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9.落日の川中島と奪われた天女

川中島を分かつ犀川(さいがわ)の水面は、重苦しい沈黙に包まれていた。

武田と上杉の両軍が川を挟んで対峙してから、すでに数週間が経過している。膠着状態は日ノ本の時を止め、兵たちの心身をじわじわと蝕んでいた。


「さあ、皆さん。温かいものを食べて、もう一踏ん張りですよ。」


上杉軍の本陣に、鈴の鳴るような澄んだ声が響く。声の主は、兵たちから「吉祥天女」と崇められる葵だった。彼女がタッピ―に相談して持ち込んだ「食材を乾燥させて旨味と栄養を凝縮し、お湯を注ぐだけで元の瑞々しさを取り戻す」という画期的な乾燥食品は、過酷な長期戦に喘ぐ上杉軍の胃袋を満たし、長期戦における士気の低下を防いでいた。


「ありがてぇ……。天女様の汁物を飲むと、五臓六腑に力が染み渡るようだ。」

「本当だ。この冷える川風の中、こんなに美味いものが食えるなんて。」


泥にまみれた兵たちが、一時の安らぎに顔を綻ばせる。

葵が今回の遠征に同行させたのは、小荷駄の兵糧管理が目的ではなかった。「勝利の女神、吉祥天女として兵の士気を上げてくれ」という、謙信直々の頼みゆえだった。実際、彼女の存在は暗く淀んだ戦場における唯一の光であり、彼女がいる限り上杉軍の士気が挫けることはなかった。


だが、その光の温もりこそが、対岸の「甲斐の虎」が仕掛けた完璧な罠の舞台装置となる。


ある日の夕暮れ。川面から深い川霧が立ち込め、視界を白く染め上げ始めた。

葵の天幕の周りでは、いつも通り大釜から湯気が立ち上り、乾燥食品の香ばしい匂いが辺りに漂っていた。だが、兵たちが警戒を緩めたその瞬間、竈門の煙の色がわずかに変色する。武田の忍び――透破(すっぱ)が、事前に薪の中に仕込んでおいた、微量の幻覚性と眠気を誘う薬草の汁が熱で気化したのだ。長期戦の疲労も手伝い、周囲を固める近習たちの意識が一瞬、わずかに朦朧とする。同時に、最前線の犀川べりで凄まじい鬨(とき)の声が上がった。


「武田軍、総懸かり! 犀川を渡って参ります!」

「何だと!?」


天女の天幕にいた謙信が色めき立つ。さらに「本陣の裏山に敵影あり!」という悲鳴のような急報が重なった。


「信玄め、ついに動いたか。葵、ここにいるが良い。すぐに戻る。」

「は、はい!お気をつけて!」


謙信はそう言い残すと、自ら指揮を執るため、一瞬だけ葵のそばを離れ、作戦机へと駆け足で移動した。謙信を見送った葵はどうすることもできずに天幕の中で落ち着きなく歩き回っていた。


「お嬢、大丈夫だって!」

「そうですよ。御実城様なら心配はありません。」


馬廻衆としてそばに控える伴次郎と弥三郎が葵を励ますように笑みを見せる。


「うん、そうだよね。」


葵は両頬を軽く叩き気合を入れなおした。

ここで弱気になっても何も変わらない。私は、私のできることをしないと。そう決意し直したとき、天幕の前に人の気配が現れる。すぐに葵を庇うように伴次郎と弥三郎が前に出た。


「天女様! 申し上げます。前線で怪我人が多数出ており、御実城様より命が下りました。安全の為後方へ引くようにとのことです!」


霧と煙が混ざり合う混乱の中、上杉兵の具足を着た男たちが天幕に飛び込んできた。謙信からの命令と聞き、葵は迷わず天幕を出る準備をする。しかし、傍らに控えていた伴次郎と弥三郎が鋭く武器を構えて、報告にきた兵士に向けた。


