8.勝利の女神と春を待つ陣風
甲斐国――甲府・躑躅ヶ崎館。
山々に囲まれたその堅牢なる館の奥深く、重厚な甲冑や鞍が飾られた薄暗い一室に、一人の男が座していた。ドッシリとした巨躯に、鋭く光る眼光。豊かな髭を蓄え、朱塗りの数珠を大太刀を握るがごとき力強さで握りしめている男――「甲斐の虎」こと、武田晴信(信玄)である。
「……報告は、それだけか?」
地鳴りのような低い声が、部屋の空気を振動させる。信玄の前に平伏しているのは、甲斐の闇を司る忍び集団「三ツ谷」、「歩き巫女」を束ねる透破の頭領であった。
「ハッ……。越後国・春日山城下ならびに周辺の村々におきまする変貌、偽りございませぬ。春日山城の麓に位置する小さな農村におきまして、昨年秋、例年の収穫量が十俵に対し二百俵もの米が収穫されました。」
「……二百俵だと?!」
信玄の傍らに控えていた軍師・山本勘助が、その隻眼をカッと見開いた。
「バカな……! 越後といえば、信濃川や阿賀野川がたびたび氾濫する広大な湿地帯で泥田のはず。胸まで泥に浸かり、病気で黒ずんだ『鳥も食べぬ』まずい米しか獲れぬような土地だぞ!?それが一気に二百だと!?」
「左様でございます、勘助様。さらに……越後におきましては、川の氾濫を防ぐ見事な『堤』と『木組み』が築かれ、泥田は水が抜けて乾いた良田へと姿を変えております。その治水の理、あろうことか……我が甲斐の『信玄堤』や『聖牛』の仕組みに酷似しておるとのこと。」
「なんだと……!?」
信玄の太い眉が、ピクリと跳ね上がった。
甲斐国は山に囲まれた貧しい国だ。可耕地は少なく、たびたび押し寄せる水害と日照りに民は苦しみ、重税に喘いでいる。だからこそ信玄は、死力を尽くして治水工事(信玄堤)を施し、富国強兵のために豊かな信濃へと侵略の手を広げているのだ。その甲斐の秘術とも言える治水技術が、なぜ越後で応用されているのか。しかし、報告はそれだけに留まらなかった。
「さらに……山中に自生するはずの高級食材『椎茸』を、丸太の木を用いて大量に栽培する術が確立され、冬の間には水車を用いた仕掛けによって、大量の米が白く磨かれております。農民ですら白米を食べる日が多くあるようです。そして、その『白米』で醸された酒は、京都の公家や豪商をも唸らせる極上の味わい……。越後は今、冬の農閑期でありながら、富と食糧が溢れかえっておりまする。」
「馬鹿な…!」
「上杉は、大規模な農地改革と治水工事を越後全土で始める様子です。そうなれば、来年の今頃、越後は日本有数の米の産地、酒の産地になるやも知れませぬ。」
「……あり得ん!!」
勘助は震える手で膝を叩いた。
「越後といえば、冬は二メートルを超える大雪に閉ざされ、民も兵も屋内に引きこもるしか無き凍土のはず!なぜ冬の間にそれほどの富が生まれる!?上杉め、一体どのような妖術を使ったというのだ!?」
平伏した透破は、額を畳にこすりつけながら、震える声でその「核心」を口にした。
「……妖術ではございませぬ。これらすべての奇跡……たった一人の『女人』によってもたらされたものにございます。」
「なに……?女人……だと?」
信玄の鋭い瞳が収縮する。
