13.戸惑う天女と過保護な軍神
すっかり体調も回復した私は、自分の中に湧き上がる猛烈な「焦り」と戦っていた。
やばい……っ!甲斐で拉致されてたせいで、作業が大幅に遅れてる!もうすぐ冬になっちゃう!
屋敷を計画書とスマホを片手に急いで歩く。
今日は稲刈り前の水抜きと養鶏の状態を確認して…牛の繁殖も竹爺(酪農家)に確認しないと…!
……しかし。
玄関で謙信様とすれ違った瞬間、私は「お疲れ様です!」とだけ告げて超高速で頭を下げると、「葵?」と言う謙信様の声を背中で聞きながら脱兎のごとくその場から逃げ出した。
今の私は、謙信様の顔が直視できないのだ。
以前までは「超絶イケメン大名」「神々しいお方」として、意識せず接することができていた。
しかし、あの病床で目覚めた日以来――。
謙信様の距離が近い!スキンシップも増えている気がする!そして耳元で囁かれた低く熱い甘い声と、抱きしめられた胸のぬくもりが、謙信様の姿を見るたびに脳内で超高画質再生されてしまうのだ。そして、それが嫌ではない自分が…いる。
無理だよ…顔が直視できない。見るだけで顔が沸騰してタコみたいになっちゃう!!
壁の陰に隠れ、真っ赤になった両頬を両手で挟んで「ううう……」と馬上で悶絶する私。そんな私の奇行を、後ろで見守っていた馬廻衆の二人が観察していた。
「なぁ、弥三郎。お嬢、なんか最近、御実城様が来ると変だぞ?急に挙動不審になって逃げ出すし……まだ身体の調子が悪ぃんじゃねえか?」
首をかしげながら、真剣に心配する伴次郎くん。その横で、弥三郎くんは深々と溜息を吐き、扇子でポンと伴次郎の肩を叩いた。
「……伴次郎、お前は本当に鈍いな。」
「あぁ!? なんだよそれ!」
「……ふっ、御実城様を意識されておられるのだよ。あのお優しく健気なお嬢様が、御実城様を前にして赤くなって逃げ回られる……。くっ、なんとお労しく、そして可憐なことか……。」
弥三郎くんは一人で納得し、どこか温かい目で逃げていく私の背中を見送るのだった。
夕暮れ時。
見渡す限りの美しい黄金の田んぼ。水は抜かれて、後は稲刈りを待つばかりだ。
「よしっ、今日のノルマ終了ーっ!」
私は汗を拭い、作務衣についた泥をパンパンと払い落とした。
村の人たちと手分けして進めた排水溝の整備もバッチリ。これなら今年も最高の米が収穫できるはずだ。
鶏も牛達も順調に増えているし。これでまた、食卓が豊かになるし、村のみんなもお腹いっぱい食べられるはず。
「葵様、今日も一日お疲れ様でございました!」
「お気をつけてお帰りくだされ!」
「うん、みんなもお疲れ様!また明日ねー!」
村の屋敷で小袖に着替えて、外に出れば弥三郎くんと伴次郎くんが馬を引き連れてくる。村人達に手を振り、馬に乗ろうとしたその時だった。
遠くの畦道から、一頭の白馬を引きながら歩いてくる人影があった。白い頭巾をなびかせ、夕日を浴びて凛と佇む男____謙信様だった。
供も連れず、護衛も従えず、謙信様は直々に私を迎えにやってきたのだ。
「謙信様……!?」
農民たちが「御実城様だ……!」と一斉に恐縮し、平伏して地面に土下座する。そんな中、謙信様は迷いのない足取りでこちらにやってくると私の前に立った。
そして、泥のついた私の両手を、躊躇うことなく自身のアたたかい両手で包み込んできたのだ。
「きゃっ……!?」
あまりの距離の近さに、私は心臓が跳ね上がり、一瞬で顔が茹でダコのように真っ赤になった。
「け、謙信様、どうしてここに……!?それに、手が汚れてしまいます……!」
「構わぬ。」