「お前、どこの隊の者だ?」

「所属と家名を言え。」


二人の鋭い目つきと冷たい声を向けられながらも、兵士の男は同様することなくすらすらと聞かれたことに応える。しかし、兵士の答えを聞いた瞬間、伴次郎の槍が兵士の腹を突き刺した。


「きゃぁあ!!」


葵の悲鳴に、上杉の忍び「軒猿」の精鋭が音もなく表れ、目を見開いた。


「お前たち、甲斐の……透破か?…天女様に近づくな!」

「グッ…なぜわかったッ!?」

「所属と家名を言えと言われてすんなりこたえられるのは、間者だけなんだよ。」

「此度の戦は所属の隊も家名も答えてはならぬと御実城様より、秘密裏に通達が来ている。我が上杉の名をかたる痴れ者めがッ!」


弥三郎の一閃が偽物の兵士の首を切り捨てた。

しかし、次の瞬間。

変装を見破られた武田の忍びたちが、天幕に現れ一斉に天女へ襲いかかる。


「お嬢を守れ!」

「葵様に近づけるな!!」

「「承知!」」


伴次郎と弥三郎、そして軒猿の精鋭は圧倒的な体術で透破を次々と斬り伏せるが、武田側も始めから命を捨てる覚悟の「肉壁」だった。二人がかりで軒猿の刀を素手で掴み、その足を泥沼のように止めにかかる。伴次郎は三人の敵に囲まれ、槍を振り回し応戦するが肩を負傷し敵と縺れて天幕から弾き飛ばされてしまう。そして弥三郎は腹部に大きな傷を負っていた。


「な、なに!?イヤッ!」

「ぐっ……放せ!」

「天女様!!」


軒猿が執念で男たちを振り払ったときには、別の透破が葵の口を塞ぎ、食料を運ぶための大きな荷車へと押し込んでいた。


「天女様――!」

「お嬢ッッ!!!」

「葵様ぁッ!!!!!」


ボロボロになりながら天幕を飛び出し、夜霧の中を激走する荷車を追いかける軒猿と伴次郎と弥三郎。しかし、外は深い霧、そして竈門の白煙。さらに道々には武田の忍びが仕掛けた偽の足跡と、視界を奪う煙幕が炸裂する。目視していたはずの荷車は、まるで狐に化かされたかのように、一瞬にして深い霧の彼方へと掻き消えてしまった。…それは完璧な「神隠し」だった。


偽の急報から本陣へ戻ってきた謙信を待っていたのは、争った痕跡が残るもぬけの殻の天幕だった。


「…どういう…事だ?!軒猿ッ!!」

「ハッ!今しがた上がりました報告によると、武田の透破が天女様を攫うために薬物を使用した模様。荒川伴次郎殿、色部弥三郎殿、他数名の同胞が応戦するも……天女様は奪還…敵わず…ッ!…申し訳ございません。」

「…なんだと…___?」


その時、天幕に飛び込んできた二つの影。ボロボロになり流血しながら、地面に頭をこすりつけて震える馬廻衆の姿だった。


「御実城様……万死に値する失態をいたしました……。葵様を、武田の泥棒どもに……!」

「申し訳ありません…!この失態は、我々の命をもって…!」

「黙れ。」


最強を誇る護衛たちが、悔し涙で地面を濡らしている。軒猿もまた、己の無能を呪うように拳を血が滲むほど握りしめていた。そこに続々と集まる家臣たち。それとは裏腹に静まり返る本陣。謙信の端正な顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。

