10.消えない希望と修羅の咆哮
葛籠いっぱいに敷き詰められた、あの純白の越後米。
謙信様が、遠い春日山から自分のためだけに届けてくれた、奇跡のような白米を涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭い、私は丁寧に研ぎ、小さな釜でじっくりと炊き上げた。
立ち上る湯気。甘く香ばしい、懐かしいあの匂い。
……温かい。すごく、美味しそう……。
一粒だけでも口に含めば、身体の底から力が湧いてくるに違いない。けれど、私は釜の蓋をそっと閉めると、それを温かい布で包み、館の裏手へと向かった。そこには、毎日のように空腹で腹をさすり、うずくまっている甲斐の貧しい子供たちがいた。
「みんな、おいで。美味しいご飯が炊けたよ。」
作務衣の袖をまくり、私は子供たちに優しく微笑みかけた。持参した木のお椀に、ふっくらとした真っ白なごはんを盛り付けて手渡していく。
「え……?これ、白いお米……?天女様、これ食べていいの……?」
「うん。たくさんお食べ。美味しいよ?」
小さな手が震えながらお椀を受け取り、一口食べた瞬間、子供たちの瞳にボロボロと涙が溢れ出した。
「甘い……!すっごく甘いよ、かか様……!」
「うめぇ……!こんなの食べたことねぇよぉ……!」
子供たちが互いの顔を見合わせ、夢中で白いご飯を頬張る。その笑顔を見ているだけで、胸の奥の冷たい塊がすーっと溶けていくような気がした。
この子たちの為にも、頑張るんだ!
私自身は一口も食べなかった。けれど、お腹の底から温かい何かが満ちていくのを感じていた。
――物陰の暗がり。
その光景を、息を殺して凝視している二人の影があった。武田信玄と、山本勘助である。
「……信じられん!」
勘助が隻眼をカッと見開いたまま、震える声で呟いた。
「敵国の上杉から届いた、喉から手が出るほど貴重な白米にございますぞ。毒を疑うか、あるいは密かに独り占めして胃に納めるのが戦国の常識……。それを、一口も自ら食すことなく、見知らぬ甲斐の童どもに分け与えるとは……。」
信玄は大太刀の柄にかけた手に、ギチギチと力を込めた。その鋭い瞳には、武将としての冷徹さを遥かに超えた、「魂を揺さぶられるほどの激震」が走っていた。
「……無私の慈愛。命を乞うためでもなく、名誉のためでもない。ただ目の前で飢える者を救うために、己の宝を惜しげもなく差し出す……。勘助…。」
「ハ……ハハッ!」
「この者は……真に、天がこの乱世に遣わした天女かもしれん…。」
信玄の深く低い声には、戦国最強の覇者としてではなく、ひとりの人間として目の前の少女(私)に膝を屈するような、底知れぬ畏怖と衝撃が籠もっていた。
同じ頃――春日山城、毘沙門堂。
静まり返った薄暗いお堂の中で、幾日も、幾夜も、上杉謙信はただ一人、冷たい床に膝をつき、微動だにせず頭を垂れていた。
あの送った荷物は無事に届いただろうか。
甲斐の冷たい床で、あの温かな女子が一人、泣いてはいないだろうか。自分が不甲斐ないばかりに、あの尊き御身を敵の手に渡してしまった。
「軍神」と恐れられる男の背中は、かつてないほど切なく、孤独に震えていた。
お堂の外では、春日山城全体が重苦しい哀しみに包まれていた。
馬廻衆の荒川伴次郎と色部弥三郎は、自身の無力を責め続け、食事も喉を通らないほどの悲壮感に打ちのめされている。重臣たちもどこか落ち着かず、城内にはどん底の暗い雰囲気が漂っていた。だが――そんな中で、たった一人、気丈に振る舞う少女がいた。
小間使いの梅である。
「泣いているヒマなんてありません!姫様の方が、たった一人で敵に囲まれて、寂しくて恐怖に震えておられるのです。私たちが泣いてどうしますか!」
梅は雑巾を固く絞り、葵のいない屋敷の廊下を、毎日ぴかぴかに磨き上げた。
「姫様がいつ戻られても良いように、綺麗にしておくのです。……絶対に、お戻りになりますから!」
その梅の強い想いは、村の人々にも伝波していった。
泥に塗れながら、村長をはじめとする農民たちは、歯を食いしばって田畑を耕し続けた。
「葵様が帰ってこられた時に、『よくやった』と褒めていただけるようにしよう!」
「越後を日本一の米どころにするんだ!葵様との約束だぞ!」
