月に刻まれた兎
昔、ある森に 兎・猿・狐・カラス の四匹が仲良く暮らしていました。
彼らは「困っている者には施しをしよう」と誓い合っていました。
ある日、疲れ果てた老人が現れこう言いました。
「腹が減って動けない。何か食べ物を恵んでくれないか」
猿は木の実を、 狐は獲物を、 カラスは果物を持ってきて老人に差し出しました。
しかし兎は困りました。
自分は草しか食べない。人間に与えられる食べ物がない。
兎はしばらく考え、こう言います。
「私は食べ物を集められません。 ですが、私の身体を食べてください」
兎は自ら火を起こし、 迷いなくその炎の中へ飛び込みました。
老人は神の化身でした。
「お主の自己犠牲はもっとも尊いものだ」
そう言って兎を天に連れて行き、その姿を月の中に刻んだという
長雨が続いていた。
潮風が吹き付ける浜辺の村では、このような涼しい日が続くと作物が取れなくなる。
夏を越え、秋が近くなるにつれ、村人の顔には焦りが出始めていた。
このままでは税を納めるどころか、飢え死にしかねない。
村人は、稲の様子を見ながら、絶望的な思いで曇り空を仰いでいた。
「このままではどうにもならぬな」
天候もそうだが、村人たちに絶望感が漂いつつある。
雨の中、村の様子を見て回っていた白椿はそうつぶやいて村人と同じく空を仰いだ。
こんな時、一人の尼ができる事などたかが知れている。
自分が多少飢えても死にはしないのがせめてもの救いだが、自分一人の食い扶持など村全体からすれば些細な事である。
「これは神仏にお祈りするより他あるまい」
尼として、それが出来うる最大限のことであった。
無論、天候がすぐに回復するとは白椿は思ってはいない。
だが、村人たちの心を奮い立たせるには、これが最も良いはずだ。
しかし、自分が現在住んでいるのは山間の小さな庵である。
人が集まるにはどうにも手狭だ。
仕方なく、白椿は庄屋に声をかけ。近くの寺での祈祷を頼む事にした。
当日、言い出した本人という事もあって、寺に顔を出した白椿は仰天することとなる。
そこには、村中の人々が集められ、寺中に所狭しと老若男女がひしめき合っていたのである。
確かに、村人を励まそうと言い出したのは自分だが、これは度を越えている。
集められた村人も状況が分からず、不安げに辺りを見回しているようだった。
「やぁ、白椿尼殿。ようお越しくだされた!この度は村人を救わんとするご提案を頂き感謝しております」
事態が呑み込めず、狼狽える。白椿に声をかけたのは、この寺の主、日敢であった。
修行で鍛え上げられた屈強な体と、大きな声が特徴的なこの僧は、村人からも慕われる法華宗の僧であった。
普段、つつましやかに暮らす彼だが、この度の事態に彼なりに思う所があったようで白椿の提案を快く受けてくれた人物である。
白椿はなぜこんなに多くの村人たちが集まったのか、と問うと、日敢は元気にこう答えた。
「拙僧が集め申した!白椿尼殿のおっしゃる通り。ここは心を一つにせねばなりません。ならば、できうる限り多く人を集めねば意味が無いというもの」
どうにもずいぶん張り切っているようである。
彼も村人と同じく、飢えているというのになんという気力と元気か。
白椿は、半ば面喰いながらも、彼の勢いにすべてを委ねることにした。
そして日敢は、祈祷を行う前に、寺中に響き渡る声で叫び出した。
「皆聞け!飢饉がすぐそこに迫っておる!私も、胸が張り裂けん想いじゃ。これは何とかせねばならん!」
日敢の言葉に寺中の老若男女が耳を傾けた。
村人の信頼篤い彼の人徳の証明か、ざわついた寺中が一気に静まり返る。