「義」を重んじ、勝利の女神として、そして一人の人間として大切にしていた彼女を、これほど汚い手口で奪われた。それは、謙信の誇りに対する最大の侮辱だった。


「おのれッ…信玄ッーーーッ!!」


軍神の凄まじい咆哮が、川中島の夜空を震わせた。謙信は愛刀を引き抜くと、激昂のままに天幕の太い支柱を叩き斬った。


「全軍、犀川を渡れ! 信玄の首を獲るまで、一歩も退くことは許さん!」


理性を失いかけた謙信は即座に総攻撃を命じ、自ら馬に跨ろうとする。だが、その前に宇佐美定満ら重臣たちが立ち塞がった。


「お待ちくだされ! 敵は川の向こうで手ぐすね引いて待っております! 今渡れば敵の罠に嵌まるだけです!」

「どけ! 私は葵を救わねばならぬのだ!」


馬の轡(くつわ)を掴んで止める家臣たちと揉める最中、血まみれの伝令が本陣へ飛び込んできた。


「申し上げます! 武田の調略に応じた加賀の一向一揆が、我が越後の国境を突破! さらに、国内の田畑や民家を焼き払い始めている模様! このままでは、お膝元の春日山城が落ちます!」


謙信の身体が、凍りついたように硬直する。

信玄の裏工作の全貌が、ここで完全に繋がった。天女を奪い、上杉の怒りを前線に引きつけ、その隙に本国を滅ぼす。これこそが、あの老獪な男の描いた絵図だったのだ。そこへ追い打ちをかけるように、駿河の今川義元からの使者が入る。


『これ以上の戦は無用。双方、これにて矛を収めよ。さもなくば、今川・北条も上杉の敵に回ると思え』


圧倒的な外交圧力。背後の謀反。そして、奪われた天女。

余りに過酷な現実が、一時に押し寄せる。葵を救いたい。だが、今ここで独断を貫けば、自分を信じて待つ越後の領民たちが皆殺しになる。


謙信は立ち上がると、おもむろに近くにあった床机を持ち上げ、怒りをぶつけるように地面にたたきつけて粉々にした。

その姿に家臣たちは息をのむ。それは初めて謙信が怒りを物にぶつけた瞬間だった。それほどまでに、この男は自分を律することにたけていた。しかし、今はそれすらできないほど追い詰められている。怒り、悲しみ、絶望。果てしない謙信の感情が家臣たちにも伝わっていた。


「……退く。」


絞り出すような声だった。


「全軍、越後へ退くのだ……!」


撤退を命じる謙信の目からは、悔しさと怒りのあまり血管が切れ本物の紅い「血の涙」が溢れ、頬を伝い落ちていた。


「信玄……この借りは必ず返す。次の戦では、貴様の目の前で、全てを奪い返してやる……。」


深く冷たい川中島の霧の中、軍神は復讐の炎をその胸に灯し、血の涙を飲みながら、夕闇の彼方へと兵を引いていった。




一方、武田の本陣。


「……う……ん……。」


頭を割るような痛みとともに、私は目を覚ました。手首と足首は太い縄で硬く縛られ、身動きが取れない。


「目が覚めたか、天女殿。」


低く重厚な声に跳ね起きると、目の前には数高な甲冑を纏った、圧倒的な覇気を放つ巨漢が座っていた。

この人って…武田信玄?そしてその隣には、隻眼の軍師・山本勘助。歴史の教科書でしか見たことのない「甲斐の虎」が、冷徹な瞳で私を見下ろしていた。


「あッ…………!」

「安心せよ、命まで取ろうとは言わん。お前が越後を潤した天女だな。……見事な手際だ。ならば次は、我が甲斐国のためにその智恵を絞り出してもらおう。」


信玄の口元が、冷酷に歪んだ。


「報告!今川義元公より、和睦の仲介が届きました!」


知らせが入った瞬間、信玄はニヤリと笑った。


「重の重なりだ。これ以上の小競り合いは不要。我らの目的(勝利条件)は満たされた。全軍、これより甲斐へ退く!」


信玄は今川の和睦を受け入れ、周辺の大名には「上杉との無益な血戦を避けるため、引き分けに応じてやった」という体を装いつつ撤退を開始した。

私は頑丈て高級な籠(かご)の中に押し込められ、厳重な護衛とともに、甲斐の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)へと連れ去られていく。


謙信様……!みんな……!助けて……っ!


