椿枯れる時
この年、白椿は何百年ぶりに故郷で年を越した。
不老不死の体となり、「八百比丘尼」と呼ばれたこの尼は、一向に老いぬ人相の為、ある程度時がたてばふらりとどこかに旅立つ事を繰り返していた。
今回も、しばらく京の清水で世話になってはいたのだが、子供と思っていた者がいつの間にか大人になっていくのを見て、いい加減旅立つことを決意した。
さて、どこに?
という所で、ここ、若狭国を選んだのは京から近いという事もあったが、やはり自分の生まれ故郷だったからだろう。
白椿は、後瀬山と呼ばれる山のふもとで庵を構え、誰かが掘ったと思われる洞窟の石仏に手を合わせるのが日課となっていた。
この日も、白椿はお勤めを終わらせ、洞窟の外に出た、海風が吹き付け、凍えるような外には椿の花が赤く咲き誇っていた。
「こうして見ると、なんと見事な。まこと椿は白椿様そのものでございますな」
隣でそう言ったのは、白椿と共に庵に暮らす尼、かめである。
夫に先立たれ、近くの寺で下女をしていた彼女であるが、半年ほど前に白椿がここに住むにあたって、何かと良くしてもらった縁もあり、今では弟子として、なにかと行動を共にすることが多くなった、白椿の正体を知る数少ない人物である。
白椿は彼女の言葉に
「そうか……そういえば、私の名は白椿であったな」
と、しみじみと周囲の椿を見回した。
「はい、このような冬にも可憐に咲き、長く枯れない……そのような想いあって、やはりその名を名乗られたのですか?」
見た目は自分よりはるか年上のかめが少女のように問う。
白椿はそれに、自分が出家したはるか昔の事を思い出していた。
「いや、この名は儂を出家させてくれた僧につけてもらったのじゃ、あの時は何のことか考えることもなかったが……」
「素敵なお名前でございます」
そう言うかめに白椿は照れ臭そうに笑った。
さて、あの時の僧は、自分に何を思ってこの名をつけたのか。
白椿は、雪の中で咲く椿と、故郷の空と風景を感慨深く眺めた。
もうあれから、何百年経ったのか。
自分は長く生き、何かを成しえたのだろうか。
すぐ近くの浜辺から見える海は、あの頃から少しも変わらないように見えた。
しばらく、平穏な故郷での日々を過ごす白椿だったが、平穏は長くは続かなかった。
それは、近くの漁師、庄三郎が訪ねてきたことから始まった。
「比丘尼様、申し訳ねぇんやけど。一度ここをお移りになったほうがええ。」
それは、この辺りの漁師たちの顔である老人の深刻な忠告であった。
ただならぬ様子を察し、白椿は顔をしかめた。
「何かあったのか?」
「新しい守護が近くまで兵を出してきた……下手すると戦になりそうなんや。」
その言葉に、近くで聞いていたかめが青い顔をして、
「……すると、武田の代官が?」
と、庄三郎に聞き返した。
どうやら、この辺りでは予想された事のようである。
「何故新しい守護が来たら戦になるのじゃ?ここ、小浜湊は帝の御料ではないか?」
白椿は改めて問い直した。
かめと庄三郎はそれに、複雑な顔を見合わせ、口を開く。
「……はい、ここ小浜湊はおっしゃる通り古くから帝の御料。帝に海の幸をお納めするのが務めでございます。少し前は、一色様がここ若狭の国の守護として、御料の代官も務めていたのでございます」
「……一色様と言えば……」
かめの言葉に白椿は思い出した。
そう言えば京にいた時聞いたことがあった。
庄三郎がそれに大きく頷く。
「そうや、あの悪名名高い、万人恐怖の公方、義教の命で殺されたんや。それで、殺した張本人の武田が褒美としてこの若狭国に任じられてのりこんできたっちゅうわけや」
庄三郎の言葉には、はしばしに守護武田氏に対する印象の悪さが見え隠れしていた。
それに困った顔をする白椿にかめがさらに補足を入れる。
「今この小浜湊にいる伊賀様は、一色様から派遣された代官。ここ数年、主君を討った武田様の代官と変わることを良しとせず、いくさも辞さぬ構えです。この辺りの他の御料、遠敷や今富の禁裏御料の者も同じような構えで、武田様も、大飯の方に本拠を置くしかなかったとの事ですが……」
「主君を討たれ、役を奪われてはたまらぬ。というところか……」
白椿は重苦しい息を吐いた。
この手の武家同士のいざこざというものはなんとも厄介なものである。
恨みと義理、面子、そして税による利が複雑にからみあい落としどころが無い。
実際、京ではそのような話が満ちあふれていた。
「万人恐怖」といわれた公方も最初は、自らの権威と面子、そして治安と法を守ろうとしていたに違いない。
