第17話 教えてください
帰路はエマの要望通りに高速列車を使わなかったので、中心部に戻ったのは昼を過ぎた頃だった。なにか食べたいものはないかと尋ねると、最初の夜に食べたものが食べたいと言われたので、屋台街に向かう。
老爺に硬貨を渡し、二人分の器を受け取ると、ふいに老爺が声をかけてきた。
「ヘイショウよォ」
ヘイショウとは老爺がセナに勝手につけた呼び名で、彼の国の言葉で黒い獣を表す言葉らしかった。セナの肌が黒く、見上げるほど大柄であるかららしい。獣呼ばわりされるのは不本意ではあるが、面倒なので放置している。
「お前さん、どこのお嬢様を攫ってきたんだィ?」
「人聞きの悪いことを言うな。彼女は護衛対象だ」
「うぅむ、そうかィ。じゃあ関係ないかネ」
「なんのことだ」
すると老爺は僅かに声を落とした。
「昨日の、夜辺りからかねェ。見慣れない奴らが、この辺をうろついてんだよォ」
「見慣れない奴ら?」
老爺がゆっくりと頷く。
「ありゃあ、カタギじゃないねェ。なんの目的があってこんなところにいるのかわからないけど、気をつけなァ」
そう言うと、話は済んだとばかりに背を向ける。
カタギではない見慣れない奴ら。浮かんだのは昨夜の侵入者だった。恐らく一人ではないだろうと思っていたが、当たっていたらしい。こちらを狙う理由はわからないが、エマを害させるわけにはいかない。幸い屋敷まではあと少しだが……。
待たせていたエマの元に戻ると、椅子に座るエマは、相変わらず沈んだ様子でぼんやりと顔を俯かせていた。机の上に器を置くと、今ようやくセナの存在に気付いたかのように、ゆっくりと顔を上げる。
「熱いので、気をつけてくださいね」
向かいに座り、割った箸を渡すと、エマは静かに食べ始めたが、やはりどこか上の空のような調子で箸を運んでいる。未だ体調が万全ではないのだろうかとも思ったが、それとは違うような気がした。
すると視線を感じたのか、エマが食べる手を止めて顔を上げた。
「なにかしら」
セナを見つめ返すその顔は、一見するといつもと変わらないようにも見えるが、そうではないことに、セナは気付けるようになっていた。
なぜそんな顔をしているのかと、尋ねたかった。だがいざ尋ねようとすると、やはり上手く言葉が出てこない。そして葛藤の末にようやく口にできたのは、まったく別の言葉だった。
「外は、見られたでしょうか。あまり多くの場所を訪れてはいませんが」
するとエマは視線を落とし、ぽつりと呟くように答えた。
「ええ」
そしてまた、ゆっくりと食べ始める。セナは顔を俯かせた。
胸の奥に、酷く切迫した感情があった。食べ終わってここを出れば、あとは屋敷に向かうだけだ。エマを送り届け、それで今回の仕事は終わる。エマが沈んだ様子を見せている理由も、なにを思っているのかも、そして、なぜ護衛という役割を疑っていたのかも、わからないままに。だが本当に、それでいいのだろうか。
「貴方、食べないの?」
突然の声に顔を上げると、薄水の瞳がセナを見つめていた。その言葉に、まだ一口も食べていなかったことに、セナは今更のように気付いた。
「あ、いえ……食べます」
箸を割り、啜る。だが味覚が麻痺してしまったかのように、口に入ってくるそれらはなんの味も伝えてこなかった。気が付けば器は空になっていたが、食べたという感覚もなかった。
そのまま自覚なく視線を落としていると、静かに食べ続けていたエマが手を止め、唐突に言った。
「だめね」
顔を上げると、食べる手を止めたエマが、半分ほどに減った己の器を見下ろしていた。
「最後だから、食べきろうと、思ったのだけど。やはりわたくしには、少し、多いみたいね。あとは、貴方が食べてちょうだい」
そう言って、器をセナの方に差し出してくる。
「おいしかったわ」
どこか名残を惜しむような、そんな表情だった。エマはそう思っていたのだと、セナはここに来てようやく知ることができた気がした。
初めて見る外の世界。楽しめているのかがずっと気になっていた。笑顔がないことがずっと気になっていた。それでも少なくとも、こんな屋台街の食事を、おいしいと思って食べてくれていたのだ。
それは今まで知ることができなかった、エマの心の一端だった。もっと知りたいと思った。このままで終わりたくないと、強く思った。
セナの中で切迫した感情が、せり上がって弾けた。
「エマ……!」
衝動のように名を呼ぶ。見つめ返してくるエマが、驚いたような表情を浮かべているのにも気づかないまま、セナは言った。
「お聞きしたいことが、あるのですが……」
だがそう続けたものの、いざ尋ねようとすると、やはり言葉が喉につかえ、上手く出てこない。尋ねるということが、酷く重い。言葉を飲み込んできた日々が口を閉ざさせようとし、聞くべきことを押し込める。それでもセナは、沈み込もうとする言葉を必死で引きずり出した。
「……俺はっ、今回の仕事を、あなたが外に出ている間の護衛だと言われました。でもあなたは、そうではなかったのですか?」
喘ぐように息を継ぎ、
「それに今、あなたはなぜ、そんなに沈んだ顔をしているんですか? 教えて……ください……」
セナは自分が、言葉を教えられたばかりの子どものように思えた。言葉を操る呪術師であるのに、酷く滑稽だと思った。エマはそんなセナをじっと見つめていたが、やがてゆっくりと俯いた。
「わたくし、そんなにわかりやすい顔を、していたかしら」
細い指を、己の頬に触れさせる。
「感情は、抑えるよう、言われ続けて育ったのだけど」
エマはしばらくそうしていたが、やがて手を下ろすと、首から下げた指輪に触れた。割れた石をじっと見つめ、指先でそっとなぞる。
「そうね。もう言っても、構わないでしょう。どうも貴方は、違うようだし」
呟くように言うと、指輪を離し、その顔を上げる。
「でもまずは、ここを出ましょうか。人の目と、耳が、多すぎるわ」
そう言われ、セナはここが、多くの人が集っている屋台街であることを思い出した。そんなことすら忘れているほど、エマのことしか頭になかったことを、今更に思い知った。