籠の暗闇の中で、生々しい死臭の記憶と、信玄という圧倒的な支配者への恐怖に震えながら、私は涙を流し続けることしかできなかった。





甲斐国・躑躅ヶ崎館の奥深く。

揺らめく蝋燭の光だけが室内をほの暗く照らすその部屋で、私は正座したままガタガタと震えていた。

両手両足の縄は解かれていた。しかし、それ以上に私を金縛りにしていたのは、目の前に座る二人の男――武田信玄と山本勘助の放つ、凄まじい「殺気」と「圧」だった。


「……さて。」


信玄の重厚な声が部屋の空気を振動させる。


「天女と崇められし女人よ。お前が持つ、あの越後を激変させた知恵……包み隠さず話してもらおうか。偽りを申せば、この場でお前を肉塊に変える。」


ひえぇぇ……っ!!


現代の普通のOLに、戦国最強の武将二人から放たれる本物の死線に耐えられる度胸なんてあるはずがない。


「ひ、ヒッ……!」


恐怖が限界突破し、ぽろぽろと涙が目から溢れ出した。私は畳に頭をこすりつけるようにして、泣きじゃくりながらすべてをぶちまけた。


「軍事のことなんて本当に何も知りません!戦とか、合戦の謀略とか、刀の振り方なんて全然分からないんです!私、ただの会社員で……!でも、でも……ッ!お米の育て方とか!泥田から水を抜く乾田化の方法とか!水車で米を突く仕掛けや、椎茸を木で育てる方法なら……全部教えます!全部話しますから……命だけは助けてくださいぃ……っ!」


泣きじゃくる私の姿に、信玄と勘助は拍子抜けしたように顔を見合わせた。

越後を富で満たした「吉祥天女」の正体が、ただの怯えた泣き虫の娘だったのだから無理もない。


「……ほう。」


信玄は顎を撫でた。


「なるほど。軍略の術は持たぬか。だが、その農地を激変させる知恵……それを、我が甲斐国のため『だけ』に使う気はあるか?」


冷酷な眼差しが私を射抜く。


甲斐のためだけ……?


その問いに、私の頭の中に、甲斐へ運ばれてくる道中で見た光景が掠めた。

骨と皮ばかりに痩せ細り、泥の中で虚ろな目をして作業をしていた甲斐の農民たちの姿。なぜ、同じ二本なのにこんなにも貧富の差が激しいのか。どうして、皆が笑ってお腹いっぱい食べることができないのか。


そんなの…間違ってる。


私は着物の袖で乱暴に涙を拭うと、顔を上げて、真っ直ぐに信玄の目を見つめた。


「……私は、越後も甲斐も関係ないと思ってます。」

「なに……?」

「良いことは、みんなで真似すればいいんです。越後だって甲斐だって、同じ人間じゃないですか?私は……世界から、お腹を空かせて泣く人が一人もいなくなればいいと思ってます。だから……甲斐の、あの可哀想な農民さんたちのために、私は働きます。だから私に、甲斐の畑を見せてください。」


命を乞うのでもなく、上杉への忠義を誇るのでもなく、ただ純粋に「誰も飢えさせたくない」と真っ直ぐに言い放った私。


静寂が部屋を支配した。

勘助が目を見開き、信玄は信じられないものを見る目で私を注視していた。やがて――信玄の口元が、クックッと低く揺れた。


「……ハハハッ! ハハハハハッ!!」


豪快な笑い声が部屋に響き渡る。


「面白い……!命惜しさに阿ねるでもなく、越後への義を突っぱねるでもなく、ただ『飢えを無くしたい』だと!?……恐ろしい女人だな。その果てしない慈愛、まさに『天女』の名に偽りなしだ。」