だが結果は、おびただしい数の粛清。
処された武家は数知れず。
比叡山の寺には火が放たれた。
結果、公方本人も配下の武将によって殺され、将軍の権威は結果的に地に落ちた。
先年、また新たな公方様が擁立されたとは聞いたが、近臣たちの対立がひどく。もはや幕府にこのようないざこざを裁定する力はない様子だった。
「わしらとしても、一色様と長らくやってきた手前。急に代わられる事は面白ないし、武田は戦の為になんじゃかんじゃと税を課しておるという。ここは帝の御料や、武家からも税を取られたらかなんのや」
そして、この小浜湊の漁師たちの心情である。
長年うまくやっていた代官から、何をするか分からない他所から来た代官に取って代わられる不安。そして、生活苦の上に税を取り立てられるのではないかという不安……。
「戦は避けられぬか」
白椿の問いに庄三郎はうなづいた。
「聞いた話やと、山向こうの勢浜村まで武者が来とると。伊賀様も、わしらもこの小浜湊には一歩も入れん構えや。比丘尼様も巻き込まれんうちにはようお逃げになった方がええ」
なんとも、京だけかと思えば、知らぬうちにこの若狭国でも厄介な事になっていたものである。
白椿は天を仰ぎ、しばし考えた。
さて、自分のすべきことは逃げる事であろうか。
自分は死は恐れぬ。
ならばやるべきことがあるのではないか。
白椿は短い思案の末こう、庄三郎に告げた。
「伊賀殿に会わせてはくれまいか。戦にならぬ道を、問うてみたいのじゃ」
それは自分しかできない事のように、白椿には思えた。
代官の館は臨戦態勢だった。
鎧武者に、周囲の漁民たちまで集まっている。
武田への恨みと、自分の地を荒らされまいとする、覚悟と意地が見て取れる。
庄三郎に案内されて、館に入った白椿は、かめを置いてきたことを正解だと思った。
この殺気立った武者たちの空気は、彼女にはとても耐えられるものではなかっただろう。
代官伊賀監物は鎧姿で白椿を出迎えた。
「お主か、八百年生きたという尼は」
目通りを許される前に。庄三郎を通じて、白椿は自分の正体を明かしていた。
そうでもなければ、小娘のような外見の自分の話など聞いてもらえるはずもない。
信じてもらえるかはともかく、ここは使うべき札であった。
「お忙しいところお目通りいただきありがとうございます。此度は、戦を避けられるものかと思いまして」
白椿の言葉に、監物はやはりそうか、と面白くもなさそうな顔をした。
「いかにも、尼らしき物言いよな。確かに、戦はこちらもしたくない。ワシもいろいろ考えた。じゃが、どうにもならぬのじゃ。主君の仇にこの小浜湊を譲れば、我ら一党は路頭に迷う……何を奴らと話すことがある?」
「ごもっともでございます。……しかし、領民を巻き込めば、後に様々な禍根も残りましょう。ここは、御主君のお恨みはさておき、この禁裏御料たる小浜湊を荒らさぬよう務めるのもまた、代官の務めかと存じます」
白椿の言葉に監物は少し驚いた様子だった。
少女のような見た目に利発そうな物言いに彼女が本当の「八百比丘尼」ではないのかとうっすら気づいたのかもしれない。
監物は、今までと少し違った顔で白椿を睨んだ。
「……ではなんとする?我ら一党は、黙ってここを去るのが筋と申すか?」
「……いえ、そうならぬよう。落としどころを探すのが正しき道と存じます。つきましては。勢浜まで来ておるという武田方と話をしてまいりましょう。私は死なぬ体。力無き尼ではございますが、死を恐れず物申すことはできましょう」
白椿の言葉に、監物は即答しなかった。
周囲の者たちと目を合わせしばし考え込む。
そして、近臣の者が何やら耳打ちしたところで、彼の判断は決したようだった。
「よし、駄目で元々じゃ。ではこちらの要望をまとめ、お主に渡そう。死を恐れぬというその覚悟見せてもらおう」
こうして、白椿は名代として武田方に赴いた。
小浜の海は、周囲に複雑に入り組んだ岩場や浜が続く巨大な湾である。
小浜湊から勢浜村までは山一つ隔てた向こう側ではあるものの、船で行くならばすぐ隣の浜でもあった。
そんな海を、白椿は庄三郎の船に揺られていく。
白椿の故郷でもある勢浜村には遠目にも確認できるほどの兵を集めていた。
それにおびえる庄三郎に白椿は優しく声をかけた。
「庄三郎、すまぬな。つき合わせてしまって」
それに庄三郎は、大きく首を振る。
「いやぁ、白椿様がワシらのために頑張ってくれてるんやで、これくらいはせんと。しかし、白椿様もお気をつけて……」
