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その指が温かくなるまで。  作者: 銀子


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第1話 セナ


 狭い路地裏だった。

 周囲に立ち並ぶビルに遮られて陽の光は届かず、昼間であっても薄暗い。あちこちにゴミが散乱し、漂うすえた空気を、そこかしこに据えられた室外機が生ぬるい風でかき混ぜている。

 そんな、およそ人が通らないような薄汚れた空間を、一人の男が歩いていた。

 肌の色はこの街では多くはない褐色をしており、鍛え上げられた体は、百八十センチを越える上背をさらに大きく見せている。だが縮れた髪から覗く、髪と同様に黒い瞳は、どこか年若さを感じさせた。

 男は歩きながら、ふいに腰から下げていたウエストバッグに手をやり、中から簡素な装飾のナイフを取り出した。薄暗い路地の奥、室外機の影で、なにかがもぞりと動く。そして突如奥に向かって走り出したそれに向かって、ナイフを投げつけた。

 鋭利な先端が、コンクリートの地面に突き刺さる。同時に、走りかけていた影がどさりと倒れ込んだ。

 男はそれに向かってゆっくりと近付き、傍で立ち止まる。倒れていたのは、スーツを着た壮年の男だった。値の張りそうなスーツは所々が汚れ、必死で立ち上がろうとするも、その脚は意に反して動かない。それは、術によって影を縫い止められているせいなのだが、彼にその知識はないようだった。

「随分と逃げたもんだな」

 男が言葉を落とすと、壮年の男は恐る恐るのように男を見上げる。その目は、護衛の者はどうしたのかと聞いていた。

「みんな殺した。あとはあんただけだ」

 青ざめる顔を冷めた目で見つめ、男は屈み込む。そしてナイフを引き抜くと、口の中で小さくなにかを唱え、怯える顔の、その額を浅く切りつけた。

 瞬間、衝撃波でも放たれたかのように、壮年の男の頭が爆ぜた。コンクリートの地面に、血と脳漿と、頭蓋に収められていたすべてがぶちまけられる。残された体から力が抜け落ちるのを目の端で見やりながら、男はナイフを再びウエストバッグにしまった。

 立ち上がり、背を向けて歩き出すと、尻のポケットに入れていた携帯電話が震える。歩きながら、旧式のそれを取り出してボタンを押すと、低く枯れた声が聞こえてきた。

「今終わった、といったところか?」

 まるで監視でもしていたかのような物言いに、だが反応はせず、短く返す。

「はい」

「ではさっそくで悪いが、次の仕事だ。そのままこちらに向かってくれ」

「わかりました」

 そのまま切ろうとすると、受話口から労りの色で飾った声が響いた。

「頼りにしているぞ、セナ」

 男――セナは少し沈黙し、平坦な声で応えた。

「ありがとうございます」

 そのまま無表情にボタンを押して、通話を切る。入り組んだ薄暗い路地を出ると、途端に雑踏に包まれた。空を埋めるようにビルが建ち並び、その足下には多くの人々が、人種性別問わず忙しなく行き交っている。ついさっき路地の奥で人が一人死んだことなど、知る由もない。セナはそんな人々に紛れるようにして、目的地へと足を進めた。


 * *


 その街は、桂花街(けいかがい)と呼ばれていた。

 科学の発達した現代にありながら、呪術という、言葉で支配するすべにその根を犯されている。街に住む多くの人々がそれを目にすることは稀だったが、巨大な都市を支配するのは、呪術師と呼ばれる特殊な一族の者たちだった。

 彼らは呪うことを得手としていたが、この街を呪いから護っているのもまた彼らだった。

 だがやはり、多くの者はそれを知ることもなく、かつてこの街を滅ぼしかけた戦乱が、街にかけられた呪いが原因だったということも、多くの人の記憶から薄れて久しいものとなっていた。


 * *


 近代的なビルの建ち並ぶ街の一区画に、広大な森が広がっている。周囲を高い塀に囲まれたそれに近づくと、見知った顔の門番が通用口を開けた。

 中に入ると、生い茂る木々に挟まれ、奥に向かって幅広の石畳がまっすぐに延びている。その遠い先には、時代に取り残されたような、古風な西洋の屋敷が建っていた。背後で通用口が閉められ、セナは石畳を歩き出す。

 鳥の声ひとつしない、相変わらず不自然な森だった。自分の靴が鳴らす音だけが響き、時折風が吹くも、葉擦れの音すら控えめに消えていく。

 そびえる屋敷が、徐々に近づく。白い壁に、瑠璃を刷いたような真っ青な屋根。高層ビルの目立つ周囲と比べ、どこか時代錯誤にすら感じるそれに近づくと、入口前の車回しを回り込む。大きな木製の扉の前で立ち止まり、金属性のノブに触れると、仕込まれた(しゅ)がセナを判別し、カチャリと鍵が開いた。

 広いエントランスホールへと足を踏み入れると、薄く香の匂いが漂った。いつものことながら、それはセナが生まれ育った村を思い起こさせた。

 だがそう感じてすぐに、自虐的な笑みが浮かぶのも、いつものことだった。一族の存続のためにここに売られてから、もう二十年も経っているというのに、未だにそんなことは覚えているのだ。匂いと記憶は連動しているという、どこかで見かけた言葉を思い出した。

 敷かれた絨毯に靴音が吸い込まれる。長く続く廊下を歩いていると、向こうから黒い衣服に身を包んだ男が歩いてくるのが見えた。口元を布で隠すという呪術師特有の出で立ちをしているが、垣間見える肌は白い。この屋敷の呪術師だった。

 男はセナに気付くと、汚らわしいものでも見たかのように、露骨にその目元を歪めた。彼ら屋敷の呪術師は、彼らにとって異端の呪術を使うセナを忌み嫌っていた。だがそんな反応を受けるのはいつものことだったので、セナは気に留めずすれ違った。

 すれ違いざま、舌打ちが聞こえる。だがそれもいつものことだった。

広い屋敷内を奥へと進み、もっとも奥まった場所にある扉をノックすると、室内から低く枯れた声が返った。

「入りなさい」

 ドアを開け、中に入る。書斎のような広い部屋の中央に、黒壇の机が置かれ、その向こうに、革張りの椅子に座った一人の男がいた。


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