「焼けた畑も、田んぼも全部、元通りにしてやらぁ!」
越後の悲しみは、静かな決意へと変わっていた。
一方、甲斐国での私の生活は、過酷さを増していた。
季節は夏へ。
容赦ない猛暑が、甲斐の山間を焼き尽くす。照りつける太陽の下、私は作務衣の袖をまくり、甲斐の農民たちと泥田に浸かって作業を続けた。粗末な雑穀粥と塩辛いだけのスープ。栄養はまるで足りず、私の身体は日増しに細くなり、体力は限界に近づいていた。
さらに私を苦しめたのは、武田の兵士たちの横暴だった。信玄公の目がある時は大人しくしていた兵たちも、影に回れば平気で嫌がらせをしてきた。
「おいおい、何が天女だ!ただのひょろくそな泥まみれの女じゃねえか!」
「おい天女、さっさとこの土を運べよ!越後のコソ泥が!」
足蹴にされ、泥を投げつけられる日々。それでも私は、歯を食いしばって耐えた。甲斐の農民たちが「天女様、申し訳ねぇ、申し訳ねぇ」と泣きながらかばってくれる姿があったからだ。
やがて秋が訪れ――。
私の教えた乾田化と土壌改良、そして整然とした植え付けの技術により、甲斐の地にも「歴史的な大豊作」がもたらされ、黄金色に輝く田んぼを見て、甲斐の領民たちは歓喜の声を上げ、信玄もその成果に目を見張った。
……だが、私の肉体と精神は、もう限界のギリギリ手前まで擦り切れていた。
そして、厳しい冬がやってきた。
春日山城の屋敷とは比べものにならない、風の吹き抜ける粗末な木造の小屋。
与えられた荷物は最低限。火鉢と囲炉裏の小さな炭火だけが、寒さを凌ぐ唯一の救いだった。冷え切った手に息を吹きかけ、私は囲炉裏のそばで丸くなっていた。
……寒……いな……。謙信様……みんな……。
最早タッピ―に頼る気力もない。意識が遠のきそうになった、その時。
カサリ。
闇の中から、そっと小さな包みが差し出された。そこに置かれたのは――純白の小さな「おにぎり」と、鮮やかな「干し柿」。
「え……?」
息を呑んだ。
そのおにぎりの結び方、そして干し柿の香りは、紛れもなく――。
「まさか……軒猿……さん……?」
声が震えた。
闇の中、しばしの静寂が流れた後、低く、けれど固い誓いに満ちた静かな声が響いた。
「…このようなことしか出来ず、申し訳ござりませぬ。…今しばらく、ご辛抱くだされ。……必ずや、貴方様をここから救い出して見せます。」
姿は見えない。何の証拠もない。けれど、その声の温もりの中に、私は春日山城の匂いを感じた。
「……はい!」
私は涙をポロポロとこぼしながら、そのおにぎりを口に含んだ。塩の効いた温かい白米の味が、口いっぱいに広がる。干し柿の甘みが、凍りついた身体と心を優しく溶かしていく。
生きてる……! 私、一人じゃない……!!
凍えそうな雪の降りしきる夜。私の心には再び微かな灯がともった。
そして――春日山城。
潜入していた軒猿から、葵の凄惨な現状――夏場の横暴な扱い、痩せこけた痛々しい姿、そして冬の粗末な小屋での暮らしが報告された瞬間。集められた家臣たちの間に、恐ろしいまでの殺気が走った。
「おのれ……武田ぁぁぁっ!!」
伴次郎が床を拳で叩き割り、弥三郎が血が出るほど唇を噛み締める。
そこへ――破調の報せが飛び込んできた。
「ご、報告いたします! 武田信玄、今川との和睦の誓約を破り……我が越後が雪で動けぬこの冬を狙い、葛山城(山城)を落としました!!」
ガタッ……!!
静寂が打ち破られた。上座に座る上杉謙信が、ゆっくりと立ち上がる。その顔には、もはや人としての表情はなかった。溢れ出るのは、天地を揺るがすほどの凄絶な怒り。
「信玄……!!我が天女を奪い酷使し……その上、約束すら踏みにじるか……!」
ドッ……!!
謙信の発する殺気と覇気がはなたれ、柱が鳴動する。
「全軍に命じる……!!雪を蹴散らし、甲斐へ攻め込め!!信玄の首を上げ、葵を取り戻すのだぁぁぁぁっ!!」
「「「おおおおおぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!」」」
雪解けの春を待ち焦がれていた上杉軍。
葵を救うため、屈辱に耐え続けてきた猛将たちが、狂気的なまでの士気で大咆哮を上げた。
積もる大雪をなぎ払い、修羅と化した軍神・上杉謙信率いる越後軍が、嵐となって甲斐へと進撃を開始したのだった!