謙信様は、どこまでも優しく、愛おしそうに微笑んだ。
「馬に乗るばかりでは体が鈍ってしまうからな。散歩がてら葵を迎えにきた。……さあ、城へ帰ろう。今夜はお主の好きな、醤油をつけた焼きおにぎりだ。私の馬に乗りなさい。」
「え、ええっ!?でも私、もう一人で――!」
拒否権など最初から存在しないかのように、謙信様は自然な動作で私の脇を持ち上げると、ひょいと軽々と放生月毛の背へと乗せた。そして自身も素早く跨がり、私を後ろから包み込むように手綱を握る。
「伴次郎、葵の馬を連れてこい。」
「ハッ。」
「…では、葵…しっかり掴まっておれ。」
「あ、はい……っ!」
春日山城へ向かう一本道。
夕日に染まる越後平野を駆け抜ける馬の上で、私はまたしても謙信様の広く、温かい腕の中に囚われることになった。
風が頬を撫でていく。
背中から伝わってくる、力強い心臓の鼓動と、包み込まれる安心感。
『帰りたい』って、甲斐の暗い部屋で泣きながら願った場所……。
それが今、私のいる場所。
意識しすぎてギクシャクしてしまうけれど、この包み込むような過保護な優しさに触れるたび、私の中の何かが解けていく。
私の中で何重にも蓋をして鍵をかけた、恋心が少しずつ緩み、こぼれ落ちていることを夕暮れの風の中で実感していた。
一方、その頃。春日山城の本丸・政務の間。
いつもなら鋭い眼光で地図を睨みつけ、他国の情勢や兵糧の計算をテキパキと指示しているはずの謙信様……の留守を守る重臣たちが集まっていた。
側近の千坂景親は、手にした和紙の書類を前に、胃を痛めそうな顔で天井を仰いでいた。
……思い返せば、今日の昼間の御実城様はひどかった……。
昼間の政務の時間を、千坂は回想する。
『御実城様、新田開発の件ですが、千曲川沿いの……御実城様?聞いておられますか?』
『……千坂。』
地図を眺めていたはずの謙信様は、どこか遠くを見るような、考える顔をしてぽつりと呟いたのだ。
『葵は、今日も田畑に出ているのか…。甲斐で痩せ細った身体がまだ戻りきらぬというのに、なぜあそこまで働くのだ?私が美味いものを食わせ、綺麗な衣を着せて城に閉じ込めておいては……不満なのだろうか?』
な、なんだと?!
あの御実城様が……何を…!!?
『御実城様。今は政務の時間にございます。葵殿はただ、ご自身の知識を越後のためにと健気に励んでおられるのですぞ。それより、この書類に花押を……。』
『…うむ…千坂。女人とは、どのような贈り物を喜ぶのだ?越後布か?それとも京都から取り寄せた紅か? ……いや、あやつは白米や農作業を喜ぶからな、やはり畑を一つ買い与えるべきか……?』
『御実城様!?せめて某の話を書いてくだされ!…きっと…葵殿は…贈り物よりも、越後や民の為に励まれるお姿が好まれまする。』
『誠か?』
『誠にございます。葵殿ご自身が越後の民の為に毎日汗水流して、泥仕事をされるお方です。同じ様に御実城様も越後の民の為に政務に励まれることこそが…葵殿が望まれることかと。』
あの厳格で、神仏の如く冷徹だった軍神・上杉謙信が、時折急に使い物にならなくなってしまう?「葵に何を贈れば喜ぶか」「どうすれば城で大人しくしてくれるか」で頭がいっぱいになり、政務が手につかなくなっているのだ。
「はぁぁぁぁ……。天女の恩恵もこの様な形で弊害をもたらすとは…。」
千坂は政務の間の真ん中で、深々と、本日数百回目となる溜息を吐いた。
「千坂殿、どうされた?顔色が悪いぞ?」
入ってきた直江景綱が声をかける。
