7. 降臨する軍神と、影に宿る誓い
春の気配がほのかに漂い始めた、春日山城下近くの新しい開墾地。
冷たい泥の感触を足裏に感じながら、私は作務衣の袖をまくり上げ、鍬を手に汗を流していた。
「はい、皆さん!植え付けの準備まであと二日ですよー!段取りよくサクサク掘っていきましょう!」
社畜時代に培った営業スマイルを振りまきながら、農民さんたちと一緒に泥まみれになって汗を流す。
水車精米による白米の増産、そして冬の間に仕込んだ極上のお酒や高級布の生産も順調。今日からは、暖かくなったら一気に野菜を育てるための新しい畑の開墾だ。
「葵様!あまり無理をなさいますな!穴掘りは俺たちに任せてくだされば!」
「ううん、みんなと一緒にやるのが一番早いの!ほら、ここ、もうちょっと平らに均して――」
私が笑いながら鍬を振るっていた、まさにその時だった。
――ヒュンッ!
乾いた破裂音とともに、私の目と鼻の先の泥へ、黒い短い矢が突き刺さった。
「え……?」
思考がフリーズした私を置き去りに、異変は一瞬で爆発した。
「敵襲ぅぅぅーーーっ!!」
護衛の兵士が叫び、農民達が一斉にその場に伏せる。
農民の服を着て土を掘っていた男たちの数人が、突如として懐から小太刀や網を取り出し、尋常じゃない速さで私に向かって襲いかかってきたのだ。
「お嬢に触るなァァァ!!」
ど真ん中に割り込んできたのは、伴次郎くんだった。大太刀のような巨大な槍をぶん回し、風を切る音とともに迫る刺客たちを「ガァン!」と力任せになぎ倒す。
「葵様、後ろへ!伴次郎、葵様から離れるな!」
間髪いれずに弥三郎くんが私の前に立ちふさがり、シャキンと澄んだ音を立てて刀を抜いた。冷静な眼差しで敵の動きを見極め、襲いかかる刺客の首筋を的確に一閃する。さらに、どこから現れたのか、空中から黒い影――軒猿の忍者さんたちが次々と舞い降り、暗殺者たちと刃を交え始めた。
屋外の開けた場所が一瞬にして殺伐とした戦場へと変貌する。
嘘でしょ……!?これ、本物の暗殺部隊……!?
「狙いは天女だ!生かして捕らえよ!他国の手に渡る前に連れ去るのだ!」
敵の頭目らしき男が叫ぶ。武田か、北条か、あるいは別の国か――私の現代知識を狙ったガチの乱破たちだ!
「ちっ、網だと……!?伴次郎、下がるな!」
「くそっ、煙まみれで前が見えねえ!」
敵は私を傷つけずに拉致するため、大量の煙幕と鉄線を編み込んだ網を投げつけてきた。煙が視界を奪い、凄まじい混乱が広がる。
「お嬢!?どこだ!」
「葵様!?」
「葵様、どこだ!」
護衛たちの叫び声が煙の向こうへ遠ざかっていく。私は煙に巻かれて咳き込みながら、必死に後ろへ逃げようとした。――しかし。
「きゃっ!?」
足元の深い泥に足を取られ、盛大に尻餅をついてしまう。。泥だらけになった私の目の前、揺らぐ煙を割って、ギラリと光る刀を手にした覆面の男がヌッと現れた。
「……捕らえたぞ、吉祥天女!」
獰猛な笑みを浮かべ、刃が私の首元へと迫る。逃げられない。足が泥に埋まって動かない。迫りくる刃物に恐怖が全身を支配する。
あ……これ、ダメかもしれない!……助けて、…謙信様ッ……!!
死を覚悟し、キュッと目を瞑った――その、瞬間。
ヒヒヒィィィンッ!!!!
地鳴りのような猛烈な馬のいななきと、突風が吹き荒れた。
――ドゴォォォンッ!!