川中島の合戦場、八幡原。
一面を覆い尽くす濃密な川霧の中に、私はいた。甲斐の地から武田の陣営へ――そして今回は、武田軍の『勝負の縁起担ぎ』として、生贄か勝利の象徴のように無理やり連れ出されたのだ。
戦場に漂う鉄と血の臭い。それでも必死に自分を奮い立たせる。
生きるんだ……。みんなが……謙信様が救いに来てくれるって、信じてるから!
冷たい霧の向こうから、恐ろしい地鳴りのような音が響き渡っていた。
ことの始まりは数時間前。
信濃の妻女山に陣を敷いた上杉軍に対し、武田の軍師・山本勘助が『キツツキ戦法』を提言したことにある。別動隊が大回りして背後から山を急襲し、驚いた上杉軍を麓の八幡原へ追い出し、そこで待機する武田本隊が挟み撃ちにする――という完璧な作戦。
……しかし。
軍神・上杉謙信はその裏を完全に見抜いていた。
山から立ち上る飯炊きの煙の多さから作戦を察知した謙信様は、闇に乗じて音もなく妻女山を下山。武田の別動隊が空っぽの山を叩いている間に、川を渡り、ここ八幡原で「待機中だった武田本隊」の目の前へ、霧とともに突如として出現したのだ。
「「「うおおおぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」」」
霧が不意に晴れた瞬間、眼前に広がったのは上杉の車懸かり(くるまがかり)の陣だった。波状攻撃で次々と押し寄せる上杉の騎馬隊に、武田の本隊は大混乱に陥った。
「御館様をお守りせよっ!!」
「勘助様が討ち取られたぁぁぁっ!?」
「武田信繁様、討ち死にィィィッ!!」
絶叫と悲鳴が八幡原に渦巻く。
武田の副将・信繁が討たれ、作戦を外した軍師・山本勘助が敵陣へ突撃して壮絶な討死を遂げる。武田軍が崩壊の危機に瀕する、まさに史上最も凄惨で、最も劇的なクライマックスを迎えていた。武田本陣の巨大な天幕のすぐ近く。混乱の渦中で、私は縛られたまま伏せっていた。周囲の武田兵たちがパニックに陥り、前線へとなだれ込んでいく。
「おい、あの女を連れて退くぞ!」
見張りの武田兵が私の腕を掴もうとした、その時――!
シュッ!! ガキィィィンッ!!
闇を裂いて飛んできた手裏剣が見張りの刀を弾き飛ばした。
「な……なにっ!?」
「天女様!」
影から軒ざるが現れ武田兵の元から私を引き離す。その声は冬の夜に私を励ましてくれた声と同じだった。
「あ、あなたは!!」
「お嬢ぉぉぉぉぉっっ!!」
次の瞬間、私の声をかき消すように大声で叫びながら霧を突き破って飛び込んできたのは、鬼のような形相をした大男――荒川伴次郎くんだった。鍛え上げられたその体躯からくり出される槍が一閃し、見張りの武田兵を軽々と叩き飛ばしていく。
「葵様!お迎えに上がりました!!」
続いて姿を現したのは、刀を閃かせる色部弥三郎くんだ。二人はあの敗北の夜から、死に物狂いの特訓を重ねてきたのだろう、軒猿の手引きによって大混乱の武田本陣へ侵入し、ついに私のもとへと辿り着いてくれたのだ。
「伴次郎くん!弥三郎くん……ッ!!」
手を取り合い、縄を切り解いてもらった瞬間、胸の奥から熱いものが込み上げたが、再会を喜ぶ暇はなかった。
「敵だ!上杉の忍びと馬廻ぞ!天女を奪い返されるな!!」
逃げ遅れた武田の手だれの乱破や兵たちが、怒涛の勢いで群がり、私たちを三重四重に包囲したのだ
。
「くそっ、次から次へと……!」伴次郎くんが槍を構え、汗を撒き散らす。軒猿さんも応戦して持ち堪えている。
「伴次郎、葵様を背中に庇え! 死してもここは遠さぬ!」弥三郎くんが刀を握り直すが、敵の数は圧倒的だった。数の暴力。鋭い刃が全方位から迫る。
ここまで……なの……!?
絶望が胸をよぎり、私が二人の背中にしがみついた――まさにその瞬間!!
――バリリリリリィィィッッ!!!!
地響きのような衝撃とともに、武田の巨大な天幕が縦に一気に引き裂かれた!
「な……なんだと!?」
飛び散る布と縄の破片の中、一匹の白馬が豪快に跳ね踊った。
白巾をなびかせ、名馬・放生月毛に跨がり、手には白光を放つ順慶長光の大太刀――。その姿…神か、悪魔か___!恐ろしいまでの圧倒的な覇気を纏って乱入してきたのは、謙信様だった!!
