11.還りし命と遠き夢の残香
――風の音が、遠ざかっていく。
激しく揺れる馬の背、甲冑の冷たい触感、耳元をかすめる怒号と蹄の音。そして何より、私を力強く抱きしめてくれる、謙信様のあたたかな体温。
ああ……よかった……本当に、帰ってこれたんだ……。
謙信様の広く熱い胸の中で、私の安堵は深い深い暗闇へと溶けていった。極限まで張り詰めていた糸がプツリと切れ、私はそのまま意識を失った。
「葵……!?葵、しっかりせよ!」
八幡原を離れ、上杉軍の本陣へと辿り着いた頃、謙信は腕の中の葵がぐったりと力が抜けていることに気づいた。青白い顔、力なくダラリと馬上から垂れ落ちたその手足。焦燥に駆られた謙信は慌てて馬を止め、葵の小さな鼻先に震える指先をあてた。
「……息は、ある。かすかだが、息をしておる……!」
安堵の溜息を吐く謙信の周りに、荒川伴次郎と色部弥三郎、そして直江景綱ら重臣たちが集まってきた。
しかし、馬上から謙信に抱きかかえられた葵の姿を目にした瞬間、誰もが息を呑み、言葉を失った。
ダラリと垂れ落ちた手首は、骨が浮き出るほど細く削げ落ち、皮膚がひび割れ血が滲みでている。春日山城にいた頃の、豊かで健康的だった面影はどこにもない。甲斐国での過酷な重労働と、雑穀ばかりの粗末な食事、そして兵士たちからの心ない仕打ちがいかに苛烈であったか、その痩せこけた姿が雄弁に物語っていた。
「……おのれ、武田め……!お嬢をこれほどまでに追い詰めおって……!」
伴次郎が血を吐くような思いで拳を握りしめ、弥三郎は悔しさに唇を噛みちぎらんばかりに伏目になった。重臣達も言葉を失い、謙信の瞳が怒りに震えていた。
戦場は依然として混迷を極めていた。
前半、謙信率いる上杉軍の奇襲は完全に功を奏していた。車懸かりの陣で武田の本陣へ肉薄し、信玄の弟・武田信繁や軍師・山本勘助を討ち取り、武田軍を崩壊寸前まで追い詰めた。しかし、妻女山へ向かっていた武田の別動隊(一万二千)が遅れて八幡原へ到着したことで、今度は上杉軍が挟み撃ちにされる危険が生じていた。
だが、謙信の瞳に焦りはない。
「我が目的は達した。葵を奪い返し、武田の名だたる猛将らを討ち取ったのだ。――全軍、退くぞ!この戦、真の勝者は我らだ!」
謙信の威厳に満ちた号令のもと、上杉軍は疾風のごとく八幡原を脱出し、越後への帰路へと就いた。
行軍の最中、謙信は葵をひとときもその手から離さなかった。自身の羽織で彼女の身体を包み込み、献身的に水を飲ませ、声をかけ続けた。だが、野戦の只中でまともな医者も薬もない環境では、看病にも限界がある。葵の冷たい体温は戻らず、固く閉ざされた瞼が開くことはなかった。
春日山城。
早馬によって葵の奪還と容態の急変を知らされていた城内では、小間使いの梅と典医が、固唾をのんで待ち構えていた。
城門をくぐり、馬から降り立った謙信が、大事そうに抱え込んダ葵を屋敷の寝所へと運び込む。その横顔を一目見た瞬間、梅は息を呑み、その場に崩れ落ちそうになった。
「ッ!姫様……!そんな…………!」
「すぐに、室内へ!!」
すぐさま典医による診察が始まった。
脈を取り、胸の音を聞き、瞼をめくった医者の顔が、みるみるうちに蒼白になっていく。
「……いかがだ!葵の容態は!?」
謙信の詰問に、典医は恐縮しきりになりながら、絞り出すように答えた。
「……申しあげにくいのですが、重度の栄養失調……そして長期間の労苦による内臓機能の著しい低下にございます。精神的にも肉体的にも、限界を遥かに超えておられる。……いつ息を引き取られても、おかしくありませぬ。」
その診断結果に、控えていた伴次郎や弥三郎、重臣たちは絶望に打ちひしがれた。