「きゃぁぁぁッ!!」
「ぐあぁぁっ!?」
目の前にいた覆面の男が、馬の猛烈な体当たりを受けて吹き飛んだ。まぶたを開けると、視界を染めたのは、鮮やかな白い頭巾と雪のような羽織――。白馬に跨がり、圧倒的な存在感を放って降臨したのは、謙信様だった。
「我が越後の宝に……手を出そうとは、不届千万!!」
疾風のごとき一太刀。謙信様が振るった日本刀が白光を描き、襲いかかろうとしていた残りの刺客を一瞬で両断した。
「義を持たぬ不詳の輩どもよ!すべて屠ってくれようぞ!」
その圧倒的な強さ、神がかった威圧感。場にいた全員が息を呑み、一瞬でその場の空気が軍神の前に支配された。
「御実城様……!?」
「なぜ、ここに……!?」
「伴次郎、弥三郎!!残党を逃すな!一人残らず、打ち払え!」
「「ハッ!」」
残りの刺客たちを伴次郎くんや弥三郎くん、軒猿たちが一網打尽にしていく中、謙信様はしなやかに馬から飛び降りた。
え……?
思わず、息を呑んだ。いつも清潔で端正で、私を「吉祥天女」として神聖視し、どこか神仏を拝むように大切に距離を置いて接してくれていた謙信様。その謙信様が、高価で美しい着物が泥で汚れることなど一切気にせず、ドカドカと激しい足取りで泥田の中に入ってくる。
「謙信……様……?」
泥にまみれてへたり込む私の前に膝をつくと、謙信様は強い力でガシッと私の肩を掴んだ。
そして――。
「――ッ!!」
そのまま、力強い腕で、泥だらけの私を強く、激しく抱きしめた。
「……葵ッ……!無事か……!?」
耳元で響く、荒い息遣い。狂ったように馬を走らせてきた胸板は熱く、鼓動が早鐘のように激しく波打っている。私の名前を、呼ぶ声は掠れ、回された腕はかすかに震えていた。謙信様の腕の圧倒的な力強さと男らしい汗と沈香の混ざり合った匂い。すべてを感じて、急に体の力が抜ける。
ここは、安全な場所。
謙信様が来てくれた。
守ってくれた。
だから、もう大丈夫。
そう思った瞬間、堰を切ったように大粒の涙があふれ出した。
「うッ、うぇ、こ、怖かった…怖かったよぉ…!もうダメかと…思ッ…!」
泣きながらポロポロと恐怖が口を付いて溢れる。
「謙信、様ぁ…!」
ギュっと謙信様の着物を握り締めれば、回られた腕が強く閉まり、大きな手がゆっくりと背中を撫でた。
「もう、大丈夫だ。…私がいる。」
子供をあやすような優しい口調と強い鼓動。謙信様の大きな体に包まれながら私は、みっともなく子供のように泣き続けた。
…どれほどそうしていたのか。気が付けば周囲から刃物のぶつかる音や喧騒は聞こえなくなっていた。ハッと我に返った私は、自分の置かれた現状に顔を真っ赤にしながら、必死に小さな声で身をよじった。
「謙信様、あ、もう、大丈夫です…!ご迷惑をおかけして申し訳、ありません!!」
慌てて謙信様の両胸に手を付いて体を押せば、ゆっくりと謙信様が離れる。しかし、俺はまだ腰に回ったまま。そして、サラリ…と謙信様の黒髪が揺れて私の顔を覗き込んだ。
「もう、いいのか?」
至近距離の、整った顔にドキッ!と胸が大きく跳ねてますます顔に熱が集まる。
「あ、あの……はい……大丈夫ですッ!それに、私、今、泥だらけで……ッ!」
強い視線から逃れるように視線を落とせば、謙信様の綺麗な着物は、私の涙と泥でひどく汚れていた。
「わわッ!申し訳ありません!謙信様のお着物が汚れて……!」
慌てて引き離そうとする私の手をそっと包み込み、謙信様はゆっくりと腰に回された腕を緩めた。
そして、泥で汚れた私の頬を愛おしそうに見つめると――フッと、世界が止まるほど優しく微笑んだのだ。
「…構わぬ。」
低い、甘い声が鼓膜を揺らす。
「葵が越後のために流した、尊い泥だ。……私がいくら汚れようと、お前が傷つくことに比べれば、塵芥のようなものよ。」
「……ッ!」
その言葉と、あまりにも甘い眼差しに、私の思考回路は完全にショートしたのだった。
同日の夜・春日山城 重臣居住区の稽古場。
ガキィィィンッ!! バンッ!!