それは、小娘のような彼女が堂々としているのに、自分が逃げ出すわけにはいかないという意地もあるのだろう。
白椿はそれに微笑むと、勝手知った勢浜の砂浜に船をつけるように指さした。
「安心せよ、儂は死なぬ。いざとなったら迷わず逃げよ」
そう言って白椿は慣れた様子で砂浜に降り立った。
武田方の武将内藤信光は書状に目を通すと、難しい顔で書状と白椿を見比べた。
嘘か真か、八百歳の尼を使いによこしたという話の真偽を疑っているのかもしれない。
だが、白椿は、その髭面の武者を、若く美しい顔でしっかりと見返していた。
「……戦にならぬのは良きことであるが、御料の代官はそのままに……という話は承服しかねる。こちらは若狭国守護武田様より、代官として遣わされておるのだ」
「確かに、武田様は若狭国守護。ですが、それは公方様の都合。対して小浜湊は禁裏の御料、これは畏れ多くも帝の御都合でございます。禁裏に納める税の代官は禁裏の指図で動かすのが筋というもの」
白椿の言い様に信光はぎょっとなった。
おおよそ、見た目と話す内容の差には不気味なものを感じたのだろう。
白椿はさらに続けた。
「伊賀殿も、言い分が通れば、御主君の恨み言は言わぬと申してくださいました。ここで民を巻き込んでの戦になれば。小浜湊は禁裏の御料としての役割も果たせなくなります。若狭の国には、御料以外の地もございます。ここはどうか、お互いの益になる良き道を歩んでくださりませ」
そう言う白椿に信光は即答しなかった。
近臣たちと顔を見合わせ、困り顔でうなり声を上げる。
だが、近臣の一人が、耳打ちしたことで信光の意は決したようであった。
「では、一度赴いて話は聞いてみよう……だが比丘尼殿、領民どもが素直に従わぬ時はいかにする?」
そう問われ、白椿は微笑んで答えた。
「その時は、私が身をもって。その者たちを説き伏せましょう」
固い決意の尼に、信光は返答の書状を渡した。
数日後、信光率いる騎馬武者が山を越え、小浜湊に現れた。
伊賀氏との対話は浜で行う事となり、白椿は彼らが悠々と姿を現す姿を感慨深く見守っていた。
「なんと素晴らしき事!白椿様は戦をも止めてしまわれたのですね。仏門にいるものとしてこれほどの功がありましょうか」
隣にいるかめも白椿を尊敬しなおした様子であった。
それに、白椿は照れ臭そうに笑う。
「いささか、甘い話とは思ったが、やってみるものじゃな。話がうまくまとまればよいが」
白椿が思い描いたとおりの、理想的な展開であったが、これでうまくいかなかった話など数多ある。
問題はこれからと、白椿は浜に向かった。
浜には人々が集まり、固唾をのんで武田方の武者たちが入って来るのを見守っていた。
よほどこの度の会談の結果が気になるのか、本日は漁もせずに集まったようである。
そして砂浜を見下ろす位置に来た白椿は辺りに漂う殺気に気が付いた。
「……これは?」
それは、集まった者たちの顔つきであった。
武者のみならず、漁師たちはみな殺気立った目で武田方を見ている。
そして、武田方は、その者たちに囲まれ、背後を海にした、いわゆる袋小路に入っていったのである。
「……まさか!」
白椿が気づいたその瞬間、指図が飛んだ。
周囲の武家たちが一斉に弓を構え、漁師たちも武器を構え、石を拾い上げる。
それは浜にいる内藤信光はじめ、やってきた武者たちに一斉に放たれた。
白椿は、伊賀監物に自分が利用されたことにようやく気付き、叫びながら駆け出していた。
「やめろ!やめぬか!」
石を投げる領民たちを諫めながら、白椿は監物に駆け寄った。
浜の内藤たちは盾で飛び道具を防いではいるが、武器を持った者たちに一斉に押し込まれたらひとたまりもない。
だが、監物はそれに馬上でしてやったりという顔で眺めていた。
「比丘尼殿、謀って済まぬが、これが戦というもの、このような所にのこのこやってくる方が悪いのだ!」
そう言って高らかに笑う監物。
それに白椿は今更ながら、自分の考えが甘かった事に気づかされた。
「このような事をして何になるのだ!憎しみが憎しみを呼びさらなる災いを呼ぶことになるとなぜ気づかぬ!」
「人は皆、比丘尼殿のような物わかりの良いものばかりではござらん!ましてや主君の仇、ましてや我らの領地、武士にとってはこれを譲るのは死ねと言っているのと同じじゃ!」
それは、確かに事実だった。
白椿の言う通りにすれば武士の面目は立たない。
やはり、自分の目論見が甘かったのか?