「ハッ。名は『葵』。昨年、毘沙門堂に突如として現れた謎の女子にございます。謙信をはじめ上杉の家臣どもは、その女子を『毘沙門天の遣わした吉祥天女』と崇め奉り、直属の馬廻や軒猿を配して厳重に警護しております。先日、我が方が放った刺客も……謙信自らが馬を飛ばして駆けつけ、一蹴されました。」
沈黙が、部屋を支配した。
信玄はゆっくりと大太刀の柄に手を置き、深く、深く吟味するように目を閉じた。
たった一人の女人……。治水を配し、泥田を乾田に変え、椎茸を育て、水車で米を精白し、冬の雪国に莫大な富をもたらす……。
「……勘助。その女……一人で、十万の大軍に匹敵するのではないか?」
信玄の言葉に、勘助はゴクリと唾を飲み込んだ。
「……御意。いや、それ以上でございましょう。兵は減り、米は食い潰されますが、その女が生み出す『知恵』と『富』は、尽きることがございませぬ。もしやその女……真に天が越後に与えた『宝』やもしれませぬ。」
信玄は目を開けた。その瞳には、武将としての冷徹な野心と、一人の男としての凄まじい興味の炎が燃え盛っていた。
「上杉謙信……あの生真面目で『義』だの『不犯』だのと青臭いことを抜かす男に、そのような至宝は過ぎたるもの。……手に入れるぞ、その『吉祥天女』とやらを!」
「お戯れを、御館様。謙信の警護は鉄壁。先日の刺客の件で、軒猿どもの警戒は跳ね上がっております。生半可な謀略では奪えませぬぞ。」
「ふん、分かっておるわ。……刺客や忍びのコソ泥仕事で奪えぬならば、どうするか?」
信玄の口元が、ニヤリと凶悪に歪んだ。
「――正面から、軍を動かして奪い取るまでよ。そうだな…善光寺の別当の栗田永寿を寝返らせろ。金子はいくら使ってもかまわん。大方、旭山城に籠るだろうから、その際は兵を送り守りを固めてやれ。さすれば春になり、雪解けと同時に自ずと奴らは信濃の境へと出てくる。犀川だ。犀川で激突し、上杉の軍勢を叩き潰す。謙信の目を釘付けにし、その隙に甲斐の総力を挙げてあの女を攫う。……謀略を巡らせよ、勘助。」
「……ハハッ! この勘助、命に代えても完璧なる策を組み上げてみせまする!」
勘助が深々と平伏する。
信玄は遠く、北の空――雪に覆われた越後の山々を見据え、豪快に笑い声を上げたのだった。
一方、越後・春日山城。
「……え?……出陣……?」
雪の解け始めた越後。春日山城の自分の屋敷の居間で、私は運ばれてきた大きな漆塗りの箱を前に、目が点になっていた。目の前に立つのは、出陣の準備で甲冑を身に纏った直江さん、千坂さん、そして高熱に浮かされたような瞳をした謙信様だった。
「そうだ、葵。」
謙信様が、透き通るような、けれどどこまでも真っ直ぐで力強い声で私に告げた。
「お前も我が軍とともに、犀川へ出陣するのだ」
「いや、なんでですか!?私、戦なんて一切できませんよ?剣も槍も振れませんし、行っても足手まといになるだけです!」
パニックになって叫ぶ私に、謙信様は心底愛おしそうに、そして信仰に満ちた真顔で首を横に振った。
「戦う必要などない。お前はおのれの身をそこに置くだけで良いのだ。お前が我らの戦を見守ってくだされば、それは『天の正義』が我が上杉にあるという証明となる。毘沙門天の遣わしし吉祥天女――いや、『勝利の女神』が我らと共に渡海(出陣)するのだ。」
し、勝利の女神……!?さすがに狂信的すぎるでしょ!?