夜の静寂を切り裂くように、激しい木刀の打撃音が稽古場に響き渡っていた。
「くそっ……!糞ッ……!糞があぁぁぁっ!!」
上半身裸になった荒川伴次郎は、全身から大粒の汗を散らし、涙と汗で顔をくしゃくしゃにしながら、猛烈な勢いで素振りを繰り返していた。昼間の不甲斐なさ。自慢の怪力と槍術が、敵の忍びの「煙幕と網」という姑息な手に封じられ、葵の前に立つことすらできなかった屈辱。その全てが、悔しくて屈辱でどうしようもなく腹が立った。
「俺の力が足りねえから……!お嬢が目の前で倒れた時、俺の足は動かなかった……! 御実城様が来なけりゃ、お嬢は今頃……!!俺は……俺は何のためにここにいるんだぁぁぁっ!!」
木刀を振り下ろすたびに、己の「雑さ」への怒りが込み上げる。ただ力があるだけでは、あのお方(葵)を守れない。どんな奇襲にも一瞬で反応し、一撃で敵を両断する「本物の速さと精密さ」が必要なのだと、体に刻み込むように木刀を振り続けた。
「静かにしろ、伴次郎……!吠える暇があるなら、私に打ち込んでこい……!」
その木刀を全力で受け止めたのは、前髪を振り乱した色部弥三郎だった。いつもの冷静で気品ある面影はない。彼のプライドもまた、ズタズタに引き裂かれていた。
「悔しいのは……私も同じだ……!!名門色部の名を継ぐ者が、お嬢様を泥に塗れさせ、御実城様に手を煩わせるなど……万死に値する……っ!」
ガキンッ!と伴次郎の木刀を弾き返す。
弥三郎は、己の「読みの甘さ」を激しく恥じていた。葵がいつも口にしていた「段取り」「リスク管理」という言葉。その本当の意味を、彼は今日、死ぬほどの恐怖とともに理解したのだ。これからは、視察ルートのすべてを疑い、最悪の事態を三手先まで想定する「完璧な盾」になると、心の中で血を吐く思いで誓っていた。
「お嬢が…泣いてた…!俺たちがお嬢に怖い思いをさせちまったからだ。」
「ッ…!もう二度と、あの方に涙など流させてやるものか!!」
ガキッと両者の刀がぶつかり合い、鍔迫り合いになだれ込む。二人とも一歩も引かずにグイグイと押し付け合う中、互いの視線がぶつかった。
「強くなるぞ、伴次郎!葵様の為に。そして、選んでいただいた御実城様の期待に応えるためにも!」
「おお!弥三郎!お嬢にはもう怖い想いなんてさせねぇ!ぜってぇ守り抜く!」
二人の稽古は明け方近くまで続いていた。
同日の夜・春日山城 地下暗室
光の届かない地下の暗室。
気配を完全に消した十数人の影――「軒猿」たちが、静まり返った床に平伏していた。その中心に立つのは、謙信の影として生きてきた「軒猿の頭」である。
「……面を上げよ。」
冷徹な、しかし氷の下でマグマが吹き荒れるような怒りを秘めた声が闇を切り裂いた。音もなく忍びたちが顔を上げる。全員が悔しさに唇を噛み締め、血を滲ませていた。
「此度の失態、言い訳の余地はナシ。お前たちが昼間守り損ねたのは……ただの女人ではない。越後の繁栄と、我が主が天下を統一するために、天が遣わされた吉祥天女の御方ぞ!!」
ドカン!と頭の声が一括し、とんできた覇気と殺気に忍びたちの背中に凄まじい緊張の汗が流れる。
「水車を回し、椎茸を実らせ、泥田を黄金の稲穂に変える……あのお方の頭脳こそ、上杉の、いや日ノ本の未来をひっくり返す最高機密。それを甲斐や相模の泥棒猫どもに掠め取られそうになるとは……!軒猿の名が泣くわ! 今一度、そのふやけた心身を地獄の底から鍛え直せ!!」
「「「ハッ……!!」」」
