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12.溶ける氷、交わす盃

「あ、あの、謙信様……?そろそろ…どうかお体を離してくださいッ…。」


覚醒の安堵と歓喜が過ぎ去り、ようやく冷静さを取り戻そうとした私の頭は、急速に沸騰し始めていた。かつて「生涯不犯」「毘沙門天に身を捧げ、妻は娶らん」と重臣たちの前で公言し、私にとってもあまりに遠い、神仏の加護を纏ったような存在だったあの軍神・上杉謙信様が、今や静かな涙で目元を濡らし、私を胸の中に抱きしめているのだ。


うそ……でしょ……。頭が追いつかないんだけど……っ!


身をよじって離れようとする私の両肩を、謙信様は逃がさないようにガッシリと掴んだ。

神仏のごとき冷徹な面影は消え去り、そこには熱く、そして深く沈んだ瞳で私を見つめる一人の男がいた。


「……天女として、崇めるだけでは足らぬのだ。」

「え…?」


耳元で響く、低く掠れた声。


「これまで私は、お主を天からの授かりものとして遠くから護ることこそが、我が責務だと思っておった。……だが、我が目を離した隙に、お主が傷つき、息も途絶えだに倒れる姿を見た時……私は胸が引き裂かれるほどの恐怖を覚えた。いかなる激戦においても覚えたことのない……己の無力に身が震えるほどの恐怖だ。」

「謙信……様……?」

「その時、悟ったのだ。私は、ただお主を天の上に祀り上げたいのではない。この手で抱きしめ、いかなる災いからも護り……ただただ、私の傍らで幸せに笑っていてほしいのだと…。」


その眼差しには、これまで己の生き様としてきた「不犯」や「信仰」さえも軽々と超えてしまったことに対する、戸惑いと凄絶な覚悟が揺れていた。


「私は生涯不犯を誓い、神仏にこの身と心を捧げて生きてきた。……だが、神仏に捧げていたはずの我が心のすべては、今や完全にお主のものだ。人を愛するとは、これほどまでに苦しく、愛おしいものなのか。……お主を失うことを考えると毘沙門天の加護も、軍神の名も……霞んでしまう。」


――ッ!

……ちょっと待って、それって……!


謙信様は決して信仰や自らの誓いを破って「世俗の男になる」と言っているわけではない。むしろその逆だ。妻を娶るわけでも、欲望に任せるわけでもない。ただ、己の魂と命の優先順位の頂点に、神仏ではなく「私」を据えてしまったのだ。


そ、そんなことっ…て___!?


彼の一言一言に誓いそのものを上書きしてしまうほどの、強く重いものが滲んでいる。

自分に言い聞かせてきた。「謙信様は誰も愛さず、私の想いは終わらせなきゃいけない」と。そうやって自分の恋心に何重もの鍵をかけていたはずなのに、その壁をこんなにも真っ直ぐに、圧倒的な熱量で壊されてしまっては、冷静さも保てるわけがない。

顔を真っ赤にして硬直する私を見て、謙信様はどこか苦しげに、けれど慈しむようにフッと微笑むと、そっと私の額に自身の額を合わせた。


「今は…これ以上、何も言うまい。葵がこうして生きて戻ってくれた……それだけで良い。」


……そんな顔で、そんなこと言うなんて……もう、反則だよ……。


これ以上何かを考えようとすれば、思考回路が完全に焼き切れてしまう。私はどうにか羞恥心を押し隠そうと、ただ真っ赤に染まった顔を謙信様の胸元に埋めることしかできなかった。


それから、少しずつではあるが、私の病状は快方に向かって行った。重度の栄養失調と疲労でボロボロだった体も、梅ちゃんが毎日心を込めて作ってくれる温かいお重や粥、そして謙信様の手配してくれた薬のおかげで、少しずつ肌のツヤを取り戻していった。