「この大難は、天の気まぐれではなく、神々の怒りでもない、ただ一つ!正法を捨て邪法を信じている者がいるからである!『南無妙法蓮華経』この五字の題目を一心に唱えよ!さすれば汝らの中に本来ある仏の知慧と慈悲が目覚める!一人が目覚めれば家が変わり、村が変わり、そして国が変わるのだ!」
あまりに大きな話に、村人はある者はうなづき、ある者はただきょとんとしていた。
白椿も、法華宗の辻説法は聞いたことがあったが、ここまでの勢いのものは聞いたことがない。
反論できる空気でもなかったが、流石に、白椿は言葉を挟んだ。
「日敢殿、此度は国の行く末ではなく、明日の食い扶持の話をしておる。皆の不安をいかにすべきか、という話をすべきではないか?」
流石に水を差すようで勇気が必要だったが、流石に言わざるを得なかった。
それに、日敢は、にこりと笑ってそれに答える。
「良い所に気づかれた!これは関係なきようなものに見えて関係あるもの!皆一人一人が小さき過ちを正し、ゆくゆくは大きなものを正そうという話なのじゃ!」
それは白椿の声の数倍の大きさの返答だった。
問答すら自らの言の正しさを通すその自信に、白椿は今更ながら面食らった。
そして目を丸くする白椿を尻目に、日敢は寺中に向かって声を上げる。
「泣くな!騒ぐな!汝らの不安も、悲しみも、皆!無益である!お題目を一心に唱え、働け!唱えながら種を蒔け!唱えながら隣人を助けよ!海にも山にも食べ物はある!我らは今ここで、できうることをただ一心に行うのだ!」
それは、感情すら否定したある種とてつもない合理的な行動を促す呼びかけのように白椿には聞こえた。
それは苛烈なまでの熱を帯び、村人たちを呑み込んでいく。
だが、それに、一人の村人が声を上げた。
彼は日敢のその熱気に反抗するように立ち上がり。声を上げる。
「いくら念仏を唱えたからって、ねぇもんはねぇ!お題目唱えてるうちに、俺たちゃ飢え死にしちまうじゃねぇか!」
それは、信仰と現実の矛盾を指摘するような言葉だった。
確かに、念仏を唱えたとて食べ物が出てくるはずもない。
非常な現実はいかに目を背けても迫って来るのだ。
だが日敢はそれを一言で一括した。
「死を恐れるな!」
日敢の声に、声を上げた村人はおろか、寺中の一同すべてが一瞬で静まり返った。
「死は必ず訪れる!題目を唱えようと、何をしようとそれは変わらぬ!ではなぜ題目を唱えるのか!死の苦しみを、ただの苦しみで終わらせぬためである!死を恐れず、死を覚悟せよ!題目を唱え続けるうちに力が満ち、知恵が湧き、慈悲が満ちる。飢えていても心は折れぬ、税に追われても恨みは消える!皆で助け合い、訴えを続けられる!」
「そ、それではやはり死ぬだけではないか!」
静まり返る中、村人が気力を振り絞り、さらに反論した。
それに日敢は目を見開きさらに大きな声で答えた。
「否!死ぬからこそに題目を唱えるのじゃ!」
その声に、白椿ははっとなった。
それは不死の自分が、思いもせぬ考え方だった。
「死を前にして「南無妙法蓮華経」を唱えられるかどうかかで仏になれるかどうかが分かれる。死するまで何をしたかで、その者の生が問われるのだ!死を恐れるな!死に身を委ねてはいかん!苦しき時こそ題目を唱えよ!生きながら唱え、唱えながら死ね!さすればお主らの背を見て、正しき道を歩む者が現れ、道は開かれる!今こそ汝らの力を合わせ皆が生き残れるよう、死中に活を見出すのだ!皆、死するまで足掻け!」
そして、一部の熱狂したものが声を上げる。
未だ、釈然としない村人もいるにはいたが、それは大きな声に押し流されていった。
そして、村中の人間が「南無妙法蓮華経」を唱えながらの祈祷が始まる。
その弁と言い、掌握術と言い、何とすさまじいものか。
白椿はともあれ、村人たちが生きるための気力を得たことでひとまずはよしとしていた。
