた。
ふいに少女が、音もなく立ち上がった。絨毯に足音を吸い込ませ、セナの数歩前まで歩み寄る。少女は随分と小柄で、百八十センチを越えるセナとは、ゆうに三十センチほどは差があるように見えた。
少女の細い首には銀色のチョーカーが巻かれており、精緻な作りが小振りな赤い宝石を頂いている。だがセナには、ひと目でそれが呪具だとわかった。
なるほど、と口の中で呟く。やはり自分一人などに大切な人柱を任せるわけがないのだ。当然の措置と言える。だがチョーカーには、護りの呪がかけられているようには感じられない。となると、よくはない類のものだろう。だがそう思いつつ、己が踏み込むことでもないと、セナはチョーカーから意識を外した。
静かな瞳が、セナを見上げる。
「貴方が、連れていってくれる方?」
鈴を振るような、ささやかな声音だった。
「はい。セナと申します」
「それは、偽名?」
重ねて尋ねる少女に、セナは、はい、と答えた。セナは呪術師である。真名――本来の名をを教えることは、相手に自分の命を握らせるに等しい。セナの真名を知っているのは、セナ自身以外では、少女の父であるこの家の当主と、もう顔すら朧気な己の父だけだった。
「わたくしの名前は、ご存じ?」
「いえ」
この屋敷に人柱となる存在がいることは知っていたが、姿を見たことも、名前を聞いたことすらもなかった。知っているのは、この家の者でありながら呪術を学ぶことを禁じられていること、セナがこの家に売られてきてから数年ほどで代替わりをしたらしいということ、それだけだった。
少女がその白い手を、黒いレースがあしらわれた胸元にそっと置いた。
「では、エマと、呼んでくださる?」
真名か、偽名か。よぎったのは一瞬だけだった。この家の娘ともあろう者が、初対面の自分に真名を教えるとは思えない。だがどちらであるかは、口に出せばわかることだった。




