関ヶ原の勝者
広大な海原に鳥が舞う。
そして、そのはるか向こうに小さな島が見える。
白椿はそんな光景を船上で眺めながら、太陽と海風を一身に浴びていた。
鳥も通わぬ八丈島。
あの島はそう呼ばれた島だが、実際はしっかり鳥はいる。
そして、そこには人間も住んでいるのだ。
やがて船は、島に着く。
白椿がどうにか陸に上がると、待ちわびていたらしき人々が一斉に出迎えてくれた。
その先頭に居たのは、一人の老人。
彼は、太陽に焼かれた顔で、白椿に丁寧にお辞儀をした。
「お久しぶりでございます。白椿様、いつ見てもお変わりなく」
年老いてはいるものの所作には一分の隙もない。
白椿は、その老人に丁寧にお辞儀を返した。
「加賀藩の船に使いとして乗せていただいた。いつも通り、米と金子、あと書状も承っておる」
「はい、いつもありがたい事で。おかげ様で、久しぶりに子や孫らに米の飯を食わせてやれます」
老人は、何よりそれがうれしいのだという顔で、荷下ろしされる米俵に手を合わせた。
老人の名は八郎。
この八丈島に流刑になった最初の人間である。
八郎に最初に会ったのは、十を数えるかどうかの頃だった。
旅先で突如捕縛された白椿は、強引に領主の元に召し出された。
そこには、病に侵され、余命いくばくもない領主。
そしてそこに八郎がいた。
領主の要望は、白椿がうんざりするほど聞いたものだった。
不老不死の秘法を授けよ、というのである
背後に武士たちの殺気を感じながら、白椿は何百年も繰り返した返答をしていた。
「不老不死になった経緯はお話した通り、いわばこの体は我が不徳からなる病がごときもの。風邪や腹痛に類いならいざ知らず。意図してこのような大病になる方法など分ろうはずもございません。領主様とて同じでございましょう」
背後で、誰かが柄に手をかける音が聞こえる。
周囲が、自分の言葉をどう捉えようが知った事ではなかった。
むしろ切り捨てて城の外に放り出してもらった方が助かる。
白椿はそれほどまでに、この手のやり取りにうんざりしていた。
だが、領主はそれを手で制した。
そして、弱り果てた顔で自嘲気味に笑ったのである。
「……なるほど、わしは確かに罪を犯してきた。欺き、裏切り、殺し……このような病になったのはその報いかもしれぬな」
恐らくこの男には、心当たりが山ほどあるのだろう。
この乱世、そうでもしなければ生き残れない。
やむにやまれぬ事情があった事を白椿は痛みに耐え、咳込む彼の姿に垣間見た。
領主は、その使命を果さんがため、藁をもつかむ気持ちで自分を強引に引き立てたのだろう。
領主はそんな心の弱い自分を笑っていた。
「……ならば、この業はわしがすべて請け負わねばならぬ。死ぬのが定めというならそれを請け負おう……ゆえに、せめてそれで守ったものにその業は背負わせたくはない……比丘尼殿、長く生きて来たなら、せめて祈ってくれぬか?何の罪もない、この子は八郎には、我が一族には、わしの因果が及ばぬよう。このわしの業を、わしの代で終わりにすることを……」
そこに居たのは、もはや死を前にした一人の父親に過ぎなかった。
白椿は、領主の願いを了承し、領主の死からしばらく、弔いの為この地に留まることになった。
次に八郎会ったのは、それからずいぶん経ってからの事だった。
八郎は立派に成長し、一国の領主となり、朝廷から中納言の官位を賜るほどの身となっていた。
彼は旅のついでに父君の墓参りをした白椿の前に、家臣を引き連れて颯爽と現れたのである。
惚れ惚れするほどの美丈夫に育っていた彼は、白椿の事をしっかり覚えていた。
「やはり白椿殿か!お久しぶりでござる。」
「これは、中納言様。ご立派になられまして。父君もさぞお喜びでございましょう」
「なんの、これも太閤様引き立てあってのこと。白椿殿ともども、足を向けて寝られませぬ」
彼はそう言うと、下馬し、さわやかに笑った。
居並ぶ歴戦の古強者の中で、若くしてここまで出世したものは居ない。
久しぶりに会った彼には、若者らしい熱心さと謙虚でまっすぐな性格が育っていた。
これはさぞ、太閤様もかわいがってくださるだろう。