「姫様!今日は椎茸のお出汁を効かせたお味噌汁と、やわらかいお豆腐でございますよ!」

「ありがとう梅ちゃん……。うぅ、美味しい……本物の食べ物の味がする……。」


涙を流して食事を摂る私を見て、梅ちゃんも目元を拭いながら微笑んでくれる。少しずつ…越後の日常が戻ってきた気がしていた。


私が意識を取り戻し、少しずつ回復しているという知らせは、城内全体に瞬く間に広がった。

特に馬廻衆の二人――荒川伴次郎くんと色部弥三郎くんの喜びようといったらなかった。


「お嬢ぉぉぉっ!よかった……本当によかったぁぁぁっ!」

「葵様、お顔色が戻られて何よりにございます……っ!」


二人は毎日、屋敷の廊下で今まで以上に目を光らせて警護にあたってくている。そして、護衛の効率化と今日の為に私の屋敷は謙信様の住まいの屋敷の離れに移されることになった。


「け、謙信様!?あの、ちょっと…これは…!?」

「どうした?何も気にせずとも良い。力を抜いおれ。」


まだ、満足に歩くこともできない寝巻きに小袖を羽織った私を、謙信様はそれはそれは爽やかな笑顔で抱き上げた。


「や、ちょっと…下ろしてください!みんな、見てる!」

「下ろしたところで歩けはしまい?それに、草履もないのだ。観念して大人しくしてくれ。」


春日山城には天守を持った立派な城があるが、そこは戦時や特別な時のみ使うとの事で、謙信様は普段は重臣達の屋敷が立ち並ぶエリアの一つ上の広大な場所に屋敷を構え、そこで過ごしている。私の屋敷から謙信様のお屋敷まで徒歩数分。護衛の兵士達と甘粕さんや直江さん、そしてその奥方様や家族が見守る中、謙信様にお姫様抱っこされた状態で運ばれている。その間私は羞恥に悶えて死にそうになったことはまだ、記憶に新しい。


その後は、柿崎さんや千坂さん達もお見舞いに来てくれて、みんなからのたくさんの温かい言葉に泣きそうになってしまったのは私と梅ちゃんだけの秘密だ。


……だが、体調が戻ってくると今度は別の問題が発生した。


「ヒマだ……っ!!」


寝床の上でごろごろ転がりながら、私は天井を見上げて叫んだ。元々が貧乏性の社畜OLである。畑を耕したり、水車を回したり、新製品の開発をしたりと、常に動き回っていた私が、一日中部屋で安静にしているなど生殺しもいいところだった。

そんな私の手持ち無沙汰な様子を、そっと察してくれた人物がいた。


「葵。……少し、外の風を浴びに行くか?」


部屋に入ってきたのは、頭巾を外した羽織姿の謙信様だった。


「えっ!? 外に出てもいいんですか!?」

「うむ。だが、まだ馬を自分で御せるほど回復してはおらん。ゆえに……私と同乗だ。」

「同乗……!?」


再び跳ね上がる心臓。けれど、部屋の退屈さに耐えかねていた私は、断ることもできずに謙信様の手を取った。


春日山城の門前には、あの名馬・放生月毛が待機していた。謙信様は軽々と私を抱き上げると、自身の鞍の前方へと乗せ、後ろから包み込むように手綱を握った。


ち、近い……っ!背中に謙信様の胸板が当たってるし、耳元から息遣いが聞こえる……っ!!


パニックを起こしそうな私を乗せて、馬は静かに城下へと歩み出しす。左右には伴次郎くんと弥三郎くんが、がっしりと警護についていた。そして後ろには護衛兵士が続いている。

馬上からの景色も頬に感じる風も全てが懐かしい。そして…


「気持ちぃぃー!」


思わず声に出して、背筋を伸ばす。その直後、後ろのからクスクスと笑い声が聞こえてきた。


ハッ!!謙信様がいたこと忘れてた!