だが、白椿がそれに何か言おうとして顔を上げた瞬間、監物は白椿の目の前で喉を矢に貫かれた。
唖然とする白椿の目の前で、何事が起ったか分からぬといった顔で口から血を吹き、そのまま馬から落ちる監物。
矢が飛んで来た方に目をやると、そこには、盾を影に弓を放った信光と、背後の海の岩陰から武者を乗せた無数の小舟が現れるのが見える。
どうやら、あらかじめ向こうの浜から船を出し、岩陰に兵を伏せていたのだろう。
この辺りの入り組んだ岩陰に隠れられていたら、確かに浜からは見ることはできない。
船を出している者が誰もいないことで、こちらからも気づけなかったようである。
つまり、信光も端からこうなることを予測していたようだった。
「……五十歩百歩じゃな」
呆れとも、怒りとも思えぬ感情が、白椿の胸に巻き起こる。
もはや、誰をどのように導いたら良いかすらわからぬ。
白椿は、途方に暮れ、その場に立ちつくした。
そして、浜に集まった者たちに、船からの矢が、それこそ雨のように降り注ぐ。
反撃を全く予想していなかった小浜湊の武士と領民は、それを防ぐことができなかった。
そして、浜辺が大混乱に包まれる。
矢は、武士や、武器を持った者のみならず、白椿のように何も知らずに集まった、女子供にも容赦なく降り注いだ。
逃げまどう者。
矢を背中に受け、苦しみ悶えるもの。
負けじと応戦する者。
もう、どうすればよいか分からぬ。
白椿は、その混乱した状況に、頭が真っ白になっていた。
……いや、逃げねば。せめて巻き込まれた領民たちを助けねば!
止まりそうな思考を無理に動かし、辺りを見回す白椿。
だが、すぐ後ろのかめの様子に、白椿は再び言葉を失った。
彼女は、頭に矢を受け、倒れ伏していた。
彼女は、声を上げる事もできないまま、隣でこと切れていたのである。
そして、立ち尽くす白椿に矢が突き刺さる。
なぜこんな事になった?
痛みが走り、血が流れる。
その場に崩れ落ちながら、白椿は考えた。
誰が悪い?どこで間違った?
そして、なぜ死ねない?
血は流れる、激痛が走る。
だが白椿は死なない。
矢を幾本も受けても、痛みを味わっても。
白椿にはそのまま眠ることは許されなかった。
矢を引き抜けば傷がふさがってゆく。
だが、心の痛みは彼女に残り続けた。
いっそここですべてを投げ出し、あの世に行くまでを待つだけなら良いのに。
白椿はよろめきながらも立ち上がることができた。
なぜ?いつも自分だけが生き残るのか?
これほどのしくじりをしても、なお。
ならばどうすればよい?
この命、どう使えばよい?