白椿は、あの十年以上前の陰鬱なお城の中の様子からは想像もできないような様子に、喜びを禁じ得なかった。
だが、物事が何事も、順調に進むことはない。
白椿は、その後の茶席で、その件を八郎に話した。
「……時に中納言様。家中に不満の声がうずまいておる様子……ご存知でございますか?」
自分の言葉に、八郎は心当たりがあるようだった。
彼は、茶碗の中に目を落とし、苦々しい顔をしてから茶を口にする。
「……お聞きになっておられるか……この辺りが悩みの種でしてな。太閤様からのお指図も多いし、私も期待に応えようとあれこれやっておるのだが、その分父の頃からの恩顧の者からは不満が多くてな……実際、我が家を去った者も多い」
「……それでは家中が立ち行かぬのではないか?」
全国に先立っての検地、繰り返される出兵、そして他家からの介入。
この時、家中は対立の火種が、よそ者の白椿ですら分かるほどにあちこちでくずぶっていた。
「父上の頃の事を想えば、小事でございましょう。太閤様あればこその私でございます。不平な者が出て行けば、その分まとまりやすくもなりましょうし」
若さゆえの楽観か、あるいは白椿に心配をかけまいとしたのか、八郎は笑ってこう言ったのである。
八郎の言う通り、それは太閤豊臣秀吉の権威あっての、極めて脆いものであった。
数年後、太閤の死去に伴い家中は大いに乱れ、さらに多くの離反者を出す結果となった。
そしてそのすぐあと、あの関ヶ原での合戦が起こる。
家中は大量の家臣が離れたことで弱くなり、戦どころではなかったのが、八郎は引くに引かれず出兵する。
今にして思えば、それは負けるべくして負けた戦いだった。
次に八郎に会った時、彼は逃亡者になっていた。
関ヶ原で全軍が崩壊し敗軍の将となっていた彼は、ひそかに大阪で匿われていた。
知人の尼の仲介で密かに面会した時、彼は敗戦の不満と憤りを隠す様子が無かった。
「金吾が!あの恩知らずが裏切りさえしなければこんなことにはならなかったのだ!あの男、聞けば我が領地にのうのうと入るという。どの面下げて私の後釜に入るというのだ!あの恥知らずめ!」
そこには美丈夫と呼ばれた若武者の姿はなく、ただ落ちぶれた一人の武将が、敗戦の責任を誰かに求めている姿だった。
加えて、決戦で裏切り者となった金吾中納言への怒りはすさまじかった。
同じく、太閤秀吉に可愛がられた年下の男の裏切りは、彼にとって耐えがたいものだったのだろう。
加えて彼には、つい先日まで自分の領地だった国が褒美として与えられたのである。
屈辱と怨嗟が抑えられず、八郎は床を殴りつけていた。
「私はこのままでは終わらぬ!散り散りになった家臣と兵を集め軍を起こし、あの金吾と刺し違えてでも地獄に落として、父の守った領国を取り戻してやるのだ!比丘尼殿もご加勢あれ、私の書状を渡しますゆえ、潜伏する家臣のたちに渡していただきたい」
それは血気盛んな気性がむき出しになった、あまりにもまっすぐな、そして危うい物言いだった。
白椿はそれに今更ながら、と付け加えた上でこう言ったのである。
「そのまっすぐさが、家中に混乱を起こし、ひいては今日の結末を迎えたともいえましょう。中納言様をお恨みになるのは致し方ございませぬが、今は命あるを喜び。きらびやかでなくとも、平穏な日々を過ごせるようお祈りくださいませ」
だが、その言葉に、八郎は子供の用に不貞腐れた。
「……父上の代からとは言え、私の代でこの家が終わるのは忍びないのだ……!まして家臣や金吾まで裏切るとは……!私は父上に合わす顔が無い!あれが正義というなら、この世には神も仏もおらぬとしか思えぬ!」
「勝負はまだ終わってはおりませぬ」
白椿は、八郎に静かに言った。
「起きたことは、致し方のうございます。要らぬ欲を捨てたその先に、真の喜びと、心の安らぎがございます。命尽きるその時まで望みを捨てず、今は時を待つのです。さすれば、いずれ道が開けましょう」
そう言う白椿の言葉に、八郎はただ、歯ぎしりして泣きながら床を殴りつけるだけだった。
彼は、やり場のない怒りをぶつける先が無く、悶えているようだった。