「信玄、覚悟ッッ!!!!」
謙信様の咆哮が、戦場すべての音をかき消した。
馬上のまま電撃のような速さで踏み込み、床几(椅子)に座っていた武田信玄へ向かって、真っ向から大太刀を振り下ろす!
「ぬおおおぉっ!」
座していた信玄は、咄嗟に手元にあった漆塗りの軍配(扇)を頭上に掲げた。
ガギィィィィィィンッッっっ!!!!
激しい火花が飛び散り、耳を劈く金属音が天幕全体に響き渡った。軍配に刻まれる深い傷。押し込まれる信玄。二刀、三刀!馬を躍らせながら繰り出される謙信様の烈火のごとき連撃を、信玄は防戦一方となりながら軍配で必死にしのがざるを得ななった。
突然の謙信様の襲撃に武田の本陣は完全に麻痺し、兵たちは軍神のあまりの凄まじさに金縛り状態となった。その一瞬の隙――本陣が完全に瓦解したその瞬間を、謙信様は見逃さなかった。信玄を追い詰めたまま、謙信様がこちらを振り向き、腹の底から叫んだ。
「葵、跳べっっ!!!!」
「……はいッ!!」
私は迷わなかった。
「お嬢、行けぇぇぇっ!」
「葵様、御足を!」
伴次郎くんが私の両脇を抱え上げるようにして全力で突き出し、弥三郎君が膝の上に置いて両手に私の片足を乗せるとグッと飛ばすように持ち上げた。
私は弥三郎くんを蹴り、猛然とこちらへ馬を寄せてきた謙信様に向かって、全身の力を込めて飛び跳ねた!空中で、謙信様の力強い大腕が私の身体をしっかりとキャッチする。
「捕まえたぞ……!」
私は謙信様の目の前――鞍の前方へと引き上げられ、しっかりと抱きすくめられた。
「伴次郎!弥三郎!遅れるな!」
「ハッ!!」
あらかじめ軒猿たちが用意していた武田の早馬に、伴次郎くんと弥三郎くんが飛び乗る。
「引くぞ!!」
謙信様が手綱を叩くと、名馬・放生月毛は矢のように武田の本陣を突き抜け、爆走を開始した!そして軒猿によってたかれる大量の煙幕たち。
「追え!追えぇぇっ!天女を逃すな!謙信を討ち取れぇぇっ!」
後ろから激しい怒号と矢の雨が降り注ぐが、謙信様はその全てをいなし、私たちの左右をガッチリと固めた伴次郎くんと弥三郎くんが、迫り来る武田の騎兵を「うおぉぉぉっ!」と凄まじい気迫で叩き斬り、道を切り拓いていく。死に物狂いの特訓の成果が、この極限の脱出劇で結実していた。
風がゴウゴウと耳元を吹き抜けていく。
私は、謙信様の広く、熱い胸の中にすっぽりと収まり、その太い腕と背中に必死でしがみついていた。
馬の激しい揺れ。戦場の怒号。
けれど――不思議だった。
あんなに恐ろしかった戦場の血の匂いも、死の恐怖も、この人の胸の中にいるだけで、嘘みたいに消え去っていく。伝わってくるのは、狂ったように馬を走らせる謙信様の激しい心臓の鼓動。「二度と離さない」と言わんばかりの、腕の力強さ。そして、私を包み込む、懐かしい沈香と澄んだ冬の風の匂い。
あ……あぁ……!
涙が、ボロボロと溢れ出して風に飛んでいった。
甲斐の冷たい、暗い小屋で一人丸くなっていた夜。パサパサした雑穀を食べながら、「帰りたい」と膝を抱えて泣いたあの日。その全てが走馬灯のように流れて消えていく。
私が帰りたかった場所。私がずっと求めていた場所。それは、現代の日本でも、なかった。
――それは、この人の隣。…この人がいてくれる、この温かい胸の中こそが、私の帰るべき『唯一の場所』だったんだ。
「謙信様……っ! 謙信様ぁ……っ!」
しがみつく手に力を込め、大きな胸に顔を埋める。
好き……。やっぱり私、この人が好きだ……!!
この不器用で、真面目で、私のためなら修羅にでもなってくれる「上杉謙信」という男を、胸が張り裂けそうなほどの愛おしさとともに、心から愛しているのだと確信する。
「もう……どこへも行くな、葵。」
爆走する馬の上、耳元で響いた謙信様の声は、低く、悲しいほど切実だった。
「お前を……二度と誰にも渡さぬ。私の命に代えても!」
「…私も…ずっと、謙信様のそばに……!」
霧が晴れ渡っていく八幡原の空の下。
荒川伴次郎と色部弥三郎の歓声とともに、私たちは地獄の戦場を駆け抜け、光の差す越後への道へと爽快に突き進んでいくのだった。