恥ずかしさから、チラッと後ろをのぞけば見上げた先には楽しそうに笑う謙信がいて、その顔の美しさと近さに慌てて前を向いた。


「すまん。…つい、可愛らしいと思ってな…。怒っているのか?」


顔もいいのに声もいいとか…マジで、反則すぎる。


「お、怒ってません……でも、謙信様はずるいです。」

「…ずるい?私が?…どうしてだ?」

「ッ…し、知りません。」

「うむ…。天女の心を読むのは戦よりも難しい様だ。

」


フワリと香る線香の匂いと少しだけ締まった腕に耳まで赤くしながら、私はただ前を向き続けた。


城を出てしばらく進むと、懐かしいあの村が見えてきた。


「あ……!」


私の口から感嘆の声が漏れた。

そこには、一向一揆で焼かれた田畑の面影はなく、村人たちが命がけで守り抜いてくれた【広大な黄金の田んぼ】と【青々と実る畑】が広がっていた。水車小屋もガラガラと元気に音を立てて回っている。


「葵様ぁぁぁぁっ!!」

「天女様が……葵様がお戻りになられたぞーっ!!」


村人たちが作業の手を止め、涙を流しながら集まってきた。


「みんな……!ただいま!」 

「お帰りなさいませ!よくご無事でッ…!」

「葵様、ご覧くだされ!葵様の教えてくださった通りに水抜きをし、肥料を入れたおかげで、今年もこんなに見事なお米や野菜が育っております!」


村長が誇らしげに胸を張る。


「すごい……!みんな、私がいない間もこんなに頑張ってくれたんだね……!」

「なに、当たり前のことです。…葵様がいつ戻られても良いように、この村を最高の米どころにしておくのが私どもの誓いでしたからの。」


村長たちの温かい笑顔と、すくすくと育つ作物たち。

甲斐の寒く貧しい村で耐え忍んでいた記憶が、越後の豊かな風とともに温かく上書きされていくようだった。


馬を休ませるために、川の木陰で馬を降りな謙信様は

そのまま私を抱き下ろすと、木陰の平らな石の上にそっと座らせてくれた。


「……葵。これを。」


懐から取り出されたのは、小さな竹筒と、丁寧に包まれた団子だった。


「越後の水と、お主の好きな団子だ。喉が渇いたであろう?」

「あ……ありがとうございます!」


冷たい水を飲み、甘い団子をかじる。

謙信様は、その横で静かに膝を折り、私が美味そうに食べ進める姿を優しく、温かい目で見つめていた。


「……美味いか?」

「はい。やっぱり、越後の食べ物が一番美味しいです。……ここに、帰って来れてよかった。」


私が笑顔で答えると、謙信様はふっと口元を緩め、大きな手を伸ばすと、私の頭を愛おしそうに撫でた。


「そうか。……お前が美味そうに食す姿を見られるだけで、私は満たされる。」


昔のように「天女」として拝むような距離感はない。

けれど、近すぎる事もないし、踏み入る事もない。

ただ、私という存在を愛おしみ、側にいてくれることを心から噛み締めているような、謙信様の優しさに胸がギューッと締め付けられ、私は恥ずかしさを誤魔化すように団子をモグモグと頬張るのだった。



その日の夜。春日山城の重臣居住区にある、静かな裏庭。

昼間は部屋の前で槍と刀を構え、ピシッと生真面目に立つ荒川伴次郎と色部弥三郎。だが今夜は、珍しく二人が庭の大石に腰掛け、月を見上げていた。

手には、私が現代知識と水車精米を用いて作らせた、あの極上の「越後の冷酒」がなみなみと注がれた漆の杯。


「……なぁ、弥三郎。」


静寂を破ったのは、大男の伴次郎だった。昼間の逞しい姿とは裏腹に、彼の声はかすかに震えていた。


「俺……今日、お嬢を御実城様の馬に乗せた瞬間、手の震えが止まらなくなっちまってさ……。また、お嬢の手を離しちまうんじゃねえかって……。」


伴次郎の目から、大粒の涙がポロポロと零れ落ち、杯の酒面に波紋を作った。


守るべき主人を攫われた、自分の無力さに打ちのめされ、命を捨てようとまで詰めた男。主人が無事に戻り、自分の目の前で笑ってくれた喜びと、二度と失いたくないという恐怖が、涙となって溢れ出していた。