結局、潜伏しつつ、呼びかけても、八郎は散り散りになった家臣や兵を集める事はできなかった。
その後、八郎は密かに薩摩へ渡った。
次に、八郎に会ったのは、2年ほど経った後、伏見でのことだった。
政治的駆け引きに使われたのか、切り捨てられたのか、彼は薩摩からの通報で伏見に召し出されていた。
いつの間にか剃髪していたようで、八郎は僧形となっていた。
面会に白椿が姿を現すと、八郎は開口一番こう言い放った。
「……金吾が死んだそうでございますな」
それは、静かな、というよりは。澱んだ感情からひねり出された、静かな言葉だった。
彼は、慣れぬ生活のせいかすっかりやつれていた。
「しかも、狂い死にだそうですな。お家は改易とか……」
白椿は、八郎の心情を図りかね、一瞬返答に窮した。
「……よくご存知じゃな。中納言様もご心労がおありだったのじゃろう」
白椿がそう言うと、八郎は何かにとり憑かれたように、乾いた笑い声をあげた。
「白椿様のお言葉通りじゃ……!神仏は見てくださる……!あ奴は死に!私は生きておるのです!……こんな痛快な事があろうか……!」
それは絶望の中で彼がただ一つ見つけた、小さな、だが後ろ暗い幸福だった。
白椿には八郎が泣いているのか、笑っているのか判らなかった。
「白椿殿、勝負はまだ終わってはおりませぬ!どのような手を使ってでも生き残り、死するその瞬間まで諦めず。生きて必ずや、家を再興してみせます!」
八郎はこの時もまっすぐなままだった。
そして、後日沙汰が下された。
様々な者たちの助命嘆願もあり、八郎は死罪を免れた。
下されたのは、流罪。
八郎は、海を隔てたはるか彼方、八丈島に流刑となったのである。
それは、大名としての復権を望む八郎にとっては、絶望的な場所だった。
さて、あれから何十年経っただろう。
八郎は、この島の生活が生涯で一番長くなっていた。
白椿は、老人となった八郎の顔を眺めた。
加賀藩からの援助はあったとはいえ、慣れぬ島の暮らしは長く、過酷であったのだろう。
結果、八郎からは以前の面影が完全に消えていた。
そこにいるのは島に住む人であり、苦労を皺に刻んだ柔和な老人でもあった。
彼は孫子に米の飯を食べさせることを我がことのように喜び。
島の者から長老として尊敬される存在になっていた。
「……不思議なものです。島に流され、権力も、金も、明日の食い物にも困る暮らしになって、必死に生きていくうち。不思議な事に、わしはどんどん気楽になっていきました」
穏やかな、海の景色。
そこに住まう島民たち。
彼らを見下ろしながら、八郎は誇らしげに語った。
「守るのが家の者の命だけになった事のなんと気楽な事か……そして、心配事が消えるほんの一瞬に、本当の幸せを感じるようになったのです」
それは、何十年もこの島で生きた彼が見つけた、彼自身の幸せだった。
彼の表情は若い時には考えられないほど穏やかだった。
「裏切った家臣も、金吾も、もはや憎いとは思いません。若い頃、わしらは何を必死に争って居ったのかとすら今は思います」
八郎は、そう言って自分の一生を振り返っていた。
権力、富、名声すべてを失い、生きていくのに必死なだけのはずの彼は、不思議な事に今までで一番幸せそうに見えた。
「関ヶ原で負けたことも、この島での流人生活も、お主には良き糧となったのじゃな。本当に今までよく頑張ったの、八郎」
そう言って、八郎の人生と、今までの苦難を労った。
だが、八郎は笑顔で首を横に振った。
「いやいや、まだまだこれからです。死するその時まで、勝負を捨てさえしなければ、時は必ず訪れる。勝負はまだ、終わってはおりませぬ」
そう言うと、八郎は若武者の頃のように笑った。
白椿が島を後にしてすぐ、八郎はこの世を去った。
50年以上にわたる八郎の流人生活はこうして終わりを告げた。
宇喜多八郎秀家、享年84
彼は、関ヶ原の合戦に集まったすべての名だたる武将の中で最後まで生き残った男となった。
彼の一族が、島を出ることが許されることになったのは江戸幕府が滅んだ後の事でとなる。
最後、八郎は勝利者となった。