助けを求めるように千坂さんや直江さんへ視線を向けた。だが、普段は冷静沈着な内政のプロたちまで、目をギラギラと輝かせて深く深く頷いているのだ。
「葵様、お許しくだされ。」
と千坂さんが平伏する。
「兵たちの熱狂はもはや止まりませぬ。『吉祥天女様が共に出陣される!』と知らせるだけで、数千の兵の士気が爆発的に跳ね上がりました。これぞまさに、いかなる軍術にも勝る最強の兵法にございます!」
「左様です。」
直江さんも真摯な眼差しで続く。
「葵様は戦場にて刃を交える必要はございませぬ。我が軍の最奥、御実城様のすぐ背後にて、ただたたずんでいただくだけで良いのです。」
「いや、戦場に行くこと自体が無理ですよ。矢とか飛んでくるですよね?!」
「葵、案ずるな。」
謙信様がそっと私の前に膝をつき、漆箱の蓋を開けた。
「お前のために、特注の武具を用意させた。」
箱の中から現れたのは――眩しいほど鮮やかな、最高級の絹で仕立てられた艶やかな朱と白の着物と袴。そして、その上から羽織るように作られた、上杉家の九曜紋と竹に飛雀の家紋が美しく金の刺繍で施された、軽くて丈夫な特製の胸当て(胴丸)だった。兜はない。ただ、凛とした姿を際立たせるための素晴らしい衣装だった。
「お主に戦わせるつもりなど毛頭ない。これは葵を守り、そして我が軍の『勝利の象徴』として君臨してもらうための装束だ。お主の髪一筋、傷つけさせはせん。私のすぐ後ろにおれ。」
謙信様のその瞳には、一人の女性を守り抜くという男の情熱と、天女を掲げて無敵の軍勢を率いるという大名の狂気が、絶妙なバランスで同居していた。
……ダメだ。これ、何を言っても逃げられないやつだ……!
あれよあれよと言う間に、梅ちゃんたちによって艶やかな着物と特注の胸当てを着用させられ、私は春日山城の門前へと引き出された。しっかりと結い上げた髪が少し痛い。帰りたい。後ろ向きな気持ちの私を待っていたのは――地鳴りのような歓声だった。
「おおおおおおっ!!吉祥天女様だーっ!!」
「勝利の女神様が我らとともにおられるぞーっ!!」
数千、数万の武士たちが、私の姿を見た瞬間に槍を突き上げ、地響きのような大歓声を上げた。その熱狂と威圧感に、私は引きつった笑顔を張り付けるのが精一杯だった。
「葵様、お馬でございます!」
伴次郎くんと弥三郎くんが、手綱を引いて一匹の馬を連れてきた。現れたのは、戦国時代独特の、がっしりとした骨太で荒々しい木曽馬だ。気性が荒く、鼻息を荒くして前脚で地面を蹴っている。
「よしよし……大丈夫だよ。怖くないからね……」
馬の目線に合わせ、呼吸を整えてやる。すると、あんなに荒々しかった木曽馬が、一瞬で耳を前に倒し、ブルルッと甘えるように鼻を擦り寄せてきたのだ。私は特注の袴の裾を軽くさばくと、ひらりと軽やかに鐙に足をかけ、一切の無駄がない美しい所作で馬の背へと跨がった。手綱を軽く握り、背筋をピンと伸ばして馬を御してみせる。
その凛とした美しい騎馬姿を見た兵士たちが、一瞬静まり返り――次の瞬間、爆発的な大歓声を上げた。
「うおおおおおっ!!見ろ、あの荒馬が一瞬で大人しくなったぞ!!」
「やはり本物の天女様だ!馬をも従える神通力をお持ちなのだーっ!!」
えぇ!?これはただの馬の調教のノウハウなのに。
私の心の叫びなど届くはずもなく、周囲の「やっぱり本物の神様だ……」という誤解は、光の速さで加速してしまったのだった。
「見事だ、葵。」
白馬に跨がった謙信様が、並び立った私の姿を見て、眩しいものを見るように目を細めた。
「お主は真に……美しく、凛々しい。我が勝利の女神よ。」
あぁ、お願いですから、そんな甘い声で重い言葉を投げかけないでください…。もう、胃が口から出そう…。
「全軍――出陣!!」
私の思いなど知る由もなく。謙信様が刀を空へ掲げ、咆哮した。
「「「うおおおおおっ!!!!」」」
地響きのような鬨の声を背に受けながら、私は考える暇もなく、あれよあれよと押し流されるように、謙信様のすぐ後ろ(最前線直後)に並んで馬を進めることになってしまった。左右を荒川伴次郎くんと色部弥三郎くんがガッチリと固め、影には軒猿たちが目を光らせている。
春の冷たい風の中、上杉の象徴たる『毘』と『龍』の旗印、そしてその中心で輝く『作務衣から変身した勝利の女神(私)』という突飛すぎる軍勢が、武田信玄の待つ川中島へと進撃を開始したのだった――!




