第22話 ジュリエット
セナは傍らにあった赤毛の男でナイフの血を拭うと、それをそのまま腰のベルトに差した。そして胸と脚の傷それぞれに、止血と痛み止めの呪をかける。だがどちらも気休め程度でしかなく、早く塞がなければ、いずれ完全に意識を失うのは時間の問題だと思われた。しかし今はそれよりも、少しでも早くここから移動しなければならない。
振り返り、未だ目を閉じて体を固くしたままのエマの下に行く。
「もう大丈夫ですよ」
恐る恐る目を開けたエマが、目の前に立つセナを見上げる。そんなエマの目に背後の残骸が入らないように、セナはその手を取って歩き出した。
するとエマが、心配げな視線を向けてくる。だが今はそれに返している余裕はなかった。
辺りに呪の気配は感じられない。だがこのままでは、いつ次の追っ手が来るかわからなかった。そうとなれば、今は少しでも早く、少しでも遠くに行かなくてはならない。
痛む足を懸命に動かし、セナは無言で歩き続けた。
人通りの多い場所の方が襲われる確率は低いだろうが、血に濡れた状態で歩くのは目立つ。だから狭く複雑な路地を行くしかなかった。そこならば、仮に追っ手が来たとしても、大がかりな呪は使えない。
神経を張り巡らせる。追尾の呪はないか、あとをつける足音はないか。だがどこに逃げたらいい。エマの首には未だ呪具があり、この街からは出ることはできない。どこか、身を隠せるような場所は。
少しずつ朦朧とし始める意識の中、だがひとつだけ思いつく場所があった。セナは歩き続けながら言った。
「少し……向かいたい場所があります」
好んで行きたい場所でもないが、今はそんなことを言っている場合ではない。エマがこの街で安全にいられるのは、今は恐らくあそこだけだ。
ふいに体がふらつく。エマが支えようと手を伸ばしたが、その細い体に体重など預けられようもない。セナは歯を食いしばって踏みとどまり、ひたすらに足を動かした。
霞みそうになる意識を必死で繋ぎ留め、路地から路地へと渡り歩いたセナは、ある古びた建物に入った。かつては普通の集合住宅だったが、治安の悪化と共に、次第に不法移民の住処となっていった場所だった。
長く続く通路は薄暗く、天井には植物の蔓のように大量の電気ケーブルが走っている。その通路を最奥まで行くと、厳重な電子ロックがいくつも後付けされたドアに辿り着いた。
ドア横のチャイムを押すと、ジーッという古びた音が響く。するとドアの上につけられた監視カメラが動いたので、セナは顔を上げ、自分の顔がはっきりと映るようにした。
しばらくすると、大量のロックが順番に外れる音がしたのちに、内開きのドアが開く。きつい香の香りと共に姿を現したのは、セナよりやや薄い褐色の肌をした、一人の女だった。
癖のない黒髪を長く背に流し、彫りの深い顔立ちは、整っていると言って差し支えない。女性らしい体つきを飾り気のない衣服で包み、セナを見上げたその女が、その瞳を猫のように細めて笑んだ。
「いらっしゃい」
セナが突然訪れたことにも、負っている傷に対しても、別段驚くような様子はなかった。だが彼女がなにかに動揺しているところなど見たことがないので、いつも通りとも言えた。
「珍しいわね、あなたがここに来るなんて」
「来たくて来たわけじゃない」
「あらご挨拶」
そう言いながらも、半身を引いてセナ達を室内に促す。セナに続いてエマが恐る恐るのようにして入ると、それまでセナに隠れて見えていなかったのか、女がどこか楽しげに声を弾ませた。
「あら、こんなお嬢様どこから攫ってきたの?」
「攫ってない」
説明するのも億劫だったのでそれだけで済ませると、ドアが閉まり、背後で大量のロックがかかる音がした。エマがびくりと振り返る。
「大丈夫ですよ、危害は加えさせませんので」
「随分な言い方ねぇ。それより、あたしのこと紹介してくれないの?」
実に楽しげな笑みを浮かべる女に、セナは面倒な気持ちがよぎったが、あとあとしつこくされるのも面倒な為、応じることにした。
「こいつはシエラ……」
言いかけ、女の方に顔を向ける。
「今の名前はなんだ?」
すると女はエマの方を向き、にっこりと笑んで答えた。
「ジュリエットよ」
「……だそうです。金を積めばなんでもする女です」
するとジュリエットがセナを振り返り、わざとらしくむくれた。
「酷い言われようねぇ」
「間違ってないだろう」
「お金以外でも動くわ」
「例えば?」
ジュリエットは頬の横で両手を合わせ、少し傾げるようにしてにっこりと笑む。
「お金ぐらい価値のあるもの」
「なにが違うんだ」
セナはため息をつく。シエラ――否、ジュリエットとは、いつもこういうやりとりになる。疲れることこの上ない。
エマに目を戻すと、怪訝そうな表情を浮かべていた。
「こいつはよく名前が変わるんです。ですが信は置けますので安心してください」
そう説明すると、エマはその表情の曇りを少しだけ晴らした。するとジュリエットが、改めてセナの全身を眺める。
「で、ここに来た理由はそれかしら?」
「わかってるなら早めに頼む。今にも意識が飛びそうなんだ」
「はいはい」
照明の減らされた家の中にはいくつかの部屋があり、その中のひとつに促されて入る。エマも続こうとすると、ジュリエットが手で制した。
「あなたは隣の部屋で待ってて」
するとエマが、その顔に静かな警戒を走らせた。
「……なにをするの」
その声にも明らかな警戒の色が見え、セナは内心で驚いた。それは初めてホテルに泊まった時とはまた違う、敵意に似たものだった。
だが、エマがなぜ今そんな感情を浮かべるのか理解が追い付かないうちに、ジュリエットがにっこりと笑って応じた。
「傷を塞ぐのよ。強い香を使うから、必要のないあなたはあまり吸わない方がいいの。わかったら、隣の部屋で待っててちょうだい」
エマはそれでもどこか不審さを隠さない様子だったが、一度セナに瞳を向けると、俯いて呟いた。
「……わかったわ」
そのまま隣の部屋に向かうエマに、ジュリエットはドアを閉じた。部屋の中は手術台代わりの簡素な寝台と、いくつかの手術道具に混じって、札や香炉等が乱雑に置かれていた。
「じゃ、横になってもらおうかしら」
言われるまま寝台に横になると、ジュリエットは髪をまとめ、台に置いてあった布で口元を覆った。香炉のひとつに火を入れ、セナの頭の横に置く。
「なにか布とか、噛んでおく?」
「必要ない。それより……」
セナは目元に力を込め、ジュリエットを強く睨みつける。
「彼女になにかしたら、俺の血を使って呪いをかけるからな」
安い脅しだと思った。呪いはかけられる。だがエマが失われてはそれも意味がない。それでも、今はこれしか言えなかった。
ジュリエットがその目を、猫のように細めて笑んだ。
「オッケー。じゃ、食いしばりすぎて歯を割らないようにね」
信じるしかない。その不安定さに内心歯噛みしつつ、セナは目を閉じた。