それから、数日「最悪の事態」という暗雲が、春日山城を重く押し包んでいた。
だが――ただ二人だけは、諦めていなかった。
「姫様は、必ず目覚められます。私が……私がずっとお側でお世話をいたします!」
梅は毎日温かい手拭いで葵の身体を拭き清め、葛湯を一口ずつ唇に流し込む。床ずれができるからと、日に何度も葵の体の向きを変え、葵に声をかけ続けた。
「姫様、今年も田植えが終わりましたよ。また、除草作業が始まります。今年も腰が痛くなりそうですね。」
「姫様…今日は椎茸農園に行ってきました。今年は豊作のようですが、大きすぎるのも多いと村長が嘆いていました。でも、きっと村人達は焼いて食べるんだと思いますよ。」
たわいの無い話。返事の返らない一方的な呼びかけ。それでも、梅は葵に聞こえていると信じて語り続けた。そして謙信もまた、政務の処理と毘沙門堂での必死の祈祷以外の時間は、すべて葵の枕元で過ごした。
「葵……守ると言っておきながら、約束を違えた私に怒っているのか?…すまない。だが…次は必ずやお前を守ってみせる。」
大きな手が青いの白い顔を撫でる。
骨と皮ばかりのその感触に、触れた手がかすかに震えた。そこにいたのは、軍神でも越後の龍でも無い、必死に願い、赦しをこうただの男だった。
「まだ、天界に帰らないでおくれ…。私の元に戻ってきてくれ……。」
冷たい彼女の手を両手で包み込み、謙信はただ葵のために祈り続けた。
――その頃。
私は、まぶしい光の中で目を覚ましていた。
……あれ?
体を起こすと、手に触れたのは使い古されたハンドルと、ビニールシートの感触。重機や農機具の独特の匂い。そこは、見慣れた郊外のホームセンターの駐車場だった。
私は軽トラックの運転席に座っていた。
「……ん?私……寝てた……?」
頭がぼーっとする。
何か夢でも見てた気がする…でも、思い出せない。
ガチャリと助手席のドアが開き、トイレから戻ってきたばあちゃんが乗り込んできた。
「あら葵ちゃん、寝てたのかい? 」
「あ……うん。なんか、寝ちゃったみたい。もう行ける?」
「ああ、いいよ。さ、家に戻ってお昼にしようね。」
軽トラがガラガラと音を立てて走り出す。
後ろに積んだ、椎茸の原木や種芋が車の動きに合わせて小気味いい音を立てた。
私は都内で働いている会社員だ。じいちゃんが亡くなってから一人暮らしとなったばあちゃんが心配で、連休を使って実家のばあちゃんの家に農作業の手伝いにきていた。
おばあちゃんの家につき、荷台から荷物を下ろす。
「じゃ、私はお昼ご飯の用意してるからね。ここ、お願いね。」
「はーい。」
買ってきた荷物を片付けて、小さな食卓を二人で囲む。並んだばあちゃんの得意料理に迷い箸をして、炊きたての白米を口に含んだ時。胸の奥が、何故かぎゅーっと苦しくなった。
……あれ?なんでだろう……涙が出そう……。
甘くて温かい白米。
出汁がしっかり効いた椎茸のお味噌汁。
それらを口にするたび、胸の奥で何かが引っかかる気がした。
誰かと、これを食べた気がする。
誰かと、これを育てていた気がする。
誰かに…大切にしてもらっていた気がする。
でも、一番肝心な「誰」が、思い出せない。
畑で雑草を抜きながら、私は何度も手を止めてため息をついた。慣れない農作業。でも、次に何をするのかなんとなくわかった。
でも、それはなぜ?
ピロン!
スマホがメッセージの受信を告げていつものように手に取る。内容はDMだった。なんとなく検索画面を開いて、明日の天気でも調べようかと思った時、予測変換で出てきた文字に目を見開いた。
『信玄の治水工事』
『戦国時代の結婚とは』
『大豆から醤油の作り方』
え…なにこれ?
