第15話 精神を支配する呪
眠るエマを、ベッドに座ったまま見つめる。規則正しい呼吸は確かに睡眠中のそれで、やはり昨日までの警戒は微塵も感じられない。それを見つめながら、先ほどのエマの言葉を思い出した。
――エマに教えて。貴方は、わたくしを殺さない?
あの瞬間、確かに呪が発動していた。恐らく発動条件は、彼女自身が口にする、己の名前なのだろう。返した答えは嘘ではない。本心からのものだ。だが頭で考えるより先に、無理やり引きずり出されるような感覚がした。
精神を支配する呪。しかも己の名を発動条件とするなど、かなり高位のものだ。
本来呪術師は名を明かさない。明かせば相手に支配権を与えることになり、それは文字通り命を握られることになる。だが彼女の扱うそれは、あえて己の名を知らせ、加えて支配権を遮断した上で、相手に効果的に呪を及ぼすことができるものだ。それは先ほどのように相手の本心を暴いたり、もしくは意志を無視してなにかを命じたりもできる。相手の名を支配するものよりは劣るが、相手の名がわからなくても及ぼすことのできる、強力な呪だ。しかしその難易度の高さ故に習得できる者は限られており、セナが知っている中でも片手で足りるほどしか存在しない。
だがエマがそれを習得しているとすれば、今朝のあの奇妙な感覚、エマの言葉に逆らいがたいものを感じ、否と口から出すことができなかったあれも、納得はいく。
自身の名を伝え、口に出させることで相手の中に深く刻む。更に従わざるを得ない形を何度も取ることで、エマの言葉には逆らえないというように意識を誤認させる。そうやって徐々にセナの精神を浸食していたのだ。それが今朝、ようやく効果を及ぼした。
静かな寝息を立てて眠るエマの寝顔は、年相応の幼いものだ。だがその幼さとは裏腹に、高位の呪を修めている。エマはいったいなんの為に、禁を破ってまでそんなものを学んだのか。習得する技能の高さにも驚くが、なによりそれが気になった。
加えて、それを使ってセナに尋ねたものは、嘘をついていないか、自分を殺さないかという、それだけだったのだ。例えばもっと決定的な命令を下すこともできただろうに。
なぜと、仮にセナが尋ねることができたとしても、恐らく答えはしないだろうと思われた。警戒は緩められたものの、それを教えてもらえるほど信を置かれたとも思えない。わざわざ呪を使って尋ねてきたことが、なによりの証拠だ。
第一自分は、当主たる彼女の父親の部下なのだ。尋ねてしまえば、和らいでいる警戒を再び強めてしまう可能性もある。そう考えると、エマが呪を使えることに自分が気付いたということも、言わない方がいいだろうと思った。高度な呪を習得してはいるが、エマは恐らく、呪術の知識が自分ほど深くはないか、どこか偏りがあるように思われる。簡単な結界石の役割を知らないようだったことからも、それが窺えた。となると、熟達した者が呪の気配に気付くということも知らない可能性が高く、恐らく、自分にわからないように呪を使ったと思っているだろう。
目的はなんなのか。それがわかるまでは、今までと同じように振る舞うべきだと思った。
この仕事は、なにがあるのだろうか。ふとそんな思いがよぎった。
そもそも護衛に向いていない自分に護衛を任せたり、失敗してもいいとも取れる言葉を告げたり。だが人柱の命が例の儀式を前に失われては、取り返しがつかなくなるはずなのだ。
数十年前、儀式が正しく行えなかった時は、その後この街は長く呪いに覆われたと聞く。結果、多くの移民が流入することにもなったのだ。それほどに重要な存在のはずなのに。
いつもなら、そういうものだと流していた。気にしたところで、尋ねることは許されないからだ。
だが今回もそれでいいのだろうか。エマに外を見せ、その間護衛を勤め、だが万一エマを護りきれなくても、当主の言を借りれば、それは糧となって仕事は終わる。ではこの護衛という役割はいったいなんなのだろうか。そもそも本当に、護衛なのか?
常ならば抑えつけている疑問は、一度浮かぶと際限なく沸き上がってきた。なぜこんなにも気になるのかと、自問して浮かんだのは、ずっと気がかりに思っていたことだった。
エマが、一度も笑っていない。この外出を終えて屋敷に戻れば、あとは己の身を捧げ、その生涯を終えるだけだというのに。その前に、少しでも広い世界を、喜びを、その為のものだったはずなのに。
自分の立場で考えるようなものではない。自分の役割は護衛。それをこなすだけでいい。だがそれでも思ってしまうのは、エマにかつての己を重ねているからかもしれなかった。
己の意志とは関係なく人生を定められ、逆らうことは許されない。ならばせめて今だけでも、それを忘れられるような時間を過ごすことができないのか。その顔から憂いを払うことはできないのか。
こんなことは、考えたところで仕方がない。自分にそんな権利はなく、役割ですらない。わかっている。ただ少しだけ、それでも思うことが許されるのなら。
エマがなにを思い、なぜそんな惑いの表情を見せるのか、それが知りたかった。知って、その惑いを晴らしたかった。
翌朝は、エマの要望でまた屋台街での朝食となった。今まで食べていたものとおよそかけ離れているであろう料理を再び食べようとするとは、案外気に入ったのだろうかなどと思ったが、エマは相変わらず淡々と食べるのみで、真相はわからなかった。
ただ今日のエマは、食べている最中、しばしばなにかを考え込むように手を止めることが多かった。そして何度目かの折に、米の乗った皿を見つめたまま、何事かを考えている風情を見せながらセナに聞いた。
「一番速い移動手段は、なにかしら」
今、エマの頭の中にはなにがあるのだろう。そんなことを思いつつ、セナは答える。
「街の中に限れば、恐らく列車だと思います。車では渋滞が酷いので」
「では、それに乗りたいわ」
エマの視線は未だ皿の上に落とされているが、恐らく目は皿の上のものを捉えていないだろう。
「目的地はどうなさいますか」
するとエマがようやく顔を上げた。セナをじっと見つめて尋ねる。
「ここから一番遠いのは、どこ?」
随分漠然とした質問だったが、列車に乗った上で街から出ないことを前提とすれば、隣の街との境の駅だった。駅周辺はいくらか発展しているものの、わざわざ目的地にするような場所でもない。だがエマにとってそれは問題ではないような気がした。
「場所としては、街の端の駅になりますが」
「では、そこに行きたいわ」
エマがなにを目的としているのかはわからないが、それがわかるまでは極力従うのがいいだろう。幸いにして、戻るまでの日数は決められていない。
「わかりました。でしたら高速列車を使いましょう。そこまではそれなりの距離があるので」
「お願いするわ。それと、これ、もう満足したわ。あとは、貴方が食べてちょうだい」
そういって差し出された皿は、だがいつもの半分も減っていなかった。




