第23話 気づいていたのね
目を開けると、薄明りに照らされた天井が広がった。何度か瞬きをし、セナは状況を確認する。
薄汚れた天井、きつい香の香り、シエラの――ジュリエットの家だ。あの世ではないということは、ひとまず命拾いはしたようだった。
先程の場所から移されたのか、薄暗いながら部屋の様子が違うのが窺えた。だがだいぶ眠っていたようで、カーテンの隙間から見える外は暗く、ベッドサイドに置かれた古びたランプだけが、唯一室内を照らす光源だった。
体を起こそうと動くと、手がなにかに触れた。首を巡らせてみると、それはエマの手だった。床に座り込んだエマは、ベッドに腕と頭を乗せて眠っていた。
「エマ」
小さく呼びかけると、閉じられた睫毛が震え、その目がゆっくりと開かれる。顔を上げ、セナと目が合うと、エマはほっとした表情を静かに浮かべた。
「目が、覚めたのね」
その言葉に乗せられた安堵の色と、浮かべられた表情に、セナは驚きに似た戸惑いを感じた。
エマが情のない娘だとは決して思っていないが、それでもこういった気遣いを向けられるのは、今までの彼女の言動からは酷く意外に感じた。
「ご心配をおかけして、申し訳ありません」
セナがゆっくりと体を起こすと、エマが慌てたように立ち上がり、体を支えようとした。
「横になっていた方が、いいのではなくて?」
「もう充分、休息は取ったので」
正直なところ、失血のせいか麻酔作用の香の残りか、体のだるさが酷かった。縫われて呪を施された傷も、痛みと熱で存在を主張し、まだ横になっていた方がいいのだろうと体では感じる。だがこれ以上エマに心配をかけたくなかった。
エマは心配そうな表情でしばし立ち尽くしていたが、ふいに思い出したように言った。
「あの女の人を、呼んでくるわ。貴方が目を覚ましたら、呼んでと、言われているの」
「わかりました」
そのまま部屋を出たエマは、少しの間を置いて、ジュリエットを伴って戻ってきた。部屋に入ってきたジュリエットが、ベッドの傍まで来る。
「具合はどうかしら?」
「助かった」
セナは簡潔に答えた。今なお痛みや熱があることは、ジュリエットも承知しているだろう。そしてエマの手前強がっているのも、見透かされている気がした。だが取り繕ったところで余計に面倒なことになる気がしたので、それに留めた。
「そう。じゃあお代のことだけど……、これぐらいかしらね」
そう言ったジュリエットが、指を三本立てる。
「随分気前がいいな。善人にでも鞍替えしたのか」
最低でもその倍は提示されると思っていたのだが。
だがそう返したセナに、ジュリエットはにっこりと微笑んだ。
「だって、これからもまだなにかありそうなんだもの」
実に楽しそうに言うジュリエットに、セナは、そういうことか、と溜め息をつく。
「で、どこのお嬢様を攫ってきたの?」
「だから、攫ってない。彼女は……護衛対象だ」
実際は形だけのものだったという事実が、言葉を鈍らせた。だがジュリエットはそれを指摘することなく、その柳眉を僅かに上げた。
「護衛? あなたが?」
その声は説明を求めているようだったが、セナ自身、どう説明したものか迷うものだった。
視線が無意識に、ジュリエットの後ろで立ち尽くすエマに向けられる。エマはなにか物言いたげにセナを見つめていたが、その口から言葉が出てくる様子はなく、やがて俯いてしまった。
初対面のジュリエットの前では話しにくいのか、また別の理由か。セナは視線をジュリエットに戻した。
「少し休ませてもらえるか。あとで話す」
ジュリエットが肩越しに、俯いたままのエマをちらりとだけ振り返る。
「オッケー。楽しみにしてるわ」
そしてそのままひらひらと手を振ると、部屋を出ていった。
ドアが閉じられ、足音が遠ざかっていく。なおも立ち尽くしたままのエマに、セナはベッドの上で少し体をずらすと、空いた場所を示すように手を置いた。
「座ってください。あなたもお疲れでしょう」
部屋に椅子の類はなかった。エマはためらいながらも近付いてくると、ベッドに腰掛けた。
そしてしばらくそのまま俯いていたが、やがてぽつりと呟く。
「貴方に、聞きたいことが、あるのだけど」
どこか思い詰めたような様子のエマに、セナは答える。
「どうぞ」
するとエマは、また少しためらうようにしたあと、顔を上げ、セナを見つめて言った。
「貴方は、どうして、あの人の下で仕事をしているの?」
随分と唐突な問いだったが、その表情は、恐らくなにか思うところがあるのだろうと思われた。
障りなく答えることもできたが、もう言ってしまってもいいだろうと、セナは口を開く。
「俺の一族はかつて、特殊な血を持つ呪術師の一族として、名の知れた存在だったんです。でもそれはもう何十年も昔の話で、今はほとんど、その血を売ることを生業にしていますが」
「特殊な血?」
「主な使い方としては、強力な呪術を施せる、という辺りですね。そしてあなたのお父上は、通常とは異なる血の欲し方をした」
半永久的に得られる血のタンク。要は、人一人を寄越せと言ってきたのだ。表向きは、呪術師の素質がある子どもを手元で育てたいということだった。そして衰退の一途を辿っていた一族は、多額の金と引き替えに、幼いセナを売った。
「それから俺は、あなたのお父上に育てられ、時に血を提供し、命じられた仕事をこなしてきました。なので、なぜお父上の下で仕事をしているのかと言われると、売られたから、ですね」
誰かに己のことを言って聞かせるのは初めてだった。だが改めて口にしても、虚しさ以外なにも感じない。そしてセナは、ただ事実を口にしただけのつもりだったのだが、エマはその眉を気遣わしげにひそめた。
「寂しくは、なかったの?」
寂しい。売られた当時はそんな感情があったかもしれない。だがもうそれは遠い過去で、今思い出そうにも、なにを感じていたかすら朧げだった。
「昔のことなので」
だからそう返したのだが、エマはじっとセナを見つめたあと、静かに俯いた。
そのまま何事かを考えるように、長く黙り込む。だがやがて、ひとつ瞬きをすると、表情を改め、まっすぐにセナを見据えた。その様子に、セナは予感めいたものを感じる。
「エマが命じるわ。わたくしを――」
とっさにその唇を指先で塞ぐ。エマの声が途切れた。
「今、なにを命じようとしたんですか」
エマが目を見開く。
「俺は、あなたの望みにはできるだけ応えてきたつもりです。あなたが俺にそれを使う時は、なにかを尋ねる時だけだった。でも今あなたは、命じようとした。つまり俺が、決して従わないようなことをさせようとしたのではないですか」
エマはなおも抗うようにセナを見つめていたが、やがて諦めたように目を伏せた。これで恐らく発動条件のひとつは消えたはずだった。
指を離すと、エマは再び俯いた。そのまましばらく唇を引き結んでいたが、やがてぽつりと言った。
「気づいていたのね。わたくしが、貴方に呪を使っていたことを」