「直江殿……御実城様が……御実城様が完全に『葵殿病』にかかっておられる……。我が胃に穴が開くのも、時間の問題にございます……。」
「うむ…。しかし、逆に考えれば、このまま御実城様と葵殿が結ばれれば、後継も生まれ、上杉家は安泰ではないか?」
「某も考えました。しかしながら、関東の千葉氏が黙っていないでしょうな。あれだけ姫の婚姻で無礼を働いたのですから。…はぁ…。」
「そこは、葵殿は吉祥天女なのだから、毘沙門天様を祀り信仰している御実城様との結びつきに意義など無意味であると、考えるのが道理でござろう。」
「…そうだといいのですが…。」
側近・千坂景親の苦労は、まだまだ続きそうであった。
そんな日が続いたある夜。春日山城の静かな廊下。
私は行灯の明かりを手に、自室へ戻ろうとしていた。
ふぅ……今日も疲れたなぁ…。
そう思って角を曲がった、その瞬間。
ヌッ…!と闇の中から静かに影が現れ、私の行き道を塞いだ。
「きゃっ!?」
驚いて後ずさろうとしたが、背後は冷たい木壁。
逃げ場を失った私の目の前に立っていたのは――白巾を脱ぎ、乱れた黒髪を覗かせた謙信様だった。
トンッ!
頭上から、大きな手が壁につかれる音が響いた。
か、壁ドン……っ!!??
現代の恋愛ドラマでしか見たことのないシチュエーション!逃げ場のない超近距離。謙信様の高い体温と、沈香の甘い香りが一気に私を包み込む。心臓がドックンドックンと爆発しそうな音を立て、私は顔を真っ赤にして、ただただ俯くことしかできなかった。
「……葵。」
頭上から、低く、澄んだ声が降ってくる。
「最近、なぜ私から目を逸らす。…なぜ逃げるのだ?」
真剣で、どこまでも澄んだ瞳。誤魔化しの効かないストレートな問いかけに私はパニックになり、早口で弁明を叫んだ。
「そ、それは……!謙信様が、その、病床で目覚めた時あんなこと……『愛おしい』とか仰るから……私、どうしていいか分からなくて……っ!」
必死に顔を隠しながら早口で叫ぶ私。
「謙信様に…見つめられたり…触れられたら……心臓が破裂しそぅ…で…。」
もはや、何を言っているのかも羞恥でわからなくなってくる。そんな私をじっと見つめていた謙信様は、ふっと、どこか優しく、けれど少し寂しそうに微笑んだ。壁についていた手がゆっくりと離される。謙信様はそれ以上、力任せに私の本心を聞き出そうとはしなかった。武将としての強引さではなく、一人の男としての誠実な優しさがそこにはあった。
「……そうか。困らせてすまぬな。」
謙信様はそっと屈むと、泥仕事で少し荒れた私の手を、温かい両手で優しく包み込んだ。
「……葵の心の臓が破裂しては困るからな。…無理に今、どうこうしろと言わぬ。そなたの方から私に寄ってくれるのを……私はいつまでも待とう。」
「謙信様……。」
私を追い詰めるのではなく、私のペースを尊重し、どこまでも待ってくれるという強い誓い。
謙信様は私の手を優しく放すと、廊下の窓から見える綺麗な満月を見上げた。
「今宵は月が美しい。……葵が作ったあの煮物と梅干しで、共に月見酒をせぬか?」
あぁ……もう、ズルいよ……。
胸の奥が、愛おしさと切なさでいっぱいになった。
ギクシャクしていた私の心は完全に溶け去り、目の前のこの人と一緒に過ごしたいという素直な気持ちへと変わっていったのだった。
「……はい。喜んで、お付き合いします。でも、お酒と梅干しは程々にしてくださいね?お体に触りますよ。」
「…葵の頼みでも難しい所ではあるが……善処しよう。……私の天女殿。」
月明かりの下、私は今度こそ逃げずに、謙信様に向かって最高の笑顔を向けたのだった。




