第26話 この手で護りたい
「ではお聞きしますが……」
そう言うと、エマが困惑のままセナを見上げてきた。
「あなたは先ほど、呪を使ってまでして俺を逃がそうとした。それであなたが得られるものはなんですか?」
エマはその言葉を反芻するかのようにしばしセナを見つめていたが、やがて困惑のままゆるりと首を振った。
「そんなもの、ないわ……」
「じゃあどうして逃がそうとしてくれたんですか?」
今のエマにとって、自分を護ろうとするセナを遠ざけて得られるものは、なにもないはずだ。エマの呪は、たった一人を相手取った時にしか効果を発揮しない。しかも阻害されればそこで終わりだ。エマに自身を護るすべはない。
見つめるセナに、エマはふいにぽつりと言った。
「嫌だったから……」
そのまま、どこか未知の言葉を形作るように、ゆっくりと続ける。
「嫌だと、思ったのよ。貴方は、わたくしが処分対象だと知ってなお、護ろうとしてくれた。わたくしに、死を望まなかった。そんな人は、あの屋敷に一人もいなかったから」
あれほど貴重な人柱と育て上げておいて、役に立たないとわかった途端、手のひらを返すように死を望まれた。
「でも貴方は違った」
手を温めるまじないをかけてくれた。そんな気遣いを受けたのは、なんの見返りもないことをされたのは、エマは初めてだった。二日目の明け方、悪夢を晴らしてくれたのもセナのまじないだった。エマがうなされていたからという、それだけの理由で。
「市場でも、わたくしのわがままを聞いて、お守りを買ってくれた。それだけではなく、並んでいる中で、最も強いものを選んでくれた」
並んでいる呪具の強さは、エマにも分かった。ただエマの言葉に従うだけなら、適当に安いものを買って済ませることもできたはずだった。だがセナは、あの中で最も強い護りの呪具をエマに選んだ。
「攫われそうになったわたくしを、体を張って、助けてくれた。呪具によって締め上げられ、生死の境をさまよったわたくしを、声を上げるほど、顔色を変えるほど、心配してくれた」
遠いなにかを掴もうとするように、エマは言葉を繋げ続ける。
「それはすべて、わたくしが、当主の娘だったからかもしれない。護れと、命じられた対象だったからかもしれない。それでも……」
戸惑うような薄水の瞳が、微かに潤みを帯びる。
「わたくしは、貴方が死ぬのは嫌。嫌だから、逃げてほしいと思ったのよ」
エマの頬を、ぽろぽろとと涙が零れ落ちる。エマの中で不確かだったなにかが、ようやく形を得たように見えた。
顔を俯かせたエマは、だが漏れそうになる声を押し殺し、溢れようとする涙を必死に拭っていた。まるで僅かでも泣き声が上がることを防ぐかのように。僅かでも涙が頬を濡らすことを防ぐかのように。
感情を抑えつけるかのようなその行動は、今までそのように言われ続けてきたからだろう。強い力を持つ者が感情に呑まれれば、己の身を滅ぼしかねないからだ。
だがそれはこんな風に、歪に抑えつけるものではない。そんなこともエマは知らないのだ。あの屋敷で、誰も教えなかった。だからエマは、こんな風に泣くことしかできないのだ。
セナは胸が締め付けられるような思いがした。
――感情はそんな風に、抑えつけるものじゃない。
手を伸ばし、エマの体を抱き寄せた。エマが驚いたように、拭う手を止める。
抱き締めた肩は酷く細く、頼りない。その事実が、更に胸を苦しくさせた。
「泣いていいんですよ」
だからセナは、そう伝えた。
「そんな風に、抑えつけなくていいんです」
こんな言葉で、伝わるのだろうか。だがそう思っていると、エマが腕の中で小さく声を上げた。
「う……うぅ……」
声をあげて泣く、というものではなかった。耐えきれない声を、それでも無意識に抑えつけてしまう、そんな苦しげな泣き声だった。セナはその体を、更に強く抱き締める。