数日後、再び村に降りた白椿は、また寺に集まる村人たちを見た。
今度は、先日とうって変わって男衆ばかりの集まり。
各々、鋤や鍬、そして刀や槍を持つものまでおり、その物々しさに白椿は青い顔で寺の中に駆け込んだ。
「日敢殿!これは一体いかなる騒ぎじゃ!」
寺の中で日敢は、襷をかけ、今から戦にでも出ようかという出で立ちで村人たちと相談をしていた。
慌てる白椿に、日敢は胸を叩き、笑顔で答える。
「知れた事。領主に税の免除を訴えるのだ」
その言葉に、白椿は卒倒しそうになった。
「……強訴とは……僧がそのような事をするとは……!」
呆れる白椿。
だが日敢はそれに、大きく首を振った。
「否!困る村人たちを見捨てることこそ。僧にあるまじき事。これは私利私欲でない。村人を救わんがため、民草を虐げる領主を正さんがための強訴!我らは生ある限り、法華宗の行者として正しき道を皆に指し示さねばならぬのじゃ。それは決して寺に籠り、ただ慈悲を問うことにあらず!今から、領主に説法を行い、正しき領主のありようを解いて参る!」
そして日敢は、笑顔で村人を率い、領主の館に押し掛けた。
村人が館を取り囲む中、日敢は門前で座り込み、文句があるなら斬れ!と、大声を張り上げたという。
結局数日のやり取りの末領主は折れ、税を減らす旨を伝えたことで、騒動は落着した。
日敢は村人から、多大な感謝と尊敬の念を抱かれるようになった。
そして村は秋を越え、冬になった。
この年の冬は、予測した通り厳しいものとなった。
例年に増して厳しい寒さに見舞われ、大雪が降る。
なんとか漁で飢えをしのごうとしても、荒れた天気の為船が出せぬ日が続いた。
税は免じてもらい、幾分かましではあったものの、いよいよ春まで持つのか怪しくなってきたのは正月を過ぎてからだった。
どうにかしようにも、雪で身動きが取れない。
そんな折、日敢は雪をかき分け、白椿の元にやってきた。
白椿と同じく、自分の食べ物は後回し、と言い続けていた日敢は流石に逞しい体や顔にもやつれが見え始めていた。
だが彼は、その目の輝きを失ってはいない。
雪の中から現れた日敢を見た時、白椿は相変わらず消えぬこの男の気力に何やら人ならざる物の気配すら感じていた。
「突然お邪魔して申し訳ござらぬ。お願いがございまして」
体に積もった雪を払いながら、日敢は笑顔で言った。
「拙僧がおらぬようになったら後、寺と、小僧たちの面倒をお願いしたいのです」
それは、何やら奇妙な話に聞こえた、
確かに、この村で僧と呼べる者は自分と日敢しかいない。
だが、寺には小僧たちが二人ほどいたはずである。
白椿はその願いに、首を傾げた。
「それは構いませぬが……日敢殿は、いずこか遠方へ旅立たれるおつもりか?」
小坊主とはいえ、しっかりした者もいる。
少々遠出をする程度なら、そのような事を頼まずともどうにでもなるように白椿には思えた。
第一、白椿は法華宗ではない。
あたら小坊主たちに余計な事を教えるのも、気が引けるというものであった。
それに日敢はやはりにこやかに、そして今度は厳かに答えた。
「はい、西方十億万土へ参ります」
それは、耳を疑うような話であった。
西方十億万土。それは極楽への道のりを指す。
すなわち彼は、死出の旅へ出るというのである。
「……一体それはどういう事じゃ?」
白椿は、言葉の意味は理解したが、それを呑み込むことができず表情を凍り付かせたまま聞き返した。
しかしなお、日敢は笑顔のまま、どこかさっぱりした顔で再度答えた。
「聞いたままでござる。拙僧は近日中に必要な行を終え、天候の回復と村人の安定を祈願して焼身いたす」
「焼身?」
それはいよいよ持って理解を超える話だった。
己が身を焼き、仏に捧げる「焼身」。