そして、いつも冷静沈着な弥三郎も、今夜ばかりは目元を真っ赤に腫らしていた。

彼は静かに杯を傾け、冷酒を喉へと流し込むと、伴次郎の肩をポンと叩いた。


「……みっともないぞ、伴次郎。だが……私も同じだ。お嬢様が戻られ、私の顔を見ていつものあの笑顔を浮かべてくださった時……我が命など、とうに捨てても惜しくないと心から思った。」

「弥三郎……。」

「我らは、お嬢様の盾だ。二度とあの過ちを繰り返さぬ。……そのためなら、鬼にでも修羅にでもなってみせる。」


二人が静かに杯を合わせ、カチンと心地よい音が夜の庭に響いた。

その瞬間――。

ふわりと庭の木々が揺れ、夜風に混じってどこからか、鉄の匂いがした。二人は顔を見合わせながらも、動くことはしない。姿は見えない。気配すらない。

けれど、天井の裏や樹木の影に潜む「軒猿」たちもまた、今夜だけは姿を隠したまま、我らの天女が無事に戻った喜びと己の健闘を称え合い、闇の中で静かに誓いを新たにしていた。


表の馬廻衆と裏の忍び。守る形は違えど誓った忠誠は同じ。彼らの固い絆は、「守るべきお方」への思いを一国を支える最強の盾へと完全に昇華していたのだった。



同じ頃、甲斐国――躑躅ヶ崎館。

川中島の激しい戦いと、天女奪還劇の興奮が冷めやらぬ居室で、武田信玄は一人、蝋燭の小さな火に照らされながら座していた。手元にあるのは、あの八幡原で謙信の猛攻を受け止めた漆塗りの軍配(扇)。そこには、謙信が上から渾身の力で斬りつけた、生々しく深い刀の傷跡が残っていた。

信玄はその傷跡を、大きな指でそっと撫でた。

そして、寂しげに、けれどどこか満足そうにフッと口元を緩めた。


「フッ……。天女の羽衣は、ついに手に入らず、か……。」


脳裏に浮かぶのは、甲斐の貧しい子供たちに、一口も自分では食べずに眩しい白米を分け与えていた、あの少女の美しい微笑み。


「我が甲斐の民を想い、白米を惜しげもなく分け与えた、あの慈愛に満ちた顔。……天女はやはり、越後の龍の元へ戻るのが、天の理であったのだろうな。」


あの戦場で、自分の天幕を切り裂いて単騎で突っ込んできた謙信の鬼神のごとき猛念。そして、それに応えるように馬の背へとひらりと跳ね上がった少女の、ブレない強い瞳。

信玄は、上杉の絆の強さに、そして一人の人間としての葵の器の大きさに、完全なる敗北を認めていた。


「龍と天女……見事なものよ……。」


ぽつりと呟いた、その時だった。

胸の奥から、焼けるような激しい痛みがせり上がってきた。


「……っ!? ゴホッ! ゲホッ、ゴホッ……!」


信玄は激しく咳き込み、咄嗟に懐から取り出した白い布で口元を押さえた。

激しい咳が収まり、ゆっくりと布を離す。

そこには――点々と、鮮血の赤が広がっていた。


歴史上、のちに天下統一の目前で病に倒れることになる「甲斐の虎」武田信玄。その身体には、すでに「死(納期)」の影が、確実に、静かに忍び寄っていたのだった。


月明かりの下、信玄は血のついた布を見つめ、静かに目を閉じるのだった――。


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