第21話 反逆
鋭い痛みに、セナは僅かに顔を歪める。背後でエマが、小さく息を飲む音がした。
「いいざまだな」
赤毛の男が、愉悦の笑みを浮かべる。それは、はっきりと見覚えのあるものだった。記憶が呼び起こされる。
屋敷にいた呪術師。セナに対してなにかと難癖をつけてくることの多かった男だった。ああ、こいつは本当に俺のことが気に食わなかったのだなと、意識の隙間で思った。
セナはこの男の偽名すら知らない。知ろうとも思わなかった。どうでもよかった。興味もなかった。今ようやく思い出した程度に、関心もなかった。セナは自分のこと以上に、周りの人間に関心がなかった。だがそんなセナの静かな表情が、男の癇に障ったらしかった。
「相変わらず気に食わねぇツラだな」
その手のナイフが振り上げられる。だが振り下ろすより先に、神経質な声がそれを制止した。
「いい加減にしろ」
赤毛の男が煩わしげに振り返る。
「なんだようるせぇな」
「そいつに傷をつけるな」
苛立ちを抑えた声で痩身の男が言うと、赤毛の男は溜め息をつき、ナイフを持っていた手を下ろした。だがおもむろに逆手に持ち、その刃をセナの大腿に強く突き立てた。
「……っ!」
痛みに息を詰める。ナイフはすぐさま引き抜かれ、刃を濡らす血が足元に散った。
「なにをしている……!」
痩身の男が声を上げる。赤毛の男はナイフを持ったままわざとらしく両手を上げ、痩身の男の方に歩き出した。
「仕方ねぇだろ。こいつがムカつくから……」
言いかけた声が、なにかを察したように途切れる。男が振り返るのと、セナの足が地面を蹴るのとはほぼ同時だった。
絶叫が響く。首筋から僅かに逸れた位置から血を吹き出し、のけぞった赤毛の男はたたらを踏んだ。
そのまま後退る男をセナは追おうとし、脚の痛みに膝を折る。致命傷にできなかったのは、痛みで僅かに踏み込みが甘くなったせいだった。
赤毛の男が、信じられないものを見るようにセナを見つめる。
「てめぇ……なんで動けた……」
驚愕の表情が、次第に恥辱の怒りに変わる。札を取り出そうとした男は、だが直後、その体が黒いもやのようなもので包まれた。
呪いだった。セナが仕掛けたものではない。男は苦しげに、己の背後を振り返る。
「なんのつもりだ……」
痩身の男が、投げつけた仕草で止まっていた手を下ろす。男は淡々とした表情で鋭い睨みを受け止めた。
「傷をつけるなと厳命されていただろう」
その間にも、もやはどんどんと濃くなり、赤毛の男の息が荒くなっていく。全身の皮膚に、赤い亀裂のようなものが走り始めた。
「安心しろ。お前は手柄を焦って傷をつけ、返り討ちに遭ったということにしておいてやる」
なにかを返そうとした赤毛の男が、ふいに息を詰める。次の瞬間、赤い亀裂が一斉に裂け、男は全身から血を吹き出して倒れた。
伏したまま痙攣する男を、痩身の男は冷めた目で見やると、膝をつくセナの方へと歩み寄ってきた。とっさにナイフを構えるセナに、距離を取って立ち止まった男は見下ろして言った。
「貴様、なぜ動けた。影を縛られていただろう」
セナが答えずにいると、元より返答は期待していなかったのか、男は構わず続けた。
「本来なら娘を殺してお前には無傷で帰ってもらう予定だったんだがな。念の為、少し腕でも折っておくか」
男が札を掲げる。その目元が忌々しげに歪んだ。
「手間かけさせやがって、穢れ肌が」
その瞬間、セナの脳裏に甦るものがあった。それは、あの屋敷に売られて来たばかりの、幼い頃のことだった。
屋敷の呪術師達にそう罵られて、陰湿な嫌がらせを受けていた。それに心を痛める顔をして、優しく接してくれたのは当主だった。だがその優しさに見えたものは、従順な駒を作る為の手段に過ぎなかった。
そういうものだと思っていた。自分はもうそうやって生きるしかないのだと思っていた。それが自分のこの先の人生なのだと。
逆らうことはできないと思っていた。逆らってはいけないと思っていた。ずっとそう思って、思い込んで、今まで生きてきた。だが――。
――なぜ自分は、今でもあの男に従っているのだろう。
ふいに思った。初めてそのことに対して思考が触れた。
逆らえない理由は、一族の命がかかっているからだった。だがもう親の顔すら朧気で、なにより彼らは、自分を売ったのだ。
力なき子ども。人として扱われないことを知りながら。そんな奴らの為に、いつまで我慢をし続ける必要がある? それにもう自分は、なんの力も持たない無力な子どもではない。
――どうして今まで気付かなかったのだろう。
当主に、あの屋敷に逆らって、無事に済むわけがないと、そんな考えは浮かんですぐ消えた。そんなものどうでもいい。エマを逃がすことができるのなら。それで、彼女を自由にすることができるのなら――。
踏み出し、ナイフを薙ぐ。予想外の動きだったのか、男は反応が遅れ、脇腹が深く切り裂かれた。よろめいて数歩後退した男が、傷口を押さえて膝をつく。憎悪に歪んだ顔がセナを睨みつけた。
「穢れ肌風情が! 舐めた真似しやがって!」
血に濡れた手で、懐から新たな札を出す。強力な呪いを放つ札だとひと目でわかった。だがセナは構わず体を起こし、痛む足を動かして男へと歩み寄る。
詠唱を終えた男が呪いを放った。飛び出した黒いもやに、セナは左腕をかざして食らわせる。
全身を覆う悪寒。一瞬視界が暗くなったのを無理矢理引きずり戻して足を進める。口から呪を滑らせ、傷口から血を滴らせながらなおも足を止めないセナに、男が驚愕の表情になる。
目の前で立ち止まり、その胸ぐらを掴み上げたところで詠唱が終わった。セナはふと、後方のエマを振り返る。
「少し、目を閉じていてください」
青ざめた顔で立ち尽くしていたエマが、ぎゅっと目を閉じた。それを見届け、男に向き直り、告げる。
「帰れ」
腕に食らいついていたもやが、男の頭部を覆うようにしてまとわりついた。男はすぐさまもやを引き剥がそうともがいたが、掴めぬものを剥がすなどできようもない。
もやは口の中にも入り込み、やがて苦し気に呻く声も聞こえなくなっていった。
セナがその体を投げ捨てると、ぐしゃりと潰れる音とともに、もやに包まれた男の頭部が圧縮する。体が地面に倒れ、頭部を覆っていたもやが晴れると、首から上は、赤い血肉とそれにまみれた頭蓋の残骸になっていた。