そして、武田方は、満を持しして砂浜に上陸してきた。
初手で、大将を失った伊賀の一党は混乱し逃げ散っていく。
その混乱の中、白椿はかめの骸を抱き、涙を拭いて立ち上がっていた。
数刻後、漁師たちは、付近の寺に逃げ込み、立てこもっていた。
武田方の兵は、それを取り囲み、対峙する。
山を背にし、門も塀もある寺は小さな砦にもなる。
領民たちは女子供問わずそこに逃げ込んでいた。
信光はそれに
「厄介な所に逃げ込んだものだ」
と吐き捨てるようにつぶやいた。
だが物は考えようだ。
あの寺に火をかければ、反抗的な領民はまとめて始末できる。
信光がそう考え、いよいよ火を放つ検討を始めた頃、血まみれの白椿が現れた。
「……お待ちください。内藤様、これ以上はどうか、おやめ頂きますよう……」
悲し気な表情で頭を垂れる白椿。
信光は異様な姿の尼に驚いたが、やがてそれが先日書状を持ってきた尼と気づき、ふん、と鼻を鳴らした。
「だまし討ちの片棒を担いでおいて今さら何を言う。現に奴らは今も武器を持って寺に立てこもっておる。あ奴らを許せば、我らの身も危ういのだ!」
ぐうの音も出ない状況に白椿は唇を噛んだ。
だが、これ以上の犠牲者を出すことはできない。
白椿は顔を上げ、食い下がった。
「確かに、だまし討ちになった事は、知らなんだ事とはいえ、私の不徳の下す所でございます。ですが、寺の中にいるのは、怯えて逃げ込んだ者、僧や女子供もおります。責は私が負います。ですので、これ以上の事は……」
「くどい!」
信光は白椿の言葉を遮ると、彼女に刀を突きつけた。
「これ以上お主のような者の話は聞いておれん。これ以上口を開けば、尼と言えど斬る!」
「いいえ!言わせていただきます!」
「まだ言うか!」
そう言うと、信光はさらに食い下がる、白椿を一刀のもとに切り捨てた。
喉を斬られ、鮮血が信光に降りかかる。
門の屋根からこちらを見ていた領民からは悲鳴が上がり、さすがに尼を切り捨てるのは、いかがなものかと周囲の武者たちはある者は眉をひそめ、またある者は顔をそむけた。
そしてそれは、やがて、驚愕に変わる、
半ば首を斬られ、おびただしいほどの血を流した尼が、崩れ落ちたと思ったら、そのまま立ち上がったのである。
血は止まり、傷がふさがってゆく。
それを見た兵士たちと領民たちは、驚愕の声を上げ、武器を落とし、手を合わせる者まで現れた。
「……化け物か……!」
信光も、不老不死が偽りでないことに、驚きを隠せず呻くようにつぶやいた。
手心など微塵も加えた記憶はない。
数多の者を斬ったが、このような者は見たことがなかった。
「死なぬ私に、そのような脅しは不要。このような身でよろしければ、どうか気のすむまでお斬りください。ですが、寺の中の者どもは、どうか……!」
そう言うと、白椿はその場に跪き、頭を下げた。
信光は全身から噴き出す汗を感じながら、白椿を見下ろし必死に呼吸を整えた。
元より信光は、怒りに任せて尼を斬りつけるような男ではなかった。
加えて、自分と配下の兵の動揺を、これ以上拡散させては、武士としての面目どころか統率が崩壊し、反撃を食らう恐れがある事も理解していた。
周囲を確認すると、兵たちが不安げな顔でこちらを見ている。
ここは意地を張る所ではない。
信光はそう思い、ことさら居丈高に声を上げた。
「ならば、お主に今一度機会をやろう。あの者どもを従わせよ。できれば、我らも手出しはせぬよう禁制を出してやる……だが、我らを謀り、この混乱を起こした責は問わねばならぬぞ?」
「ごもっともでございます」
白椿は、信光の言葉に、深々と頭を下げた。
そして、寺の門が開かれ、武器を持った者や女子供がひしめき合う中に白椿が入ってきた。
「もう、大丈夫じゃ。皆、安心せよ」
彼女は皆にそう呼びかけると、皆に笑いかけた。
「この寺に禁制を出すよう願い、聞き届けられた。皆は無事じゃ、刀や槍を捨て、家に帰るのじゃ」
その言葉は、一同に驚きを持って迎えられた。
「白椿様、何と言ってよいやら……」
複雑な表情でそう言ったのは、ここに逃げ込んでいた庄三郎だった。
白椿は彼が無事であったことに安堵しつつ、彼の言葉に頷いて答えた。
「此度の責は儂が全て負う。手向かいせねば、皆に手出しはせぬ」
「……しかし、白椿様を騙したのはわしらの方で……」