忍び達が首を垂れた中、一人の忍びが顔を上げた。
「お頭、今回の銃撃は甲斐の透波と三ツ者だと思われます。手練れはおりませんでしたので、こちらの動きを把握するための斥候かと。」
「城下では「歩き巫女」の姿も数名、確認しております。見つけ次第始末しておりますが、天女様の育てた農作物や酒を買い込み甲斐に持ち帰っているようです。」
「なるほど…。天女様の事を調べるだけではなく、その頭脳のからくりまで暴こうとするか…。実に腹立たしい。」
頭はドンッと拳を床に押し付ける。
「我らの隠れ里も、天女様の恩恵により農作物が豊かになった。忍び以外の女や子供がたらふく飯を食えるようになったのだ。なんとしても、あのお方は守り通さねばならん!これよりあのお方の影には、倍の頭数を配する。羽虫一匹、あのお方の肌に触れさせるな。不審な者は、一言の弁明も許さずその場で肉塊に変えよ!」
「「「御意。」」」
数日後の夜・葵の屋敷の裏庭
襲撃事件から数日。警戒がさらに厳重になった春日山城の屋敷で、私は夜月を仰いでいた。
……きっと、いるんだよね。
月明かりだけが照らす静かな裏庭を見つめながら、私はぽつりと思った。
あの日、煙の中で命がけで私を守ろうとしてくれた黒い装束の人たち――「軒猿」と呼ばれる忍者さんたちが、今もこの暗闇のどこかで私を見守ってくれていることを、現代人特有の直感で確信していた。
私は庭にある大きくて平らな石の上に、そっと小さな包みを置いた。中身は、水車で精米した白米で握った『小さなおにぎり』と、貴重な『干し柿』、そして出汁を効かせて干した『椎茸のおやつ』だ。誰もいない暗闇に向かって、でも絶対にそこにいる「影」たちに向けて、心からの感謝を込めて語りかけた。
「いつも、見えないところで私を守ってくれて、本当にありがとうございます。」
暗闇に向かって、ふっと微笑む。
「これ、皆さんの分です。誰もいない時に、皆さんで隠れて食べてくださいね。これからもよろしくお願いします。」
そう言い残し、私は静かに部屋へ戻り、障子を閉めた。
葵が部屋に戻った後の裏庭。障子が完全に閉まり、室内から漏れていた明かりが消えた数分後。
「……。」
「……__!」
庭の木々の葉擦れの音に混ざり、息を呑む微かな気配が幾つも湧き上がった。影の中から、一人の若い軒猿が音もなく降り立ち、石の上の包みを震える手で持ち上げた。戦国時代の忍びにとって、他人はすべて疑うべき存在だ。手作りの食べ物など「毒」の危険があるため、決して口にしないのが鉄則。
……だが。
包みを開けた瞬間、そこに漂う温かい出汁の香りと、甘い干し柿。不手際を責めるどころか、自分たちの存在を認め、感謝し、体を労わって握ってくれた慈愛の塊。
「……ッ!」
若い忍びの目から、生まれて初めての涙がポロリとこぼれ落ち、覆面の黒い布を濡らした。
(我らは影。名もなく、光も当たらず、死ねば犬のように捨てられる草……)
(されど……天女様は、我らを見ていてくださった。我らの命を、尊いと言ってくださった……!)
(おお……御実城様が『天下のために天が遣わした』と仰った意味が、今、骨の髄まで理解できた。この御方のためならば……我らはいつでも、喜んで千の肉片に裂かれよう……!)
暗闇の中で、無数の影たちが静かに、けれど苛烈なまでの忠誠を胸に誓っていた。
そして部屋の中では――
謙信様に抱きしめられた時の熱と、「塵芥のようなものよ」という言葉を思い出しては、顔を真っ赤にして布団の中で転がり回る葵の姿があったのだった。