それは法華宗の僧にとっての行の最終到達点でもあった。
「……何を急に申される、死するまで、題目を唱え、足掻けと言うたのはお主ではないか!この期に及んで何故死を選ぶ?」
「もはや他に道が無いのでござる」
狼狽える白椿に対し、日敢の答えは明快だった。
「もはや、人に分け与えるものも、自ら食するものも尽き申した。雪で山に入ることも、海に出ることもできず。拙僧はこのままでは春を待たず命尽きる事になりましょう。……いや、拙僧は構わぬが、村の者ども、領主様、寺の小坊主たちもこのままでは危うい。ならば、命尽きる前に、わが身を持ってこの世を照らし、道を示すのが拙僧の最後の務め、と思うたのでござる」
それは、自らの食べるものをすべて周囲に与え続けた末に訪れた、最後の最後に自分ができる「施し」であった。
不死の白椿と違い、日敢にも限界はある。
日敢はその最後の選択肢を選ぼうとしていた。
「……天気はいずれ回復しよう。春はそのうちやって来る。そのように死に急がずとも良いではないか?」
白椿は、日敢の決意の固い事を十分に察したが、流石に言わずにはいられなかった。
多少雪は多いとはいえ、暦の上では、春はすぐそこだ。
明日にも太陽が顔を覗かせ、雪を解かすかもしれない。
何もそう死に急がずとも。
だが、やはり日敢の決意は固いようだった。
「いや、それでは遅いのだ」
彼が小さく首を横に振ると、その生気に満ちた視線で白椿に答える。
「万が一、このまま雪が止まねば、拙僧は御仏の加護あって生き残れたとしても、体弱き者、老人や、子供の中に力尽きるものが出るやもしれぬ。領主様とて同じじゃ、税を取らなんだばかりに、他所の国からなんぞ災厄を招き込んでしまうやもしれぬ。もし拙僧が何もせぬ事で一人でも命を落とすことあらば、拙僧には法華宗の行者を名乗る事などとてもできぬ。人が仏に至るには、どう生きるか、そして死ぬかが大事なのだ。」
彼には、死への恐怖も、私欲もない。
それはもはや人を越えた場所にある決意であるように白椿には思えた。
白椿は、あくまで焼身は最後まで考えるように諭しながら、あとのことについては請け負う事を承知した。
もし、自分が不死でなかったのなら、果たしてこんな命の使い方ができるのだろうか。
白椿は、とてもその域に至れる自信を持つことができなかった。
そして数日後、降りやまぬ雪の中で日敢は自らの体に香油を塗り、村人が見守る中、小僧に自分の周りに積み上げた薪に火付けさせた。
燃え上がる火の中から聞こえる「南無妙法蓮華経」の声は途絶えることなく、
それは、すべてが焼け落ちても村人たちの耳に響いていた。
そして日敢は仏となり。
翌日には太陽が顔を覗かせ、風は止み、雪を溶かしていった。
人々の心には確かに法華経の教えが残り。
やがて、春が訪れた。
白椿は、日敢を弔うと、彼との約束に従い、小僧たちの面倒を見ながら知人に文を書いて法華宗の僧を迎える手配をした。
村人たちは、風が止んだ海や雪が解けた山から食べ物を集め、飢えをしのぐことができた。
彼の身を投じた祈りが村を救った。
少なくとも、村人はそう信じていた。
苛烈な男だった。
白椿は日敢を思い出すたび、そう思う。
果たして彼の行いは正しかったのか。
白椿はいまだに答えることができないでいる。
だが、白椿尼には彼の言葉が深く心に刻み込まれていた。
人はどう生き、そして死ぬのかが、大事なのだ、と。
自分も、死に身を委ねようとせず、死が訪れるその日まで、人に道を示せるような生き方をせねばならない。
八百比丘尼は、あの男を思い出すたびそう思うようになった。
それは日敢が、自分に「道」を示した証でもあった。
日敢は自らを燃やした炎で人々を照らしたのである。
そう、あの月に刻まれた、兎のように。