「構わぬ」
狼狽える、庄三郎たちに血で赤く染まった白椿は静かに言い放った。
「お主らの罪も、恨みも。儂が全て負う。じゃから、今は争いを止め、生きよ。不満があれば、また声を上げればよい。じゃから、女子供まで巻き込んで、無駄に命を捨てるな」
白椿の言葉に、領民はある者は感謝し、ある者は複雑な思いを抱きつつ、刀を手放し、家に帰った。
これで良い。
自分はやるだけのことはやった。
白椿は各々が帰ってゆく様を眺めながら、一人頷いていた。
そして白椿は、おとなしく縛についた。
が、
彼女に足軽が恐る恐る縄をかけたその瞬間、領民たちの目が変わった。
「何をする!」
「比丘尼様に何をするつもりじゃ!」
「罰当たりな!」
その声に、足軽たちも狼狽えて、縄をかける手を止めた。
周囲の人々が殺気立ち、再び一触即発の空気が生まれる。
白椿は、それに慌てて声を上げた。
「やめよ!やめぬか儂は自らの意思で下るのじゃ!お主らの思うような事はない!」
そして足軽たちに、穏やかな顔で語り掛ける。
「安心せよ、縄などなくとも、そちらに従い、暴れはせぬ」
その言葉に、足軽たちは血まみれの尼に触れようとはせず。
ある者は手を合わせる者までいた。
白椿はその考えが甘い事を思い知った。
足軽たちに追い立てられるように、帰り行く人々の目に。
家族を亡くした人々の悲しみに。
家を焼かれた人々の恨みが白椿の目には映っていた。
人々には突如やってきた武田の武士たちに、素直に従おうという意志が人々からは全く感じられなかった。
それはただ、白椿が命と引き換えに押し込めさせた、どうにも隠しえない感情だった。
恐らく、これで事はすべては収まるまい。
人々の不満や、武家の面子、様々な利益。
この国の騒動はまだまだ続くだろう。
結局、目の前の命は救ったが、問題そのものは解決できなかった。
そして……
そんな事を考えている白椿に、信光が険しい顔で語り掛けてきた。
「……とんだことをしてくれたものだ。あのようなものを見せられては、お主を下手に罰することもできぬではないか。かと言って解き放てば、あ奴らが神輿として担ぎ上げるのが目に見えておる。……そもそも、死なぬお主にどんな罰を下せばよいのだ」
そうなのである。
白椿が奇跡を見せつけた事は、人々の心に大きな影響を与えすぎてしまった。
かくいう信光も、恐れている。
彼女を見せしめに切り刻んだとしても、人々の怨嗟は増し、信光は極悪な代官としてさらなる反発を招くだろう。
かといって、何も罰を与えずに解き放てば、白椿は人々から神仏のような扱いを受け、意図せずとも武田方の抵抗の象徴にされるだろう。
どう転んでも、争いにしかならない。
それどころか、自身が奇跡を見せることで、火種になりかねない存在になってしまったのである。
ならば。
白椿は、天を仰ぎしばし考え込んだ後、決意に満ちた表情で、信光に答えた。
「ならば、こうするのはいかがでしょう」
白椿の提案に信光は納得し、その日のうちに寺の管轄地に対し禁制が出された。
騒動は一日で終結した。
後日、武田方からではなく、白椿から禁制を出す条件が人々に伝えられた。
後瀬山の洞窟にて、土中入定。
すなわち生きながら土に埋まり、即身仏になるというものである。
それは自己を犠牲にし、人々の安寧を祈る存在になる事を意味し、修行者としての究極の行為であった。
人々は、彼女を止める言葉を持たなかった。
あくまで、己の意思で、彼女は入定する事になったのである。
「儂は長く生き過ぎた。ここらあたりが、ちょうど良い引き際じゃ。儂はここで仏となり、皆を見守ることにする。皆、つらいこともあろうが、争わず、強く生きるのじゃぞ」
入定する日、白椿は皆の前で、寂しげに微笑み、そう言った。
そして最後に、彼女は
「あの椿が枯れたら、儂の命が尽きたと思うてくれ」
そう言い残して、洞窟の中に姿を消した。
そして、洞窟の入り口は塞がれ、誰も入ることができなくなった。
八百比丘尼は何年経っても、外に出てくることはなかった。
人々は、噂した。
八百比丘尼は世を儚んで入定したのだと。
それが真実であるのか、語る者はもういなくなってしまった。
だが、洞窟の前の椿は、今年も枯れずに雪の中咲き続けている。
あの時のあの尼のように、赤く華やかに。