エマを自由にしたい。この手で護りたいと、強く思った。それは、形にできなかったあの思いの正体だった。
自分の感情にすら戸惑い、こんな歪な泣き方しかできないこの少女を、この街の外に出したい。そしてもっといろんなものに触れ、いろんなものを感じてほしい。怯え戸惑うばかりではなく、笑顔を浮かべてほしい。セナはそう、強く思った。
後ろ手にドアを閉め、セナは廊下に出た。薄暗い廊下にはいくつかドアが並び、今閉めたドアとは反対側の壁、廊下の奥の一室から、微かに光が漏れている。近づいてノックすると、中から応じる声が聞こえてきた。
「いいわよ」
ドアを開け、甘く苦い香りが漂う室内に入る。明かりはついておらず、薄暗い部屋を照らすのは、デスク上に置いてある古びたパソコンのモニターだった。
その前に置かれた椅子にジュリエットが座っているが、壁を埋め尽くすように並んだ棚には紙束やファイルが溢れるほどに詰め込まれており、足元を見れば、床にも似たようなものが山と積まれている。それらに追いやられるようにして壁際にベッドがあったが、その上にもファイルの山がいくつか置かれており、寝床として使えるかは甚だ怪しいものだった。
「あの子は眠った?」
浅く紫煙を吐き出したジュリエットが、指先に挟んだ紙煙草の灰を落とし、セナを振り返った。
「ああ」
あれからエマは、セナの腕の中でしばらくの間声を殺して泣いていたが、やがて泣き疲れて眠ってしまった。緊張が強いられる状況が続いたせいもあるだろう、今はゆっくり眠ってほしかった。
「で、あの子はどこのお嬢様?」
ジュリエットが短くなった紙煙草を灰皿に押し付けて消す。セナは迷ったものの、彼女相手に隠すことはあまり意味がないようにも思えた。
「あの屋敷だ」
この街でそう呼ばれるのはひとつしかない。そしてジュリエットにもそれは正しく伝わったようだった。
「へぇ。当主のご息女ってところ?」
「ああ」
「十六年前に生まれたってのは聞いたことがあるけど、なんでまたそんな子が外に出てるわけ? しかも、よりによってあなたなんかを護衛役にして」
だがこれにはすぐに答えられなかった。教えることはすなわち、巻き込むことになるからだ。
エマにとって安全な場所をと思ってとっさにここを選んだが、それ以上の協力を求めるつもりはなかった。少なくともその時は。いや、そんなものは言い訳だ。利害の一致さえあればと、そんな気持ちがどこかにあったのは否定できないだろう。自分は最初から、ジュリエットを巻き込むつもりでここに来ているのだ。
この街にいながらにしてあの屋敷を敵に回す。それはおよそ、正気の沙汰ではない。いかにジュリエットと言えど、易い仕事にはならないはずだ。だがもし、力を借りられるのなら――。
セナは一度俯いて瞑目すると、顔を上げ、ジュリエットを見据えた。
「頼みがある」
ジュリエットが、その目を猫のように細めて笑んだ。
「なぁに?」
ジュリエットがこの笑みを浮かべる時は、面白そうなもの、楽しめそうなものを見つけた時だ。果たしてどこまで知っているのか、または知らないのか。だがどちらにしろ、頼めそうな相手は他にいない。言うべきことは変わらなかった。
「あの子をこの街から連れ出す」
まずはそれを告げると、ジュリエットはその声に量るような色を乗せた。
「へぇ?」
「その為にお前の力を借りたい」
続けてそう言うと、ジュリエットは笑みを浮かべたまま、その声を僅かに低くした。
「それで、あたしはなにを得られるのかしら?」
対価。それなしではジュリエットは動かない。そしてあの屋敷を相手取るのであれば、生半可なものでは首を縦には振らないだろう。決断はすぐだった。ためらいもなかった。
「お前に――」
そうして告げたものに、ジュリエットは珍しく、ほんの僅か、驚くような表情をその顔に浮かべた。