信玄は笑いを収めると、勘助に向かって頷いた。


「勘助。この者に館の周囲、ならびに近隣の農村への制限付きの自由を与えよ。甲斐の田畑を歩かせてみろ。この女が甲斐にどのような実りをもたらすか、見ものだ。」

「……御意にございます。」


こうして私は、武田の監視つきではあるものの、甲斐の地で自由に動く許可を得たのだった。



自由を得た私は、さっそく甲斐の農村へと向かった。

しかし――そこで待っていたのは、越後とは比較にならないほどの【本当の地獄】だった。


甲斐は山に囲まれ、平地が少ない。その上、毎年のように起こる水害と信玄の軍資金稼ぎのための重税によって、領民たちは骨と皮のように痩せ細っていた。家々には活気がなく、子供たちは道端でうずくまり、ただ死を待つように虚ろな瞳をしている。


ひどい……こんなの……こんなッ…!!


絶望的な光景に心がしぼんでいく。

同じ人間なのに…同じ日本にいるのに…領主が違うとこんなにも差が出るなんて…。

私は気合を入れて、館から与えられた着物の袖をまくり上げ、甲斐の農民たちの中に飛び込んだ。泥まみれになりながら、堆肥を作り土の耕し方を教え、川の脇に深溝を掘って水抜きをする「乾田化」の手順を指導した。


「みんな!ここを掘って水を逃がすの。そうすれば土に空気が入って、もっと美味しいお米や野菜が育つから。」

「あ、ありがたや……!越後の天女様が、俺たちなんかのために……!」


農民たちは涙を流して感謝し、私の指示に従ってくれた。


……けれど。日が増すごとに、私の心と体はガリガリと削られていった。

越後とは全く違う生活水準。男手と言ってもやせ細り、今にも倒れそうな農民しかおらず、とてもじゃない、重労働の代掻きや田植え、除草作業を越後の農民と同じぺ-スで同じ量をできる状態じゃなった。


何より決定的に違ったのは――【食生活】だった。


「天女様……どうぞ、お召し上がりくだされ。我らのとっておきでございます……。」


夜、疲弊した体に差し出されるのは、パサパサして硬いアワやヒエの入った、味のない雑穀粥。味噌汁は出汁の味など一切せず、ただ塩辛い汁に雑草が浮いているだけ。越後にいた時のように、香ばしい『椎茸の出汁』も、美味しい『ジャガイモ』も、ツヤツヤの『白米』も、ここには何ひとつなかった。


……固い。味がしない……。


喉を通らない雑穀粥を、必死に胃に流し込む。


越後にいた頃は、謙信様が「葵、体調はどうか」といつも優しく気遣ってくれた。伴次郎くんと弥三郎くんが「お嬢!俺たちが護衛します!」と笑わせてくれた。美味しい白米をお腹いっぱい食べて、温かな部屋で安心して眠ることができた。…けれどここでは、いつ武田の兵に斬られるかも分からない恐怖。見知らぬ敵国で、たった一人で耐え続けなければならない孤独。連日の過酷な泥仕事と、栄養の足りない粗末な食事。不眠不休の作業と精神的な緊張により、私の体重は落ち、肌は荒れ、体力は消耗していった。

それでも、あきらめることはできなかった。目の前には私よりもやせ細り、今にも倒れてしまいそうな農民やその子供たちがいる。


「……大丈夫。……私はできる……。甲斐の人たちを助けなきゃ……!」


夜、冷たい部屋で一人膝を抱え、自分に言い聞かせる。そして、スマホを取り出してハッピーを起動した。


タッピ―、簡単に栄養価が取れる野草ってある?


『はい。ヨモギ、ナズナ、スベリヒユ、ハコベなどがあります。調理法を工夫すれば簡単に手に入る、高栄養食です。』


いいね。じゃあ、野生動物を捕まえる罠の作り方を教えて。木とか紐とかで簡単にできる者がいいな。


『回答します。野生動物を仕留めるためには……』


寂しさを紛らわすため、そして明日も食つなぐためにタッピ―にたくさんの質問をして、少しでも食生活の改善を図る。けれど、部屋の行灯の明かりを見るたび、春日山城の温かい光と、謙信様の透き通るような優しい笑顔が脳裏に浮かび、胸が張り裂けそうになるのだった。