全く記憶のない検索履歴。そして、タッピーのチャット履歴はさらに衝撃だった。記憶にない、稲の作り方や醤油、酒の作り方…様々な検索履歴が並んでいる。
「は?なに、どういう事?」
スマホの乗っ取り?いやいや、乗っ取ったところでこんな事検索する?
様々な憶測が頭の中に浮かんでくる。しかし、どう考えても検索をした記憶はなかった。
そんな私の様子を、縁側からばあちゃんが静かに見つめていた。
「葵ちゃん、何か、あったのかい?」
ばあちゃんがお茶を差し出しながら、優しく微笑む。
「あ……分かる?うん……なんかね、すごく大事なことを忘れてる気がするの。すごく大切で、大きな何かを……。」
私は膝を抱え、素直に胸の内を明かした。見覚えのない検索履歴と、心に引っ掛かる何か。焦りと切なさで、胸が押し潰されそうだった。すると、ばあちゃんは私の頭を優しく撫でてくれた。
「焦って思い出さなくても大丈夫だよ。その時がくれば、ちゃんと体も心も思い出すさね。それが……本当に大切なことなら、必ずね。」
ばあちゃんの温かい言葉に、心が少し軽くなった。それから、私は無理に思い出そうとすることをやめた。
連休最終日。
明日からはまた東京へ戻り、いつもの会社員生活が始まる。
その日の夕方、おばあちゃんの家がある集落で、小さな祭りが催されていた。私は散歩がてら、村の鎮守の社へと参拝に向かった。
境内に続く川沿いの参道を歩いていると、ふと、強烈な既視感が私を襲った。
川のせせらぎ、豊かな水流。
……あれ?なんか……ここに、大きな水車とか……なかったっけ……?
木組みの車輪が、ガタゴトと音を立てて回っている光景。ドスン、ドスンと、米を突く杵の音がリアルに聞こえた気がした。
「ううん、こんな田舎の川に水車なんてあるわけないか……。」
自嘲気味に首を振ると、参道の階段の前に着いた。
「葵ちゃん、ここにお祀りされている神様が誰だか知ってるかい?」
追いついてきたおばあちゃんが、古い鳥居を見上げながら言った。
「え? 誰なの?」
「ここはね、昔から『毘沙門天様』をお祀りしているんだよ」
――『毘沙門天様』
その言葉が耳に届いた、まさにその瞬間。
パンッ!!!
私の頭の中で、何かが激しく弾けた。
『葵。私に、お前の望みを言ってみよ』
『お前は、私に遣わされた天女だ』
『葵……もう誰にも渡さぬ……っ!』
濁流のように溢れ出す記憶!
乗馬の感触!泥まみれの田んぼ!からくり水車!
信玄に攫われた暗い部屋!
そして――八幡原の戦場で、私を強く強く抱きしめてくれた、あの人の熱い胸の鼓動!!
「謙信様……っ!!」
次の瞬間、視界が真っ白な光に包まれる。そして、私は光の渦の中へと落ちていった。
――爽やかな、初夏の風が頬を撫でていく。
少しずつ大きく聞こえる鳥のさえずり、畳の匂い、そして……手元から伝わる、痛いほどの温もり。
「……ん……っ?」
重い瞼を、ゆっくりと開けた。
目の前に広がっていたのは、見慣れた春日山城の屋敷の天井だった。
「……ッ……葵……!」
掠れた声が聞こえ、視線を落とす。
そこには、私の右手を両手で強く握りしめたまま、隈の浮いた目で私を見つめる、謙信様の姿があった。
「謙信……様……?」
私の口からこぼれた声に、謙信様の美しい瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
「ッ……!あぁッ…葵ぃッ……!!」
軍神と呼ばれた男が、子供のように声を上げて私にすがりつき、その胸の中に強く、強く抱きしめてくれた。
「毘沙門天よッ……!再び、私の元に葵を使わせてくれたこと…感謝いたしますッ…!」
抱きしめられた胸の熱さ。沈香の香り。
夢なんかじゃない。これこそが、私の本当の現実。
「ただいま……帰りました、謙信様。」
私は痩せた腕を伸ばし、謙信様の背中にそっと回した。
初夏の風が、二人の帰還を祝うように、静かに部屋を吹き抜けていった。




