第25話 手を温めるまじない
この外出の目的がエマの処分で、セナは形だけの護衛だとわかったあの時。セナが選ぶべきは、エマを差し出すという、その選択のみだったはずだ。だがセナはそうしなかった。
「――嫌だったんです。どうしても、引き下がりたくなかった」
「なぜ?」
困惑を浮かべるエマに、セナは視線を俯かせた。
「たぶん、あなたにかつての自分を重ねているんだと思います。他人に人生を決められて、逃げることができなかった自分を」
今はそれだけではないなにかを感じるのだが、どうしてもそれが言葉にできない。
「でも貴方は、一族の為に、あの屋敷に来たのでしょう? 逆らうようなことをしたら、貴方の一族が、無事では済まないのではなくて?」
それはずっと、セナにとって楔だったものだった。それがあるから逃げられなかった。逃げられないと、ずっと思い込んでいた。仕事を命じられ、屋敷の外に出るようになってからも、終えたら屋敷に帰るしかないと思っていた。それが当たり前になっていた。
だが、気付いてしまったのだ。自分がもう、一族になんの情も寄せていないことに。
「自分達が生き延びる為に、子どもを売り飛ばすような奴らです。俺はもう、親の顔さえはっきり覚えていないんですよ」
顔を上げ、エマを見つめる。
「……俺のことを、情がないと思いますか」
するとエマは僅かに俯いた。
「わからないわ。親がどういうものか、わたくし、知らないもの」
呟くように言ったエマは、再び顔を上げてセナを見つめた。
「まだ、わからないわ。わたくしに、貴方がかつての自分を、重ねているのだとしても。どうして、そこまでするの?」
「それは……」
セナは口ごもり、視線を落とす。
「すみません、上手く……言えなくて……」
この不確かな感情を、言葉にすることができない。しかし現状、戦うすべを持たないエマにとって、セナは有用な存在であるはずだった。それでもなお理由を知りたがるということは、まだセナのなにかが疑わしいのだろうか。元よりセナを殺すか利用するかして、逃げようとしていたのに。
そこまで考えたセナは、ふと思い出し、顔を上げた。
「そういえば、最初の夜、なぜ呪をかけなかったんですか?」
これまでのことを考えると、あの時のエマは、恐らくセナに呪をかけようとしていたのだろう。心臓に刻み込む、強い呪を。だがそうしなかった。
セナは直接体に編み込む呪術を使っているために、呪は弾かれたかもしれないが、心臓に直接刻み込むものの類は防げない場合がある。そして刻み込めたが最後、エマはその時から、セナを完全な支配下に置けたはずだった。
そう尋ねると、エマは顔を逸らし、自分の右手を左手で包み込むようにして俯いた。長い髪がさらりと流れ、表情を隠す。
「貴方……が……」
小さく、掻き消えそうな声で、
「応接室で、手を温めるまじないを……かけたから……」
予想外の言葉に、セナは戸惑った。呪術を修めていた以上、呪とまじないの違いに気づいていてもおかしくはない。だがあの時にしたことなど、セナ自身、半ば忘れかけていた程度のものだった。
それを今出されたことに、理解が追い付かずにいると、エマは気まずさを押し込めるように、包む手を強める。
「応接室で貴方と会った時、わたくしは、貴方を試そうとしていたのよ」
かけることを禁じられている呪をかけろと、エマは命じた。
「素直に従うか、退けるか。それによって、貴方をどうするか、決めるつもりだったわ」
従えば、決して逆らえないよう呪を施し、逃亡の幇助をさせるつもりだった。退ければ、機を見て殺し、一人逃げるつもりだった。反発の感情がある者に対して服従の呪が効くのかどうか、エマは自身の呪術の強さに確信がなかったからだった。
「でも貴方は、どちらも選ばなかった」
セナは、エマの手を温めるという、エマにとって予想外の行動をした。そんな気遣いを誰かから受けたことなど、今まで一度たりとてなかったエマは、酷く戸惑ってしまった。そしてそれ故に、セナをどう扱うべきか、わからなくなってしまった。
なんの呪具も帯びていないあの夜に、呪をかけることをためらってしまった。体に防御の呪を編み込んでいるのであれば、弾かれていたかもしれない。それでも、かけようとすることはできたはずだった。
「ただの、まじないですよ……」
セナは戸惑いつつもそう返す。まじないなど、効果がはっきりと表れるものでもない、術というよりただの祈りや願いに近いものだ。なにかを大きく左右するようなものではない。
だがそう言ったセナに、エマは少し顔を上げ、セナの方を振り向いた。薄水の瞳が、どこか不安げに見つめてくる。
「どうして、あんなことをしたの?」
「どうしてって……」
それこそ、口にするほどでもない、些細なものだ。
「あなたの手が酷く冷たかったので、それが少しでもよくなればと……」
するとエマが、その顔に困惑を浮かべた。
「そんなことをして、貴方はなにを得られるの?」
「いえ、なにかを得るとか、そういうものではないんですよ。ただ、そうしたいと思っただけで……」
改めて口にすると、気恥ずかしいものがある。だがエマの顔に理解の色は浮かばず、やがて再び俯いてしまった。
「どうして? わたくしの手が冷たくても、貴方には、なんの関係もないのに……」
呟くようにして俯くエマは、心の底から困惑しているようだった。
その様子を見て、セナは、なにかが掛け違っているような感覚に陥った。そしてそれはエマの、酷く極端なものの考え方のせいだった。
恐らく彼女は、利があるか否かという、ただそれだけの、合理的な環境で育てられたのだろう。彼女自身、力不足と分かった時点で処分の判断を下されている。
確かにそれは呪術師によくある考え方であり、あの屋敷も例外なくそうではあったが、それのみで育てられてしまったということが、酷く悲しく感じた。
エマは恐らく無償の、ただ心からくるものを受けたことがないのだ。そんな些細なものすらも、彼女は知らないのだ。だが……。