甲斐に来てから、数週間が過ぎたある日の初夏の夕刻。

極度の疲労でフラフラになりながら部屋に戻った私のもとへ、武田の兵が大きな葛籠(つづら)を二人がかりで抱えてやってきた。


「……おい。お前宛てに荷が届いたぞ。」

「え……? 私に……?」

「越後の上杉から、今川の商人を経て届いたものだ。お館様(信玄公)の検分は済んでいる。受け取れ。」


兵士たちは葛籠を部屋の真ん中にドスンと置くと、怪げな表情を残して去っていった。


越後の上杉から……!?


ハッと息を呑んだ。これを送ってくれた人の顔が浮かんで胸がジンと熱くなる。震える手で、大きな葛籠の蓋に手をかける。カパッと蓋を開けた瞬間――。

――ふわり。

部屋の中に、懐かしい、甘くて清らかな【越後の匂い】が広がった。


「あぁ……ッ!」


葛籠の中に敷き詰められていたのは、竹の皮で何重にも厳重に包まれた、大小の袋。そして、大きな麻袋に薄い桐箱だった。まずは、と大きな麻袋一つを解いた瞬間、ジワリ…と瞼に涙が滲んだ。

そこに詰まっていたのは――ひとつの濁りもない、汚れなき純白の、あの『越後の白米』だった。それだけではない。桐箱の中には春日山城で着ていた、私のサイズに完璧に仕立てられたあの美しい小袖。そして、私が農作業の現場で毎日のように愛用していた、あの思い出の詰まった『泥のついた作務衣(作業着)』。さらに、葛籠の隅っこには、小さな竹筒に大切に包まれた、あの越後で採れた甘い甘い『干し柿』が、幾つも並べられていた。


「ふっ…くっ…!」


漏れだす嗚咽を必死でこらえる。唇がわなわなと震えて視界が涙で滲んでよく見えなかった。

きっと…きっとすべては、謙信様が手配してくれたも。


『葵が甲斐の貧しい地で、粗末なものを食べ、不自由な思いをされているのではないか』


そう激しく心を痛めた謙信様が、敵国である武田に対し、公式な外交ルート(今川の仲介)を使い、多額の金銀と物資を今川と武田に積んでまで認めさせた――【私だけのための特別配給】だ。


「あ……あぁ……っ!」


私は両手を葛籠に回した。干し柿の甘い香り。作務衣に残った、春日山城の土の匂い。そして、微かに香る、謙信様のお線香の香り。

その瞬間――。

私の中で、張り詰めていた糸が、プツリと切れた。

敵国にたった一人で捕まり、殺されるかもしれない恐怖に怯え、誰にも弱音を吐けず、泥にまみれて、一人で頑張り続けていた感情が――爆発した。


「うわぁぁぁあッん!」


甲斐に来てから、一度も人前で泣かなかった。

武田信玄の前でも、農民たちの前でも、弱音なんて一言も吐かなかった。けれど、手の中にある「越後」を抱きしめた瞬間、私の目から大粒の涙が、ボロボロと溢れ出してきた。


「あ……あぁぁぁぁぁっ……!!」


私は畳に伏して、子供のように声を上げて泣きじゃくった。


「謙信様……っ!うぅ、うわぁぁぁぁんっ……!!」


鼻水をたらし、しゃくりあげながら、みっともなく子供のように溢れる想いを叫んだ。


「お腹すいたよぉ……!怖いよぉ……!苦しいよぉ……っ!帰りたい……!謙信様のところに、春日山城に、みんなのところに帰りたいよぉぉぉぉぉっ……!!」


部屋の中に、私の悲痛な泣き声が悲しく響き渡る。

葛籠の中に残された白米と作務衣は、まるで「一人ではない」「必ず迎えに行く」という、遠い越後の地からの、軍神・上杉謙信の誓いのように、静かに月光を受けて輝いていたのだった。


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