第20話 真逆の言葉
言われてみれば、当然の考えではあった。だがここに至るまで、セナは思いつきもしなかった。
定められたものから逃げるというそれは、セナにとって、かつて選ぶことすらできないものだったからだ。それゆえに、とっくに捨て去っていたものだったからだ。逃げるというその言葉そのものが、セナにとっては異国の言葉のようですらあった。
驚きに言葉を返せないセナに、エマは俯くと、とつとつと話し始めた。
「わたくしは、物心ついた頃から、この桂花街の人柱になるさだめだと、言われ続けてきたわ。その為に、作られたのだと」
強い力を持つゆえに、感情は潜めなければならない。宿る言霊が強いゆえに、軽率に言葉を発してはならない。力を蓄える為に、呪術を使ってはならない。すべては人柱としての役目を全うする為。エマの人生にはそれしかなかったという。
「だからわたくしは、そのように生きるのだと、生きるしかないのだと思っていた。けれど、処分されるということを、知った時、わたくしは思ったの。嫌だって」
そしてエマは気付いた。自分はずっと嫌だと思っていたのだ。人柱という役目、名も知らぬ人々に命を捧げるという行為、そのすべてが。
仕方のないことだと思っていた。自分の人生はそういうものなのだと。だからずっとその言葉を飲み込んできた。でも本当は、ずっと嫌だった。逃げたかった。そう思っていたことを思い出した。だからこれ以上、都合のいいように、物のように扱われるのは、もう嫌だと思った。
「そして気付いたら、もう、そのままではいられなかった。その日から密かに、呪を学んで、いつか外に連れ出された時に、逃げ出してしまおうと思った」
それからしばらくした頃、役目の前に外を見せてやろうと言われた。幼い頃に会って以来、見るのは二度目の父の顔だった。父だと聞かされているだけで、なにひとつ実感のない存在だった。
外出には護衛をつけると言われたが、恐らくそれは名ばかりのもので、その護衛に自分は殺される。ならば殺される前に殺して逃げるか、呪で従わせた上で協力させようと思った。
俯いたエマの手が、首のチョーカーに触れる。
「だめだった、けれどね」
首の呪具が、それを許さなかったのだ。エマは呪具を破壊するすべを知らなかった。
俯くエマを見つめながら、セナは自身の中に、形容しがたい思いが浮かぶのを感じた。それがどういう名前のものかはわからない。けれど確かに強く感じていた。
不確かな思いに困惑していると、ふいに呪の気配を感じた。とっさにエマを抱き寄せて跳び退る。半拍ほど遅れて、黒い獣の風体に似たもやの塊が頭上から猛スピードで襲来し、置き去りにされたトランクを破壊した。
「……避けたか」
獣が霧散するのと同時に、軽やかなしぐさで一人の男が降り立った。痩身を黒ずくめの服で包み、隠された口元に、唯一見える神経質そうな瞳がセナを見据える。
セナはすぐさまエマを下がらせ、ナイフを抜いて男と向き合った。さっきの場所からはかなり離れており、追尾の呪も感じなかったが、獣がエマではなくトランクを標的としていたことで合点がいった。エマのトランクに呪具を仕込んでいたのだ。
あらかじめ呪具とひとつながりの呪いを作り、それに帰るよう仕向けるのであれば、直前までセナにも悟られない。追尾を向けるのではなく、繋がれた呪いを呪具に帰すものだからだ。
「ちょこまかと逃げ回ってくれたものだ。お陰で、面倒な呪を発動させるはめになった」
男は苛立ちを隠さない声で言い、その目をエマに向けた。
「呪いで処分できたら楽だったんだがな」
セナはその視線を遮るように、じり、と体を動かした。すると男がセナに視線を移し、不快げに眉を寄せる。
「お前もお前だ。護衛の経験がないのなら、早々に失敗してくれればいいものを。近接型のお前が存外に慎重だった上に、列車なんぞに乗られたせいで時間を食ってしまった。功を急いて先走る馬鹿は出るし、その後片付けをさせられるしで散々だ」
そして、わざとらしく大きく溜め息をついた。
「もう面倒だから教えてやるが、ここでその娘が死んでもお前が咎められることはない。最初からそういう筋書きだ。わかったらそこをどけ」
男がその手で追い払うようなしぐさをする。セナがここですべきことは、素直にエマを差し出すことだった。セナに求められていることは従順であることであり、だからいつものように、わかりましたと答え、身を引くだけだった。だが口をついて出たのは、真逆の言葉だった。
「断る」
男の眉がぴくりと動く。
「……なんだと?」
「俺は、彼女の護衛だ」
考えるより先に、そんな言葉が出ていた。なぜそんなことを言ったのかはわからない。だがそれでも、ここで身を引くことだけはしたくなかった。
「それは形だけのものだ。言っただろう、その娘は死ぬ筋書きだったと」
「俺は、そうは言われていない」
だがそう返しつつも同時に、当主に逆らってはいけないという、長く体に染み付いたその考えが、それ以上の行動をためらわせた。しかし引く気配を見せないセナに、男の声が低く地を這う。
「……従順な犬だと聞いていたんだがな」
苛立たし気に呟いた男が、胸元から札を取り出そうとした時、別方向から新たな気配が迫ってきた。
避けようとして、下がらせたエマを思い出した。離れすぎることはできない。僅かな逡巡が隙を生んだ。
横合いから飛び出してきたのは、今までの者達と同じ風体をした赤毛の男だった。とっさにナイフを薙ぐが、男はそれをかいくぐるように避けると、手にした札をセナの足元に押し付け、呪を唱え始めた。
縛られる。思うと同時にナイフを振り下ろす。だが赤毛の男はすんでのところで詠唱を終えてそれを避け、刃の範囲外まで後退した。セナは追おうとしたが、影縛りは成立していた。足裏が地面に貼り付けられ動けない。
男は立ち止まると、ニヤニヤとした顔でセナを眺めた。口元は隠していない。その顔には覚えがあるような気がしたが、思い出すより先に、神経質な声が響く。
「横から手を出すなど、生まれが知れるな」
痩身の男が、言葉そのままの不機嫌さで、赤毛の男を睨みつけていた。赤毛の男が軽薄そうな表情で振り返る。
「いつまでもごちゃごちゃお喋りしてるのが悪いんだよ。それに共闘するなって指示はないだろ?」
「しろという指示もないがな」
「固い奴だなぁ」
薄ら笑いを浮かべたままの男が、再びセナを見やる。そして軽い足取りで近づいてきたかと思うと、流れるような動きで懐から小振りのナイフを取り出し、セナの胸元を横薙ぎに裂いた。




