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その指が温かくなるまで。  作者: 銀子


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第11話 吐息さえ触れそうな距離



 市場の切れ目で、横に繋がった路地に入った。周囲に不審な人影がないかを確認し、トランクを地面に置く。そしてエマの手を離すと、先ほどの指輪と鎖を改めて手に取った。

「その服にポケットはありますか?」

「ええ、あるわ」

「なら、そこに入れておきましょう。身につけなくても、持っているだけで効果を発揮するようにするので」

 するとエマが、セナの手元に目を落とした。

「その鎖を使って、下げてはいけないの?」

「あなたは既にチョーカーをつけていますし……」

「構わないわ。せっかくの、お守りなのだし」

 そう言われると、つけるしかない。セナが指輪を鎖に通すと、エマが背を向け、髪を上げて首元を露わにした。

「つけてちょうだい」

 セナは、エマの腕の間から手を差し入れると、鎖をかけ、留め具を繋ぐ。手を離すと、髪を下ろしたエマが向き直った。

「では少し、失礼します」

 セナは首筋の鎖を手に取り、滑らせるようにして、指輪を手の先に置いた。少し屈んで顔を近付けると、口の中で短く唱え、ふっと息を吹きかける。指先を温めるのに使ったのと同じ、おまじないだった。

 胸に触れないようにそっと指輪を戻すと、それを目で追っていたエマが、セナを見上げた。まっすぐに見上げてくるエマは、だがなにも言わない。

 どうしたのだろうと思っていると、エマは己の胸元に視線を落とし、鎖に通された指輪を手に取った。黒い石の嵌まった指輪をじっと見つめ、やがてぼそりと呟く。

「貴方の瞳と、同じ色ね」

 そう言われ、セナは今更のように気付いた。確かに指輪に嵌められた石の色は、自分の目と同じ色をしている。だがそうなったのは偶然で、まったくそんなことは考えていなかった。

「ご不快でしたか」

 今からでも別のものを買い直すか、と思いかけたが、エマはゆっくりと首を振った。

「いいえ」

 その手を離し、指輪を胸元に戻す。不快になったわけではないのか、と思いつつも、エマの意図が読めずにいると、セナの後ろを一人の子どもが通り過ぎていった。この界隈でよく見かける、襤褸のような衣服をまとった子どもで、セナは特に気にも留めていなかったのだが、子どもは通り過ぎ様、セナの傍に置かれたトランクの持ち手を掴んだ。振り返るのと、子どもが路地の奥に向かって走り出すのはほぼ同時だった。

「待て!」

 セナはすぐさま追いかけた。狭い路地を走る子どもの足は速かったが、トランクが思いの外重かったのか、その足はすぐに鈍った。距離が縮まり、その襟首を掴まえると同時に後ろに引き倒すと、子どもは呻き声と共に仰向けに倒れた。セナはその手から、引き剥がすようにトランクを取り上げる。

「相手が悪かったな」

 倒れたままの子どもが、悔しげに見上げてくる。路地裏に住む子どもがスリや置き引きに手を染めることなど珍しくもないので、驚きはなかった。だが安堵したのも束の間、離れたところで小さな悲鳴が上がった。顔を上げると、一人残されたエマが、傍に現れた男に担ぎ上げられたところだった。

「エマ!」

 本命はこっちか、と気付くも遅かった。即座に走り出し、背を向けた男を追いかける。男は狭い路地をいくつも折れてセナを撒こうとしたが、一帯をすべて把握しているセナにとっては意味のないことだった。

 男は、小柄な少女とはいえ人一人を抱えているせいか、その動きはあまり俊敏ではない。加えて、セナの足が見た目に反して速かったことも、男にとっては想定外のようだった。

 やがて男は、脇道のない直線のみの路地に入った。セナは走りながら腰を落とすと、持っていたトランクを男の脚めがけて投げつけた。横回転したトランクが男のふくらはぎに激突し、バランスを崩した男が前のめりに倒れかける。エマの体が慣性で投げ出された。

 セナは地面を強く蹴って飛び出すと、その体を抱き留め、背中から地面に落ちた。衝撃に息を詰めながらも即座に上体を起こすと、起きあがった男が、慌てふためきながら足を引きずり逃げていくところだった。

 次第に見えなくなっていくそれを追うことはせず、腕を解いてエマを見下ろした。

「お怪我はありませんか」

 セナの胸の上で体を起こしたエマは、驚きと衝撃の余韻をその瞳に宿したまま、顔を俯かせていた。

「大丈夫ですか?」

 改めて声をかけると、エマが顔を上げる。吐息さえ触れそうな距離で、長い睫毛に縁取られた、宝石のような瞳がセナを見上げた。驚きの色は薄まり、なぜか戸惑いと、困惑に似たものが浮かんでいる。

 なぜそのようなものを感じているのだろうと、そう思いながらも見つめ返していると、エマは顔を伏せて瞬きをひとつし、浮かべていた感情を消し去った。

「大丈夫よ」

 静かな声音で告げ、立ち上がろうとする。そんなエマに手を貸し、セナ自身もようやく立った。エマのワンピースについた僅かな土埃を払いながら、怪我がなさそうなことに内心安堵する。

「申し訳ありませんでした」

 そう言うと、エマが不思議そうに見上げてきた。

「もう少し、周りに気を配っておくべきでした」

 子どもだからと油断していた。自分一人ならこんなことはなかっただろうが、エマはこの辺りでは明らかに浮く存在だ。いつも以上に警戒すべきだった。

「でも、大丈夫だったわ。貴方が、助けてくれたもの」

 セナを見上げるその瞳には、再び僅かな戸惑いが閃いていた。だがなぜそのような感情を抱くのか、やはりセナにはわからない。

 セナをじっと見つめていたエマは、その目をふと、投げ出されたままのトランクにやった。

「随分無茶を、するのね」

 セナははっとして、トランクに歩み寄り拾い上げる。破損はないものの、僅かに傷がついていた。

「申し訳ありません……」

 とっさの行動だった。暗黙のルールとして、呪術師は一般人に呪術を使うことを禁じられている。力を持たぬ者に対する呪の行使は、一方的な虐殺になるからだった。そしてセナは、相手を殺さずに対処するということに、慣れていなかった。

 エマは再び視線を落としたが、その顔色は、どこか優れないようにも見えた。もしかしたら先ほどの出来事が、衝撃的に過ぎたのかもしれない。

「違うところに行きましょうか」

 ここにいては、またいつ先ほどのような状況になるかもわからない。嫌だと言われてもどうにか説得しようと思っていたが、エマは意外にも素直に応じた。

「ええ」

 そう言って、俯いたままそっと手を差し出してくる。市場を出るのなら手を繋ぐ必要性もあまりないように感じられたが、体調が悪いのならば、歩くのに辛さもあるのかもしれない。

 そう思って手を取り、そのまま歩き出すと、酷く冷えた指先が、遠慮がちに握り返してきた。




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